大佗坊の在目在口

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函館實行寺 馬前一死

2023-04-04 | 會津

本堂の左側、墓地にむかう道に七基の墓碑と石碑が並んでいる。手前に海軍中将榎本武揚篆額による日向真壽見の招魂碑がある。

碑文の終わりのほうに「馬前一死」という強烈な言葉が眼にとまった。榎本武揚はこの言葉をどんな気持ちでみたのだろうか。だれがこの碑の撰文をしたのか気になった。新井田良子著「日向内記の斗南救援工作」にこの招魂碑は大槻修如電撰并書とあり、「明治二十九年仙台の青葉神社境内に建立されたが、青葉神社を公園に拡張した際、撤去されて公園の隅に転がされたままになっていた。これを知った子孫の方が、碑を真壽見のはかがある函館実行寺に送り云々」とあった。昭和50年代に実行寺に移築し、のち住職の望月正一氏が本堂横に再移築したという。大槻修如電は仙台藩士大槻磐渓の長男で弟に国語辞典『言海』を編纂した大槻文彦がいる。日向真壽見は戊辰会津戸ノ口原の戦いで一人戦線を離脱したと言われなき汚名を着せられた白虎士中二番隊隊長日向内記の長男で、陸軍による死亡通知は「山形県酒田居住福島県士族日向真壽見、明治二十八年三月三十日於朝鮮国龍川病院病死義州陸軍埋葬地ヘ埋葬」とあるので、家族は酒田に居住していたのだろう。翌年十二月の陸軍省への嘆願書では凾館区幸町山村友三郎方同居寄留故日向真壽見妻 日向タマとなっているので、二十九年当時、弟山村友三郎方に身を寄せていたと思われる。


日向真壽見について碑文以上の事は分からなかったが、實行寺本堂裏手墓地の山側を少し上った左側に大正六年、日向又太郎建立の日向家の墓があり、傍らに幼く夭折したと思われる娘常盤(二番目の娘)の古い墓石があることから、妻タマの実家山村家の菩提寺が實行寺だったのか、それとも旧会津藩士が多く眠る實行寺を菩提寺としたのかは判らない。会津白虎隊の顛末が軍部に利用され、その原因だと非難された日向内記の長男真壽見一家も苦労の連続だったに違いない。

古者武士道於君之馬前一死盡本分以為臣節全(古は武士道、君の馬前に於いて一死し、本分を尽くし、もって臣節を全たしと為す)。戊辰戦争のあと僅か三十年、今から百三十年ほど前だが例えが凄すぎる。

日向君招魂碑
魂可招乎魂在於天致処無不可招也日向君従外征之軍為異郷之客今茲丙申小
祥忌辰知友旧僚相謀建招魂碑于仙台市青葉祠畔以欲傳君功績未徴余文按状
君諱真壽見会津藩世臣考稱日向内記食禄七百石為大組頭妣諏訪氏君甫十歳
入藩校日新館修行甚勉敷有賞賜十四歳擢世子扈従明年為戊辰之変與父俱従
軍守城乱平因于東京尋赦明治六年為開拓使電信生学一年擧電信局員爾来於
北海道各地従事其職者十年使廃轉工部省技手又補電信修技校助教其後歴任
岡山新発田酒田等電信局長二十三年七月更任仙台電信建築技手駐在酒田及
日清軍起属第一軍兵站部入朝鮮架軍用電線会羅悪疫至平安道龍川遂不起實
二十八年三月三十日也年四十三官追賞其功賜金参百円配山村氏函館人挙両
女長橾次松栄倶幼戊辰之乱君始致身日清之役君終致命雖不負東奥武士之本
分亦誰不壮其行而愍其志余甚賛友僚之擧也乃係以招魂碑辭辤曰
 古者武士道於君之馬前一死盡本分以為臣節全凢奉臣職者不可不皆然
 精神在于比而事業愈堅君今斃其職功名可以傳立石旌君志魂其不高焉
     海軍中将農商務大臣従二位勲一等子爵榎本武揚篆額
            明治二十九年三月三十日有志者建立

 

「会津藩士日向内記の事」

参考文献
新井田良子「日向内記の斗南救援工作」
飯沼一元 「白虎隊士飯沼貞吉の回生」
好川之範 「北の会津士魂」

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