大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

妙心寺塔頭 天球院・麒祥院と長興院

2019-05-08 | 

妙心寺山内には四十六の塔頭があるという。お寺の山内図の塔頭寺院を数えてしまった。何度数えても数が合わない。塔頭の元来の意味の高僧の塔(墓)を言っているのだろうか。寺院の数を数えているうちに、塔頭寺院に院と庵とがあった。有力者が帰依する僧を開祖として創建したのが「院」で、僧の住んでいた庵を塔頭としたものが「庵」だという。「院」には開基と開山がいるわけで、なるほどね~と思う。妙心寺塔頭天球院に行く。
 
 
山門の横にあった京都市の説明によると「天球院は岡山藩主池田光政兄弟が、大叔母天久院のために、寛永八年(1631)から同十二年(1635)にかけて建立した寺院で開山は江山景巴和尚である」、さらに「方丈内部は、狩野山楽・山雪筆による水墨画で飾られ、杉戸には、二十七面にも及び水彩画が描かれており、創建当時の絢爛豪華さを今に伝えている」とあった。この光政兄弟の大叔母天久院と言う人は、池田恒興の娘で若桜鬼ヶ城城主山崎家盛に嫁ぎ、関ヶ原の戦いのあと家盛と別れ、池田輝政弟長吉に身を寄せた。備州岡山城で天久院が住んだということから天球丸(郭)の名が今でも残っている。天久院なのか天球院なのかはっきりしないが、父池田恒興(護国院)と兄輝政(国清院)の墓所がある京都妙心寺護国院(恒興母養徳院建立)のちかく、石田三成父正継の菩提寺、妙心寺壽聖院の寺地の一部を譲受、天球院を建立した。慶安元年(1648)護国院の焼失により、池田光政は和意谷敦土山に池田家墓所を造営し改葬した。アルバイトの青年が天球院の廊下の天井を伏見城落城の床を使った「血天井」だと説明していた。関ヶ原前哨戦だった伏見城の戦いで城の建築物は石田勢に殆どの焼かれたといわれている。しかも、落城は慶長五年(1600)、天球院建立は寛永八年(1631)から同十二年の間、30年以上も材木としてどこかに取って置いたことになる。血天井のある寺院は京都に多くある。伏見城の血天井とする遺構が流布しているのは、観光の客寄せパンダとして魅力的なのだろうか。ここは空と庭以外は複製画も含めて、すべて撮影禁止だった。一部の襖絵を除いて、ほとんどが複製写真の襖絵に拝観料を支払ったと思うとなにかスッキリしなかった。次に寄ったのが麟祥院。
 
 
ここは寛永十一年(1634)、徳川三代将軍家光が乳母の春日局(麟祥院)の追福のため碧翁愚完を開祖とし、妙心寺東側(今の花園木辻町)に香華所を建立、明治三十年に現在地に移転した。御霊屋は仙洞御所の釣殿で、局の死後、二条城より移築されたものという。麟祥院の寺門は稲葉家の家紋「三の字」で、春日局の墓は黒谷の金戒光明寺にある。方丈の前庭は明治になってから作られたもので、枯山水庭園だが、小さな場所に釈迦三尊石、枯滝組、石橋、石切の舟石など石組が多く、少し賑やか過ぎる感じがする。
 
 
妙心寺境内が広いと食事場所を探すのも一苦労する。携帯で検索できるのが有難い。手っとり早く、一番近い花園会館の中にある「花ごころ」に向かう。途中、長興院の門前に書置きの御朱印承りますの立札があった。
 
 
長興院は九天宗瑞を開祖として暘谷庵を創立、のち津田秀政(法号長興院)が再興し院号を改め、以後、津田家の菩提寺となっている。何種類も御朱印があったが「九天と和顔」の二種類お願いした。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 妙心寺塔頭 龍泉庵 | トップ | 智積院庭園と相国寺塔頭慈照... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

」カテゴリの最新記事