大佗坊の在目在口

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藩校育徳館

2010-11-29 | 掃苔
福岡県立育徳館高校を入ると正面に「育徳 長幹」と刻まれた石碑がある。
「育徳」の文字は、旧小倉藩(豊津藩)最後の藩主小笠原忠忱の子
小笠原長幹の揮毫によるものだという。「山下出泉蒙 君子以果行育徳」に
ちなんだ言葉で、「湧き出たばかりの細い泉が、やがては大きな川となるように、
若者も正しい師につき、進んで学べば、立派な人間に成長する」との意である。
創立二百五十年を記念して建立した同窓会の説明碑があった。

 

この学校の西側に黒門がある。一時真念寺の山門となっていたが、
昭和四十五年に育徳館高校に再建された。この育徳館と黒門は、
学校の説明によると、
「宝暦八年(1758)小倉城三の丸に開かれた小笠原藩校
思永齋は思永館となり永く藩士の学問所として栄えた。
慶応二年の御変動で長州に敗れた小笠原藩は香春を経て明治二年
錦原に藩庁を移し同三年(1870)藩校育徳館を開校した。
「黒門」は育徳館正門として建てられた。当初の黒門の位置は
育徳館高校のグランドの中央部付近といわれる。
廃藩置県後学制も改められ、明治七年第三十五番中学育徳学校、
明治十二年福岡県立豊津中学校となり、明治二十年県立豊津尋常
中学校と改められる。、、、、」とあり、毎年、入学式と卒業式に
開門するという。(右 思永館講堂明治35年建)



明治三年、豊津藩は斗南藩の子弟七人の教育を引受、その子弟を藩校
育徳館で学ばせた。神保巖之助、木村新治、斎藤徳治、佐瀬豊太郎、
徳力徳治、郡長正の七名である。

明治四年(1871)五月一日、育徳館は閉鎖されていたが、その寄宿舎
南寮の一室で原因は不明だが郡長正が切腹した。食事がどうのこうのと書かれた
小説の虚構の中の出来事が事実のように伝えられているのが誠に残念に思う。
食うや食わずの生活の斗南から撰ばれて留学した子弟が食事の不平を言う事など
絶対にあり得ないことだと思う。

郡長正が切腹したとき介錯したのが神保巖之助とも云われている。
郡長正は「松平容保喜徳ノ死一等ヲ宥シ、首謀者ヲ誅シ以テ」と会津藩の処分で
藩主の身代わりとして自刃した萱野権兵衛の次男。

神保巖之助は大阪から江戸へ脱出した責任を取らされ江戸三田の藩邸で
切腹を命じられた神保修理の弟。二人は父が兄が、戊辰の戦いで責任を
取らされ自刃している。仲間内で戊辰の戦いの激論があったのだろうか。
郡長正は自刃によって、なんの責任を果たそうとしたのか、残された六名は
この自刃の真相についてなぜ口を閉ざしたのだろう。 話せない理由が
何かあったのだろうか?

九州みやこ郡豊津の甲塚墓地に「郡長正の墓」を訪ねた。
正面「斗南藩郡長正徳位」右側「明治四歳次辛未五月朔日」とある墓碑は
確かに会津を向いていた。傍に平成十二年五月一日百三十回忌法要で会津
川島忠夫氏が建立した戒名の刻まれた石柱が建てられていた。



東京白金の興禅寺に、萱野権兵衛長修と神保長輝の墓が並んでおり、この寺
に長修三男の寛四郎が建立した郡家之墓がある。さらに寛四郎(虎彦)は
豊津の甲塚墓地を訪ね、ここの土を会津に運び会津若松の天寧寺に一族の
墓碑を建立している。



(会津若松の天寧寺)


郡長正の先祖の墓の土台石と会津鶴ヶ城本丸の茶室の庭石を運び造られた
郡長正記念庭園を育徳館高校に訪ねた。忙しいにも係らず事務の女性二人に
校内を丁寧に案内してもらった。


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