大佗坊の在目在口

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函館高龍寺 傷心惨目碑

2023-04-13 | 

函館高龍寺の庫裏左手前に傷心惨目の碑がある。

碑文に「傷心惨目 撰宋岳飛真蹟李華古戦場文学勒石以弔焉 会津残同抱共建 明治十三年」とある。傍の函館市説明板に「明治2(1869)年5月11日、箱館戦争最大の激戦が箱館の市街地で行われた。当時の高龍寺は、もっと坂の下にあり旧幕府脱走軍の箱館病院分院にあてられたが、同日、新政府軍の先鋒隊が乱入し、傷病兵らを殺傷して寺に放火し、会津遊撃隊の者が多数犠牲となったという。明治12(1879)年高龍寺は移転、翌13年に旧会津藩有志がこの碑を建て、斬殺された藩士を供養した」とあった。

碑面の「傷心惨目」は、中国、唐の文人李華「弔古戦場文」の日光寒兮草短月色苦兮霜白 傷心慘目有如是耶からとったもので、文字は中国南宋の忠臣岳飛の真跡を写したものだという。函館病院の頭取医師高松両凌雲の経歴談に「高龍寺分院は敵の来襲を受く、此地に来たし兵は松前、津軽等の弱兵にして院内の意外に静粛なるに疑惧の念を起し突然乱入して懲む可し、病院掛り木下晦蔵を殺害し、医師赤城信一を捕縛せり」、また「無情なる拙劣漢は残酷にも病者十有余名を屠りて後、火を放ちて院を焚く」。凌雲は「嗚呼此両隊の如き無情拙劣漢何ぞ厚顔士と云を得んや」と怒りをぶちまけている。5月初旬の松前戦争の際、松前藩は捕虜とした者を水牢に繋ぎ、健全無恙なる者も水腫を病み、患者の大半は水牢中にて鬼籍に入りしと云う、と凌雲は書き残している。
「弔古戦場文」は、唐玄宗皇帝時代の人、李華が古戦場の悲惨な有様を想像し、戦死者の霊を弔うため作ったと言われている。岳飛は中国紹興十一年(1142)に宰相の秦檜に冤罪を被せられ謀殺された南宋の武将で、のち冤罪が晴れ八十年後に岳廟が建てられた。現在、杭州の西湖のほとりには岳王廟が建立されている。李華の弔古戦場文を岳飛が書き残した真筆から傷心惨目の文字を写したとあるが、李華の歿年ははっきりしないが、神護二年(766、唐大暦二)歿ともあり、岳飛の歿年は康治元年(1142,南宋高宋十二年)なので、その間、三百七十六年になる。傷心惨目碑が建立された明治十三年(1880)まで岳飛歿年から数えて638年になる。岳飛の真蹟なるものが何処にあったのだろうか。昭和十年発行の「志ぐれ草紙」に「島津家に宋の岳飛の真蹟を所蔵せりとぞ、こは征韓軍の時彼地より縦掠し来りよしを、後世左字に刻して摺りたるを見しが頸強いふ計りなく岳飛が気象も筆意に溢れいように見えき、その文は唐の李華が弔古戦場文にて岳飛の跋文あり、その文によれば拐司馬(拐子馬?)の軍に一部將の戰死せしを弔ふため記したるものにて」とあり、この書西郷隆盛等みなこれを習ひ熟せるものと思わるとあり、「南洲翁逸話」にも南洲先生の書風、岳飛の書いた出師表の拓本などを学ばれとある。また、薩摩造士館館長山本正誼「岳飛真蹟取しらべ覚」によれば、天明四年(1784)、琉球飢饉の時、藩士が琉球で岳飛真蹟を購入し藩に献上したという。杭州の岳王廟にある岳飛の書は岳飛真蹟と伝わるとある。文禄・慶長の役は1590年代、岳飛が没してから448年も経つ、朝鮮から略奪した岳飛の書が真蹟だとどうして判定できたのだろうか。碑の中に落款みたいな文字があった。

不鮮明なので色を付けて強調してみた。最初の文字、岳(小篆)しか解らなかった。

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