米軍が最も恐れた男
〜あなたはカメジローを知っていますか?〜
語り 山根基世
このビデオを昨日、フェイスブックで知ることができました。
ここにこの動画を載せることができないので、文字起こしをしながら、お伝えしようと思います。
沖縄の、島ぐるみ闘争の不屈の精神。
その原点となった瀬長亀次郎さんの生き様と共に、沖縄が負わされてきた苦難や、理不尽な迫害の実態が、60年経った今と同じようなものだということを、改めて思い知らされました。
******* ****** ******* *******
↓以下、文字起こしはじめ
普天間基地の移設をめぐり、国に訴えられた裁判の開廷前。
沖縄県の翁長知事は、必ずこの場所に現れた。
「知事がみえました」
リーダーに、自らの思いを託す人々が作る、一体感や高揚感が包む光景。
実はこれを、かつての沖縄にあった、風景と人物に重ねる人も多い。
観光客が行き交う、那覇市の国際通り。
ここで、その人物は、歌になっていた。
♪それは昔むかしその昔 偉い偉い人がいて 島のため人のため 尽くした♪
民衆の先頭に立ち、演説会を開けば、毎回何万もの人を集めた男。
「一番偉い人と思います、はい、大好きですから」
「言葉が好きでしたね、正直で。もうああいう方、いないんですね」
「カメさんとか、カメジローさんとか」
♪おしえてよ 亀次郎♪
その人物とは、瀬長亀次郎。
「「抵抗の戦士」みたいなね、イメージでしたね」
「命を捨てていますからね、何も恐くは無いわけですよ」
「追っかけするのが楽しかったよ。神様みたいだね」
そして、半世紀以上も前の空気が、今、沖縄でよみがえっていると感じている。
「今の戦いとおんなしみたいだ。亀次郎と言う人がいなかったら、こういう盛り上がりはなかったと思うよ」
「沖縄の人を統一させるっていう、団結させるっていうことに、信念を注いでいた人で…」
団結して立ち向かったのは、戦後、沖縄を占領した、アメリカ軍の圧政。
祖国復帰に向けて、民衆をリードしたその人物は、アメリカ軍が、最も恐れた男だった。
米軍が最も恐れた男
〜あなたはカメジローを知っていますか?〜
https://www.facebook.com/groups/763784207089945/
戦後71年の、慰霊の日。
おびただしい数の犠牲を生んだ、悲劇の後も、沖縄の苦難の時は、止まることがない。
そのすべての始まりは、この沖縄戦である。
県民の、4人に1人が命を落とした地上戦は、本土決戦を遅らせるために、日本が、沖縄を捨て石とした戦いだった。
去年発見された、未完成の原稿に、これまで知られていなかった、瀬長亀治郎の、沖縄戦体験が記されていた。
一家は、激しい艦砲射撃が島を襲う中を、逃げ惑っていた。
その道中で、亀治郎が目にした光景だ。
『朝日が上がり、道端に転がっている死人を照らし出した。
死臭で息が詰まるようだ。
鉄帽を射抜かれて、倒れている兵隊。
両足を吹っ飛ばされて、頭と胴体だけで、仰向けに天をにらんでいるおじさん。
頭のない赤ん坊を背負って、あざみの葉を握りしめて、うつ伏せている婦人の死体。
母は気を失って倒れてしまった。
そんな過酷な沖縄戦を、生き延びた人々が、次に直面したのは、捨て石の先に待っていた、占領の時代を生き抜く事だった。
沖縄戦の残骸が、今も自宅周辺で見つかる、島袋善祐さんの記憶に残るのは、夜な夜な家にやってきた、アメリカ兵の姿だ。
島袋さん:
「コレカーラハ、ミンシュシュギデース。モウセンソウハアリマーセン、ってさ、こういうのはまあ、偉い人は言うでしょ。
しかし、夜になると、どんどん女を襲いに来るさね。
ヘイ、オクサーン、ネイサーンって来るさ。
だから、私は、母さんと姉さんは床下に、女はいませーんって。
だから玄関には、男の大きな靴を置いて、女はいないっていう」
(田井等)収容所では、極度の栄養失調で、倒れる人が相次いだ。
配給する食料を、増やすよう訴えた亀次郎たちに、アメリカ兵は言い放った。
「いったい戦争に負けたのは誰なのだ。生きておればそれで良いではないか」
うるま市の一部となった旧石川市は、戦後沖縄の、政治経済の中心地として発展した。
市内のこの民家にできたのが、戦後初の行政組織、沖縄諮詢会。
その会議録に、アメリカ軍幹部(ワトキンス少佐)の発言が残っている。
『軍政府は猫で、沖縄はネズミである。猫の許す範囲しか、ネズミは遊べない』
戦争直後こそ、沖縄戦で住民を虐殺するなどした、日本軍からの解放者と言われたアメリカ軍だったが、次第に、占領者の顔を見せていった。
植民地支配そのものの実態に、亀次郎はこう言った。
「戦争は終わったが、地獄は続いていた。この連中は、県民の味方では無い」
戦後初めて発刊された、うるま新報。
その社長に、亀次郎が就任した。
それをきっかけに、亀次郎は、沖縄中を駆け周り、軍事占領に疑問を持つ人々との関係を強めていった。
そして、ついに立ち上がる。
1947年7月、沖縄人民党を設立。
日本が、無条件降伏の際に受け入れた、ポツダム宣言の主旨に則った綱領を掲げた。
民主主義を確立。
基本的人権を尊重し、自主沖縄の再建を起す、
というものだ。
亀次郎は、ポツダム宣言に出会った感動を、記していた。
『その時の感激は、一生忘れないだろう。
それは、沖縄人民党結成の動機の一つとなり、アメリカ占領軍からの、県民解放の理論的武器になった』
その一方で亀次郎には、市民が、敗戦の負い目から、理不尽な占領軍への抵抗心を、奪われているように見えていた。
そんな心の奥底にあるものを呼び覚まし、一筋の光となったのが、亀治郎の演説だった。
島袋善祐さん:
手を握って、一握りの砂も、一滴の水も、とさや、ぜーんぶ私たちのものだよと。
地球の裏側から来たアメリカは泥棒だよと。
みんなで団結して、負けないようにしようという、こういう話。
それにもう、したいひゃー(あっぱれ)亀治郎!とさや。
さらに、有名なフレーズとなって、今に語り継がれている演説がある。
(演説が行われた那覇私立首里中学校・1950年7月)
この瀬長一人が叫んだならば、50メートル先まで聞こえます。
ここに集まった人々が、声をそろえて叫んだならば、全那覇市民にまで聞こえます。
沖縄70万人民が、声をそろえて叫んだならば、太平洋の荒波を超えて、ワシントン政府を動かすことができます。
その演説会の司会をしていたのが、その後、亀治郎を支えた、仲松庸全さんだ。
仲松さん:
指笛を鳴らして、拍手喝采が鳴り止まないといったようなですね、司会者の私も、その長い拍手をどう止めるかに、苦労した記憶があるんですよ。
その時、誰も口にし得なかった「基地撤去」とかね、「米軍は土地代を支払う」とかね、そういう要求を高く掲げて、演説でやったんですよ。
すごい迫力でしたね。
当時高校生だった、元知事の稲嶺恵一さんも、亀治郎の演説を追いかけていた一人だった。
稲嶺恵一さん:
もう早くから、むしろを持ってね、その一番前に、仲間とみんなでね、聴きに行ったことがありますよ。
強烈にアメリカを叩くわけですよ。やっつけてくれるっていう。
我々はその、若い青年ですから、子どもにとってはね、まあまあ、憧れの人のひとりでしたね。
民衆や大衆の心をつかんでいたという、みんな帰りはすっきりして、ニコニコして、帰ってきましたからね、話を聞いた後。
同じ頃、世界情勢は、急を告げていた。
朝鮮戦争が勃発し(1950年6月)、ソ連との冷戦抗構造が、より深刻化したことで、アメリカは、反共の防波堤として、沖縄を恒久的な基地にする、と宣言した。
翌1951年(9月)、サンフランシスコ講和条約で決まったのは、日本の独立と、沖縄の占領支配。
本土が、経済復興に向かおうとする中で、沖縄は取り残されたのだ。
沖縄を切り離すための環境は、徐々に整えられていた。
GHQ(連合国軍総司令部)マッカーサー最高司令官は、
「琉球は、われわれの自然の国境である。
沖縄人は日本人ではない以上、アメリカの沖縄占領に対して、反対しているようなことは無いようだ」、と明言。
(沖縄新民報紙面にて・1947年7月15日付)
この2ヶ月後、昭和天皇の側近が、GHQに届けたのが、いわゆる天皇メッセージだ。
「琉球諸島の将来に関する天皇の見解」
昭和天皇は、アメリカによる、沖縄の軍事占領が続くことを希望していて、それがアメリカに役立ち、日本に保護を与える、としている。
その形式は、日本に主権を残し、25年ないし50年、あるいは、それ以上の長期租借、と記されている。
そして、日本の独立と共に結ばれたのが、沖縄を基地にした元での、日米安保条約。
沖縄の軍事占領と、日本の非武装化、表裏一体のものだった。
そんな中で、事件は起きた。
世界遺産、首里城。
その正殿の場所には、戦後、アメリカ軍が建設した、琉球大学の校舎があった。
ここで行われたのが、琉球政府創立式典(1952年4月1日)だ。
現在の県議会議員にあたる、立法院議員が、アメリカ軍への忠誠を誓う宣誓が行われた。
全員が脱帽し、直立不動の中、ただ一人、立ち上がらなかった人物がいた。
瀬長亀次郎だった。
仲松さん:
瀬長さんが、鳥打帽子をかぶったまま座っているわけですよ。
おおーっというですね、地鳴りのような声が、会場全体から上がりよったですよ。
驚きの声だったと思う。
それから感動。
アメリカに対する抵抗をね、具体的な形で表したわけですからね。
この行動は、“占領された市民は、占領軍に忠誠を誓うことを強制されない”という、ハーグ陸戦条約を根拠にしたものだった。
この出来事から32年後(1984年)に、当時を振り返る、亀治郎の肉声が残されている。
「我々はね、占拠されたんだから、アメリカじゃなしに、沖縄県民にね、それはそのー誓いますと、いうことは当然ですから。
米国民政府に忠誠を誓うために、選挙されたんじゃないんだと。
アメリカの星条旗の下で宣誓するとは何事だと。
この事件がね、アメリカにとってはね、いわゆる、瀬長の奴は好ましからざる人物、というふうに、極めて印象付けたんじゃないかと」
そして、民衆と一体化していく亀治郎と、アメリカ軍の戦いが始まった。
アメリカは、地主との賃貸契約が不調に終わっても、土地を強制的に取り上げることを可能にし、その土地代の、一括払いの方針を決めた。(『土地収用例』・1953年4月発布)
つまり、基地として、永久に使用することを目論んでいた。
“侵略者の本性むき出しの進軍”
そう強く非難した亀治郎が先頭に立ち、立法院は、土地を守る4原則を打ち出した。
『土地を守る4原則』
⚫️土地代の一括払い反対
⚫️適正、完全な補償
⚫️米軍による損害の賠償
⚫️新規土地接収反対
1954年4月のことだった。
それから半年が経った10月6日、亀治郎が突然、逮捕された。
容疑は、アメリカ軍の退去命令に従わなかった男をかくまった、とするものだった。
弁護士をつけることも妨害された亀治郎は、裁判でこう述べた。
「被告人瀬長の口を、封ずることはできるかもしれないが、虐げられた幾万大衆の口を、封ずることはできない」
「祖国復帰と土地防衛を通じて、日本の独立と平和を勝ち取るために捧げた、瀬長の生命は、大衆の中に生きている」
判決は、懲役2年。
当時のニュースには、アメリカの意向を汲んだ、メディアの姿勢も見える。
琉球ニュース
共産党政治家が、いかに卑劣で欺瞞に満ちているかが、明らかにされたのであります。
そこには、共産主義をレッテルを貼り、亀治郎を徹底的に排除しようとする、占領軍の狙いが、色濃く見えた。
仲松さん:
土地強奪をするのに、一番邪魔になる党を潰しておかんといかんと。
瀬長さんというのは、この県民闘争のですね、県民の要求の、県民の戦いのシンボルですからね。
沖縄刑務所に収監された亀治郎は、克明な日記を綴っていた。
11月2日獄中日記を書き始める。
囚われの身になっても、祖国復帰への想いが、衰える事はなかった。
祖国復帰と土地防衛の戦いが、より熾烈化する年である。
しかし、亀治郎のいない間に、基地は、さらに広がっていった。
普天間基地を抱える、宜野湾市伊佐浜に広がっていた、美しい田園風景。
田畑や家屋を、アメリカ軍の銃剣とブルドーザーは、一気に押しつぶして行った。
質問:
力ずくで追い出すんですか?
前原穂積さん:
もうそうですよ、家を壊していくんだから。
貧弱な木材建ての家ですからね、どんどん壊していく、簡単に。
前原穂積さんは、土地闘争の最前線に立っていた。
前原さん:
住民はやっぱり、座り込みをするとか、そういうことで戦うわけですよね。
それに対して、(米軍は)排除するために銃器を突きつけると。
威嚇するわけよね。
戦いはあっという間に終わりをつげていた。
住民たちが一旦引き上げた、翌朝のこと。
前原さん:
朝起きたら、全部、(金網が)張り巡らされていたね。
こっちが寝ている間にやられた。
一夜にして、伊佐浜の風景は、一変した。
ブルドーザーを運転していたのは、アメリカ軍に雇われた、沖縄の人々だった。
何をやるかはギリギリまで知らされず、逆らうことはできなかった。
前原さん:
たーぶか(田んぼがよく実る所)っつってね、伊佐のたーぶかっつったら、有名だったんですよ。
米がよくできると。
生命の糧ですよ。
土地を離れては生活できないと。
生命の糧は、その面影すらなくなり、基地へと姿を変えた。
この場所にあった、沖縄戦から立ち直ろうとする住民たちの暮らしは、また、軍隊によって奪われていった。
亀治郎の獄中日記より:
伊佐浜の土地の収奪は、身を切られる思いがする。
伊佐浜民の地獄の苦しみを思い、ほとんど一睡もしなかった。
残虐な事件も、後を絶たなかった。
同じ年の9月、わずか6歳の女の子が、アメリカ兵に誘拐、乱暴され、惨殺された。
事件は、仲松さんの脳裏を離れない。
仲松さん:
6つになる女の子がね、ああいう形で、ハート軍曹に、強姦されて殺されて、唇を噛んで、草を握り締めて死んでいる、幼い女の子をね思うと、
今でも、あのー、怒りの涙が、こぼれそうな感じがするんですよ。
この(犯人の)ハート軍曹は、死刑判決が出て、米国に帰されたけれども、米国でどうなったかはね、全然情報が無い。
今まで誰も知らない。
それが、アメリカ兵犯罪の実態だった。
獄中日記(1955年9月21日)
腹の底からの怒りである。
鬼畜に劣る米兵の行動…
団結を固めよう。
三度叫ぶ。
一切の利己心を捨てよ。
その呼びかけは、現代でいう、オール沖縄の結集だった。
この獄中日記には、家族からの手紙が閉じられていた。
「お父さんは体が悪いそうですね」
次女ちひろさんが、父の体調を気遣う手紙だった。
「わたしもやがて5年生です」
千尋さんにとっての、一番の思い出の場所、それは、かつての自宅があった場所だ。
瀬長亀治郎の次女・内村千尋さん:
パークサイドビルって書いてありますけど、あれのちょっと前で、当時はもっと、1メートルぐらいしか離れてませんでした。
すぐ隣にあるのが刑務所の壁で、監視塔が目の前にあった。
千尋さん:
囚人を監視するためだったら、中に作るはずだけど、なんで外に作ったのかなって不思議だったんですけど、
今考えたら、この亀治郎の自宅や、隣にあった、人民党本部を監視するために作ったのかなーって、いう気さえしますね。
だから、この独房から、大きな屋根が見えるって。
それで、屋根が見えてとても心強いって、この独房は大好きだって書いてあるんですよ(笑)。
しかし、そばにいながら、触れることさえできない。
千尋さんにとって、父亀治郎は、近くて遠い存在だった。
小さな心を痛めていた様子が、亀治郎の日記からも伺える。
亀治郎の獄中日記(1955年11月18日)
11月18日、3時ごろ、文とチビがやって来た。
チビは、相変わらずだまっている。
オヤジの変わり果てた姿を見て、小さい瞳に、つゆの玉がやどっていた。
千尋さん:
やっぱりあのー、なんか、刑務所に入っているっていうことは、とても、あのー、わたしにとってはショックだったと思うんですよ。
でも、周りは、あなたのお父さんは、みんなのことを救うっていってね、逮捕されてるんだから、とっても偉い人なんだよーって、言う人たちがたくさんいたんですよ。
その声の現れか、逮捕から1年半後にやってきた、出獄の時(1956年4月9日)。
亀治郎の前には、その帰りを待つ人々が、通りを埋め尽くしていた。
千尋さん:
後から写真とかを全部見るとね、看守の人、刑務官の人とか、所長さんらしき人とかね、みんな笑顔で送り出してるんですよ。
現在の裁判所の土地にあったのが、かつての沖縄刑務所。
亀治郎が人々の大歓迎を受けたのは、国と県が、法廷闘争を行っている場所だった。
千尋さん:
ここを、自宅に向かって、歩いているわけです。
当時ですね、みんなが、えーっと、20名以上だったかな、まず行進するのには、届け出が必要な布令があったんですよ。
だからみんなが、亀治郎の後を付いて歩いたら行進になるから、動かないでください、僕が動きます。
っていうことを言ったって、なんかのメモに書いてあるんですよ。
今も残されている、出獄の際に着ていた白いスーツ。
その時の決意を、こう語った。
亀治郎:
これ以上、祖国復帰を叫ぶならば、再び監獄に入れられるかもしれないが、投獄もいとわない気持ちである。
その夜、歓迎大会に集まった、1万を超える人々。
そこにあったのは、亀治郎を前に、祖国復帰への想いをさらに大きくした、民衆の姿だった。
沖縄タイムス(1956年4月10日付)
しかし、アメリカ軍との、新たな攻防が始まろうとしていた。
ーその2につづく
〜あなたはカメジローを知っていますか?〜
語り 山根基世
このビデオを昨日、フェイスブックで知ることができました。
ここにこの動画を載せることができないので、文字起こしをしながら、お伝えしようと思います。
沖縄の、島ぐるみ闘争の不屈の精神。
その原点となった瀬長亀次郎さんの生き様と共に、沖縄が負わされてきた苦難や、理不尽な迫害の実態が、60年経った今と同じようなものだということを、改めて思い知らされました。
******* ****** ******* *******
↓以下、文字起こしはじめ
普天間基地の移設をめぐり、国に訴えられた裁判の開廷前。
沖縄県の翁長知事は、必ずこの場所に現れた。
「知事がみえました」
リーダーに、自らの思いを託す人々が作る、一体感や高揚感が包む光景。
実はこれを、かつての沖縄にあった、風景と人物に重ねる人も多い。
観光客が行き交う、那覇市の国際通り。
ここで、その人物は、歌になっていた。
♪それは昔むかしその昔 偉い偉い人がいて 島のため人のため 尽くした♪
民衆の先頭に立ち、演説会を開けば、毎回何万もの人を集めた男。
「一番偉い人と思います、はい、大好きですから」
「言葉が好きでしたね、正直で。もうああいう方、いないんですね」
「カメさんとか、カメジローさんとか」
♪おしえてよ 亀次郎♪
その人物とは、瀬長亀次郎。
「「抵抗の戦士」みたいなね、イメージでしたね」
「命を捨てていますからね、何も恐くは無いわけですよ」
「追っかけするのが楽しかったよ。神様みたいだね」
そして、半世紀以上も前の空気が、今、沖縄でよみがえっていると感じている。
「今の戦いとおんなしみたいだ。亀次郎と言う人がいなかったら、こういう盛り上がりはなかったと思うよ」
「沖縄の人を統一させるっていう、団結させるっていうことに、信念を注いでいた人で…」
団結して立ち向かったのは、戦後、沖縄を占領した、アメリカ軍の圧政。
祖国復帰に向けて、民衆をリードしたその人物は、アメリカ軍が、最も恐れた男だった。
米軍が最も恐れた男
〜あなたはカメジローを知っていますか?〜
https://www.facebook.com/groups/763784207089945/
戦後71年の、慰霊の日。
おびただしい数の犠牲を生んだ、悲劇の後も、沖縄の苦難の時は、止まることがない。
そのすべての始まりは、この沖縄戦である。
県民の、4人に1人が命を落とした地上戦は、本土決戦を遅らせるために、日本が、沖縄を捨て石とした戦いだった。
去年発見された、未完成の原稿に、これまで知られていなかった、瀬長亀治郎の、沖縄戦体験が記されていた。
一家は、激しい艦砲射撃が島を襲う中を、逃げ惑っていた。
その道中で、亀治郎が目にした光景だ。
『朝日が上がり、道端に転がっている死人を照らし出した。
死臭で息が詰まるようだ。
鉄帽を射抜かれて、倒れている兵隊。
両足を吹っ飛ばされて、頭と胴体だけで、仰向けに天をにらんでいるおじさん。
頭のない赤ん坊を背負って、あざみの葉を握りしめて、うつ伏せている婦人の死体。
母は気を失って倒れてしまった。
そんな過酷な沖縄戦を、生き延びた人々が、次に直面したのは、捨て石の先に待っていた、占領の時代を生き抜く事だった。
沖縄戦の残骸が、今も自宅周辺で見つかる、島袋善祐さんの記憶に残るのは、夜な夜な家にやってきた、アメリカ兵の姿だ。
島袋さん:
「コレカーラハ、ミンシュシュギデース。モウセンソウハアリマーセン、ってさ、こういうのはまあ、偉い人は言うでしょ。
しかし、夜になると、どんどん女を襲いに来るさね。
ヘイ、オクサーン、ネイサーンって来るさ。
だから、私は、母さんと姉さんは床下に、女はいませーんって。
だから玄関には、男の大きな靴を置いて、女はいないっていう」
(田井等)収容所では、極度の栄養失調で、倒れる人が相次いだ。
配給する食料を、増やすよう訴えた亀次郎たちに、アメリカ兵は言い放った。
「いったい戦争に負けたのは誰なのだ。生きておればそれで良いではないか」
うるま市の一部となった旧石川市は、戦後沖縄の、政治経済の中心地として発展した。
市内のこの民家にできたのが、戦後初の行政組織、沖縄諮詢会。
その会議録に、アメリカ軍幹部(ワトキンス少佐)の発言が残っている。
『軍政府は猫で、沖縄はネズミである。猫の許す範囲しか、ネズミは遊べない』
戦争直後こそ、沖縄戦で住民を虐殺するなどした、日本軍からの解放者と言われたアメリカ軍だったが、次第に、占領者の顔を見せていった。
植民地支配そのものの実態に、亀次郎はこう言った。
「戦争は終わったが、地獄は続いていた。この連中は、県民の味方では無い」
戦後初めて発刊された、うるま新報。
その社長に、亀次郎が就任した。
それをきっかけに、亀次郎は、沖縄中を駆け周り、軍事占領に疑問を持つ人々との関係を強めていった。
そして、ついに立ち上がる。
1947年7月、沖縄人民党を設立。
日本が、無条件降伏の際に受け入れた、ポツダム宣言の主旨に則った綱領を掲げた。
民主主義を確立。
基本的人権を尊重し、自主沖縄の再建を起す、
というものだ。
亀次郎は、ポツダム宣言に出会った感動を、記していた。
『その時の感激は、一生忘れないだろう。
それは、沖縄人民党結成の動機の一つとなり、アメリカ占領軍からの、県民解放の理論的武器になった』
その一方で亀次郎には、市民が、敗戦の負い目から、理不尽な占領軍への抵抗心を、奪われているように見えていた。
そんな心の奥底にあるものを呼び覚まし、一筋の光となったのが、亀治郎の演説だった。
島袋善祐さん:
手を握って、一握りの砂も、一滴の水も、とさや、ぜーんぶ私たちのものだよと。
地球の裏側から来たアメリカは泥棒だよと。
みんなで団結して、負けないようにしようという、こういう話。
それにもう、したいひゃー(あっぱれ)亀治郎!とさや。
さらに、有名なフレーズとなって、今に語り継がれている演説がある。
(演説が行われた那覇私立首里中学校・1950年7月)
この瀬長一人が叫んだならば、50メートル先まで聞こえます。
ここに集まった人々が、声をそろえて叫んだならば、全那覇市民にまで聞こえます。
沖縄70万人民が、声をそろえて叫んだならば、太平洋の荒波を超えて、ワシントン政府を動かすことができます。
その演説会の司会をしていたのが、その後、亀治郎を支えた、仲松庸全さんだ。
仲松さん:
指笛を鳴らして、拍手喝采が鳴り止まないといったようなですね、司会者の私も、その長い拍手をどう止めるかに、苦労した記憶があるんですよ。
その時、誰も口にし得なかった「基地撤去」とかね、「米軍は土地代を支払う」とかね、そういう要求を高く掲げて、演説でやったんですよ。
すごい迫力でしたね。
当時高校生だった、元知事の稲嶺恵一さんも、亀治郎の演説を追いかけていた一人だった。
稲嶺恵一さん:
もう早くから、むしろを持ってね、その一番前に、仲間とみんなでね、聴きに行ったことがありますよ。
強烈にアメリカを叩くわけですよ。やっつけてくれるっていう。
我々はその、若い青年ですから、子どもにとってはね、まあまあ、憧れの人のひとりでしたね。
民衆や大衆の心をつかんでいたという、みんな帰りはすっきりして、ニコニコして、帰ってきましたからね、話を聞いた後。
同じ頃、世界情勢は、急を告げていた。
朝鮮戦争が勃発し(1950年6月)、ソ連との冷戦抗構造が、より深刻化したことで、アメリカは、反共の防波堤として、沖縄を恒久的な基地にする、と宣言した。
翌1951年(9月)、サンフランシスコ講和条約で決まったのは、日本の独立と、沖縄の占領支配。
本土が、経済復興に向かおうとする中で、沖縄は取り残されたのだ。
沖縄を切り離すための環境は、徐々に整えられていた。
GHQ(連合国軍総司令部)マッカーサー最高司令官は、
「琉球は、われわれの自然の国境である。
沖縄人は日本人ではない以上、アメリカの沖縄占領に対して、反対しているようなことは無いようだ」、と明言。
(沖縄新民報紙面にて・1947年7月15日付)
この2ヶ月後、昭和天皇の側近が、GHQに届けたのが、いわゆる天皇メッセージだ。
「琉球諸島の将来に関する天皇の見解」
昭和天皇は、アメリカによる、沖縄の軍事占領が続くことを希望していて、それがアメリカに役立ち、日本に保護を与える、としている。
その形式は、日本に主権を残し、25年ないし50年、あるいは、それ以上の長期租借、と記されている。
そして、日本の独立と共に結ばれたのが、沖縄を基地にした元での、日米安保条約。
沖縄の軍事占領と、日本の非武装化、表裏一体のものだった。
そんな中で、事件は起きた。
世界遺産、首里城。
その正殿の場所には、戦後、アメリカ軍が建設した、琉球大学の校舎があった。
ここで行われたのが、琉球政府創立式典(1952年4月1日)だ。
現在の県議会議員にあたる、立法院議員が、アメリカ軍への忠誠を誓う宣誓が行われた。
全員が脱帽し、直立不動の中、ただ一人、立ち上がらなかった人物がいた。
瀬長亀次郎だった。
仲松さん:
瀬長さんが、鳥打帽子をかぶったまま座っているわけですよ。
おおーっというですね、地鳴りのような声が、会場全体から上がりよったですよ。
驚きの声だったと思う。
それから感動。
アメリカに対する抵抗をね、具体的な形で表したわけですからね。
この行動は、“占領された市民は、占領軍に忠誠を誓うことを強制されない”という、ハーグ陸戦条約を根拠にしたものだった。
この出来事から32年後(1984年)に、当時を振り返る、亀治郎の肉声が残されている。
「我々はね、占拠されたんだから、アメリカじゃなしに、沖縄県民にね、それはそのー誓いますと、いうことは当然ですから。
米国民政府に忠誠を誓うために、選挙されたんじゃないんだと。
アメリカの星条旗の下で宣誓するとは何事だと。
この事件がね、アメリカにとってはね、いわゆる、瀬長の奴は好ましからざる人物、というふうに、極めて印象付けたんじゃないかと」
そして、民衆と一体化していく亀治郎と、アメリカ軍の戦いが始まった。
アメリカは、地主との賃貸契約が不調に終わっても、土地を強制的に取り上げることを可能にし、その土地代の、一括払いの方針を決めた。(『土地収用例』・1953年4月発布)
つまり、基地として、永久に使用することを目論んでいた。
“侵略者の本性むき出しの進軍”
そう強く非難した亀治郎が先頭に立ち、立法院は、土地を守る4原則を打ち出した。
『土地を守る4原則』
⚫️土地代の一括払い反対
⚫️適正、完全な補償
⚫️米軍による損害の賠償
⚫️新規土地接収反対
1954年4月のことだった。
それから半年が経った10月6日、亀治郎が突然、逮捕された。
容疑は、アメリカ軍の退去命令に従わなかった男をかくまった、とするものだった。
弁護士をつけることも妨害された亀治郎は、裁判でこう述べた。
「被告人瀬長の口を、封ずることはできるかもしれないが、虐げられた幾万大衆の口を、封ずることはできない」
「祖国復帰と土地防衛を通じて、日本の独立と平和を勝ち取るために捧げた、瀬長の生命は、大衆の中に生きている」
判決は、懲役2年。
当時のニュースには、アメリカの意向を汲んだ、メディアの姿勢も見える。
琉球ニュース
共産党政治家が、いかに卑劣で欺瞞に満ちているかが、明らかにされたのであります。
そこには、共産主義をレッテルを貼り、亀治郎を徹底的に排除しようとする、占領軍の狙いが、色濃く見えた。
仲松さん:
土地強奪をするのに、一番邪魔になる党を潰しておかんといかんと。
瀬長さんというのは、この県民闘争のですね、県民の要求の、県民の戦いのシンボルですからね。
沖縄刑務所に収監された亀治郎は、克明な日記を綴っていた。
11月2日獄中日記を書き始める。
囚われの身になっても、祖国復帰への想いが、衰える事はなかった。
祖国復帰と土地防衛の戦いが、より熾烈化する年である。
しかし、亀治郎のいない間に、基地は、さらに広がっていった。
普天間基地を抱える、宜野湾市伊佐浜に広がっていた、美しい田園風景。
田畑や家屋を、アメリカ軍の銃剣とブルドーザーは、一気に押しつぶして行った。
質問:
力ずくで追い出すんですか?
前原穂積さん:
もうそうですよ、家を壊していくんだから。
貧弱な木材建ての家ですからね、どんどん壊していく、簡単に。
前原穂積さんは、土地闘争の最前線に立っていた。
前原さん:
住民はやっぱり、座り込みをするとか、そういうことで戦うわけですよね。
それに対して、(米軍は)排除するために銃器を突きつけると。
威嚇するわけよね。
戦いはあっという間に終わりをつげていた。
住民たちが一旦引き上げた、翌朝のこと。
前原さん:
朝起きたら、全部、(金網が)張り巡らされていたね。
こっちが寝ている間にやられた。
一夜にして、伊佐浜の風景は、一変した。
ブルドーザーを運転していたのは、アメリカ軍に雇われた、沖縄の人々だった。
何をやるかはギリギリまで知らされず、逆らうことはできなかった。
前原さん:
たーぶか(田んぼがよく実る所)っつってね、伊佐のたーぶかっつったら、有名だったんですよ。
米がよくできると。
生命の糧ですよ。
土地を離れては生活できないと。
生命の糧は、その面影すらなくなり、基地へと姿を変えた。
この場所にあった、沖縄戦から立ち直ろうとする住民たちの暮らしは、また、軍隊によって奪われていった。
亀治郎の獄中日記より:
伊佐浜の土地の収奪は、身を切られる思いがする。
伊佐浜民の地獄の苦しみを思い、ほとんど一睡もしなかった。
残虐な事件も、後を絶たなかった。
同じ年の9月、わずか6歳の女の子が、アメリカ兵に誘拐、乱暴され、惨殺された。
事件は、仲松さんの脳裏を離れない。
仲松さん:
6つになる女の子がね、ああいう形で、ハート軍曹に、強姦されて殺されて、唇を噛んで、草を握り締めて死んでいる、幼い女の子をね思うと、
今でも、あのー、怒りの涙が、こぼれそうな感じがするんですよ。
この(犯人の)ハート軍曹は、死刑判決が出て、米国に帰されたけれども、米国でどうなったかはね、全然情報が無い。
今まで誰も知らない。
それが、アメリカ兵犯罪の実態だった。
獄中日記(1955年9月21日)
腹の底からの怒りである。
鬼畜に劣る米兵の行動…
団結を固めよう。
三度叫ぶ。
一切の利己心を捨てよ。
その呼びかけは、現代でいう、オール沖縄の結集だった。
この獄中日記には、家族からの手紙が閉じられていた。
「お父さんは体が悪いそうですね」
次女ちひろさんが、父の体調を気遣う手紙だった。
「わたしもやがて5年生です」
千尋さんにとっての、一番の思い出の場所、それは、かつての自宅があった場所だ。
瀬長亀治郎の次女・内村千尋さん:
パークサイドビルって書いてありますけど、あれのちょっと前で、当時はもっと、1メートルぐらいしか離れてませんでした。
すぐ隣にあるのが刑務所の壁で、監視塔が目の前にあった。
千尋さん:
囚人を監視するためだったら、中に作るはずだけど、なんで外に作ったのかなって不思議だったんですけど、
今考えたら、この亀治郎の自宅や、隣にあった、人民党本部を監視するために作ったのかなーって、いう気さえしますね。
だから、この独房から、大きな屋根が見えるって。
それで、屋根が見えてとても心強いって、この独房は大好きだって書いてあるんですよ(笑)。
しかし、そばにいながら、触れることさえできない。
千尋さんにとって、父亀治郎は、近くて遠い存在だった。
小さな心を痛めていた様子が、亀治郎の日記からも伺える。
亀治郎の獄中日記(1955年11月18日)
11月18日、3時ごろ、文とチビがやって来た。
チビは、相変わらずだまっている。
オヤジの変わり果てた姿を見て、小さい瞳に、つゆの玉がやどっていた。
千尋さん:
やっぱりあのー、なんか、刑務所に入っているっていうことは、とても、あのー、わたしにとってはショックだったと思うんですよ。
でも、周りは、あなたのお父さんは、みんなのことを救うっていってね、逮捕されてるんだから、とっても偉い人なんだよーって、言う人たちがたくさんいたんですよ。
その声の現れか、逮捕から1年半後にやってきた、出獄の時(1956年4月9日)。
亀治郎の前には、その帰りを待つ人々が、通りを埋め尽くしていた。
千尋さん:
後から写真とかを全部見るとね、看守の人、刑務官の人とか、所長さんらしき人とかね、みんな笑顔で送り出してるんですよ。
現在の裁判所の土地にあったのが、かつての沖縄刑務所。
亀治郎が人々の大歓迎を受けたのは、国と県が、法廷闘争を行っている場所だった。
千尋さん:
ここを、自宅に向かって、歩いているわけです。
当時ですね、みんなが、えーっと、20名以上だったかな、まず行進するのには、届け出が必要な布令があったんですよ。
だからみんなが、亀治郎の後を付いて歩いたら行進になるから、動かないでください、僕が動きます。
っていうことを言ったって、なんかのメモに書いてあるんですよ。
今も残されている、出獄の際に着ていた白いスーツ。
その時の決意を、こう語った。
亀治郎:
これ以上、祖国復帰を叫ぶならば、再び監獄に入れられるかもしれないが、投獄もいとわない気持ちである。
その夜、歓迎大会に集まった、1万を超える人々。
そこにあったのは、亀治郎を前に、祖国復帰への想いをさらに大きくした、民衆の姿だった。
沖縄タイムス(1956年4月10日付)
しかし、アメリカ軍との、新たな攻防が始まろうとしていた。
ーその2につづく
日本は、いまだに占領国家である、
沖縄は、日本さらにアメリカに支配・占領されている、
ということです。
それなのになぜ、日本総督のようなアベ・シンゾーが支持されているのか。
教育が大切だなあと、今ごろになって思います。
「植民地教育」ではない教育。
時間は掛かりますが、ほんとうの独立国になるための唯一の方法だと思います。
そしてそれは、長年に渡る教育と報道による、歪曲された現実と歴史を頭に叩き込まれてきたからだと思う。
時間がどれだけかかろうが、こんなままで日本が日本であり続けていけるわけがないと思うので、がんばらないとね、ほんとに。
亀次郎さんの動画はこの夏に見つけて 是非少しでも多くの人に見てもらいたいと思っていました
本当の政治と 本当の政治家が不在の現在の世の中、 亀次郎さんが伝えるエネルギーは、少なくとも私に元気は与えてくれましたから
私も日本は戦後 植民地でなかったことはないと思っています
そして 今日本人がしなければいけないことは、日本に真の自由など与えられていないということ
ただの猫の居ぬ間のネズミの自由であるということ、日本は植民地であるのだということを 認識する事だと
そう認識して初めて 真の自由を獲得するための全うな動きができるのだと思っています
ということで、 私のブログで動画を紹介したいと思っていましたが、動画は、、という方のために こちらの記事も紹介させていただきたいと思っています
よろしくお願いいたします
これまでわたしたちが享受してきた安全・安心・快適・便利な世界が、どのような仕組みで作り上げられているのかに気づくのに、これほどの時間がかかってしまったことに、まず唖然とし、激しく後悔し、そして反省しました。
junkoさんがおっしゃるように、気づくこと、知ること、そして考えることがとても大切ですね。
なので、このブログ内の記事を、紹介していただけるのは、とてもありがたいです。どうぞよろしくお願いします。