瀬長亀次郎の不屈の精神が、どのように、沖縄の人々の心に受け継がれてきたか。
アメリカ軍がいかにして、この不屈の人亀次郎を、民衆の前から追放しようとしたか。
その執拗さ、強引さは、アメリカ軍がいかにこの亀次郎を恐れていたかを示すものですが、
そのアメリカ軍の小汚い策略を成功に導き、亀次郎を議会から追放することを実現させた人間は、仲井真元櫂という名の議員であり、仲井真元知事の父親なのでした。
親子二代で、沖縄の人々の思いを踏みにじっていたことを知り、なんともいえない気持ちになりました。
では、長いこと間が空いてしまいましたが、前回の文字起こしの続きです。
******* ******* ******* *******
沖縄公文書館には、アメリカ軍が、徹底的に亀次郎の行動を分析した、機密文書が保管されている。
その名も『瀬長亀次郎ファイル』。
琉球諸島の共産主義のリーダーと警戒し、調べ上げた家族構成。
アメリカ軍がマークするきっかけとなった、あの宣誓拒否について、亀次郎自身が述べた演説のメモ。
さらには、上京した亀次郎を、徹底的に尾行した記録も残されている。
その行動に、訴追できる材料は無いか、監視の目は常に、亀次郎を追っていた。
その頃、軍用地問題に関する報告書が、沖縄に大きな波紋を広げていた。
調査団長の名前から、プライス勧告と呼ばれた報告書は、アメリカ軍の土地代の一括払いや、軍用地接収の正当性を唱えている。
亀次郎らが打ち出した四原則を、真っ向から否定するもので、それに対する怒りは、ついに、島ぐるみ闘争へ発展していった。
そんな中で、亀次郎は、那覇市長選挙に立候補(1956年12月)。
市長選を、プライス勧告を押し付ける勢力との対決、と位置付けた。
それでも、投票日直前に、新たな土地の接収があきらかになった。
接収されたのは、普天間基地の移設をめぐって揺れる、名護市辺野古。
その原点は、60年前にあったのだ。
亀次郎も、日記に記していた。
亀次郎日記(1956年12月21日)
そして、その4日後の市長選挙を制したのは、亀次郎だった。
市民は、クリスマスプレゼントだと言って、沸きに沸いたが、選挙中、亀次郎を中傷するビラを上空から撒いていたアメリカは、衝撃を受けていた。
那覇市長としての立場は、瀬長に、過激な反米プロパガンダや、琉球における、アメリカの地位を揺さぶる、新たな武器を与えることになるだろう。
さらに、亀次郎の勝因を、軍用地収用計画に対する強い反対姿勢や、綱領として掲げた日本復帰が支持された、と分析した。
米軍諜報報告(1956年12月27日)
沖縄の近現代史を研究する比屋根教授は、市長当選の意味を、こう考える。
琉球大学名誉教授・比屋根照夫さん:
抵抗する瀬長の姿、あるいは、逮捕投獄された瀬長の姿、というものに、沖縄の魂の殉教者というかな、そういうものを市民は発見した。
民主主義を勝ち取るという、瀬長のこの言葉ですね、『民主主義』という言葉は、やっぱりその、キラキラと光っていた。
民主主義国家であるはずのアメリカは、民主主義で選ばれた亀次郎の追放工作を強めていく。
那覇市への補助金を凍結し、アメリカ軍が大株主である銀行の預金を封鎖した。
沖縄タイムス・琉球新報(1956年12月28日付)
その措置は、銀行単独で発表され、アメリカの介入には、一切言及されなかった。
自らは関与していないかのように振る舞う兵糧詰めだった。
米沖縄総領事発・国務長官宛航空書簡(1956年12月28日付)
すると、市役所に、市民の長蛇の列ができるようになっていた。
その列に驚いたのが、当時の那覇市職員、宮里政秋さんだ。
宮里さん:
おばあちゃん、何しに来たの?ったらね、アメリカーが瀬長市長をいじめるから、税金を納めに来たさー!目を輝かせて怒ってね、
行列してる人に何しに来たのって、そう言うと、そう答えました。
いじめればいじめるほど、(市民は)瀬長市政を守れと団結する。
亀次郎を助けようと、納税に訪れた市民の列だった。
納税率は飛躍的に上がり、97%に達したとも言われる。
その自主財源により、止まっていた公共工事も再開。
しかし、今度は、別の悩みも生まれていた。
アメリカ軍の司令により、銀行が集まった税金を預からないのだ。
宮里さん:
新しく銀行買って、現金をね、銀行に納めて、置いてるお金をね、寝泊りしてね、中にはシェパードも連れてきてね。
このシェパード、人に噛みつくんかって聞いたら、いや、人民党には噛みつかないって(笑)。
亀次郎は、市民の激励に支えられていた。
その手紙の多くは、弾圧を恐れて、匿名の差出人が目立っていた。
アメリカが次に手を伸ばしたのは、市議会だった。
那覇市議会(1957年6月)
分断を図るバージャー民生官と、連絡を密にする市議がいた。
亀次郎日記(1957年6月16日)
仲井真元櫂は、さかんに、バージャー民生官と連絡を取って…、
仲井真前知事の父であった。
亀次郎日記
1時開会と同時に、仲井真議員緊急動議とともに、不信任案を上程。
画策していたのは、不信任案可決による追放だった。
駆けつけた多くの市民で議場があふれる中、攻防が繰り返されたが、結局、少数与党である亀次郎派は、不信任成立を許す。
瀬長市長不信任可決(1957年6月17日)
議事録に、議場騒然という言葉が12回も出てくる、混乱の中での可決だった。
亀次郎は、アメリカと沖縄の財界人たちの圧力に負けた、この屈辱の議会に、解散を命じると、議会を解散。
市議選に突入したが、それでも市民は、亀次郎派を躍進させた。
その祝賀会の挨拶で、亀次郎は、当選した市議を、沖縄に生息するガジュマルに例えた。
敗れた敵陣営の候補を、その木陰で休ませ、同じガジュマルになれと説得し、民主主義を嵐から守り抜く体制を取ろうと呼びかけた。
千尋さん:
目の前にいる人たちが敵じゃないってことが、わかっているわけですよ。
こんなふうにさせてるアメリカが悪いんだってことがわかってるので、なんで同じ沖縄の人同士、こんなに争うか?
アメリカに残されたのは、最後の、究極の手段だった。
亀次郎日記(1957年9月10日)
連中は、もう一つしかない手を考え出した。
即ち、不信任成立と同時に布令を出し、瀬長が立候補できないようにする。
その通りに、アメリカ軍は、布令を改定する。
市町村自治法改定(1957年11月23日)
不信任議決の要件を、議員の3分の2の出席から、過半数に緩和した上に、復活阻止のため、投獄された過去を理由に、亀次郎の被選挙権を奪った。
この、いわゆる、“瀬長布令”によって、アメリカは遂に、亀次郎の追放に成功したのである。
亀次郎はこう言い残して、市役所を去った。
「この追放司令によって、瀬長市長を追放することは可能である。
だが、可能でないのは一つある。
祖国復帰をしなければならないという、見えざる力が、50日後に迫った選挙において、やがて現れ、第二の瀬長がはっきりと登場することを、ここに宣言しておく」
亀次郎日記
市長追放の祝杯は、やがて苦汁に変わるだろう。
今、瀬長ががっかりしようものなら、市民はどうなる?
さあ、戦いは新しい段階に踏み込んだ。
頑張れだ。
むしろ、闘志をかき立てられる亀次郎の姿があった。
亀次郎日記:
私は勝ちました。
アメリカは負けました。
第二の瀬長を出すのだ。
それが、布令に対するこよなきプレゼントになるのだ。
仲松さんは、亀次郎が勝ったという意味を、こう理解している。
仲松さん:
アメリカはね、正々堂々と、私と対決することができないでね、権力でね、弾圧でね、私を追放した。
これは私が正義であるんだと。
民主主義者であるということの証明だという意味じゃないでしょうか。
人間的に勝利した、ということじゃないですかね。
自らの後継を選ぶ選挙でも、先頭に立った。
立会い演説会に詰め掛けた、十万の大衆を前に、祖国復帰を訴え続ける。
そして、第二の瀬長当選へ導いたのである。
市長選で後継候補当選(1958年1月13日)
これが、亀次郎を追放したアメリカ軍に、市民が出した答だった。
残されている32年前のインタビュー(1984年取材)で、亀次郎はこう語っている。
「えー、この歴史はね、正しい者が必ず勝つんだと。
で、正しくない者は負けるぞと。必ず報復されると、いう歴史の流れね、その鉄則は、間違いなくね、鉄則通り進んでいくと、いうふうに考えております」
そして、この民意の前に、アメリカは、自らの占領政策を見直す検討に入っていった。
検討されたのは、将来に渡って確保する、基地以外の施政権を変換する、飛び地変換。
あれほどこだわった土地代の一括払いを取り下げ、引き上げに応じた。
亀次郎の抵抗は、民衆の意識を変え、社会の力となって、アメリカ軍の施政を変えさせることに結びついていた。
一定の成果を見せた『島ぐるみ闘争』。
その後、日本復帰運動につながっていく。
本土の世論も動かすに至り、政権の最大の課題となった沖縄返還は、日米両政府が合意、1969年11月のことである。
日米首脳会談(1969年11月)
しかし、その実像は、沖縄が望んだものではなかった。
基地は、そのまま残った。
翌年、亀次郎の姿は、国会にあった。
亀次郎初登院(1970年11月24日)
再度、布令が改められたことで、被選挙権を取り戻し、戦後初めて、沖縄から選ばれた、国会議員のひとりになっていた。
衆院/沖縄・北方問題特別委員会(1971年12月4日)
その舞台で、佐藤総理に迫った。
亀次郎:
返還が目的ではなくて、基地の維持が目的である。
この協定は、決して沖縄県民が、26年間、血の叫びで求め要求した返還協定ではない。
この沖縄の大地は、再び戦場となることを拒否する。
基地となることを拒否する。
佐藤栄作元首相:
基地のない沖縄、かように言われましても、それは、すぐにはできないことであります。
しかし私どもは、ただいま言われる、そういう意味の、平和な、豊かな沖縄県づくり、これにひとつ、まい進しなければならない。
このやり取りの5ヶ月後(1972年5月15日)、沖縄は、日本に復帰した。
しかし、その後見えた政治の姿は、佐藤の言葉からは、あまりにほど遠いものである。
その後も、基地あるが故の事件は、後を絶たず、民衆の決起は続く。
少女暴行事件・沖縄県民総決起大会(1995年10月21日)
しかし、この場に、亀次郎の姿は無かった。
病床で、この模様を見ていたのだという。
その様子を、妻のフミさんが、歌にしていた。
<デモ隊を テレビに見る目輝きて 胸中燃えしか病床の夫> 瀬長フミ
2001年10月5日、亀次郎は、94歳で、生涯の幕を閉じた。
マジムン(魔物)=基地を退治できなかったことが心残り、という言葉を残して。
その人生は、ムシロの綾のように真っ直ぐ生きなさいという、母の教えを守り続けたものだった。
瀬長亀次郎と民衆資料
亀次郎の大きな写真が、訪れる人々を迎え、多くの資料が、その足跡を伝えている。
館長を務めるのは、次女千尋さんだ。
資料館の名は『不屈館』。
亀次郎が好んで記した『不屈』から取ったものだ。
千尋さん:
なぜ自分が『不屈』って書くか。
沖縄の県民の闘いがね、とても不屈だったっていうことで、自分はこの言葉を色紙に好んで書いてるって言うんですね。
でも、県民は、亀次郎のことを、不屈の人って言うんですよ。
だから『不屈』なんだろうって思ってるけど、亀次郎は、県民の闘いが不屈なんで、自分はこの言葉が好きだって言ってるんですね。
亀次郎の精神は、辺野古で生きていた。
辺野古の海で抗議行動をするのは、金井創さん。
新基地建設反対の民意を実現させるために、何ができるのか。
勤務する大学が、全国からの募金で購入した小型船舶に、金井さんは、亀次郎の筆跡そのままに、不屈と命名した。
金井さん:
団結して、そして一人一人のそういう決意と覚悟っていうですね、まあここにこう込められて。
沖縄・南城市
牧師として活動する教会の説教でも、辺野古での活動にふれることがある。
当初は、金井さんらの行動を、心良く思っていなかった、仲間の船長のことだ。
金井さん:
あんな反対運動をしている人たちは、大嫌いだった。
ところが、海が埋め立てられて、しかも、生活の場が破壊されていく、ということを実感した時に、
あの反対運動をしていた人たちが頑張ってきたから、今まで基地は造られなかったんだ、という思いに至った。
ということで、彼は加わって、今いっしょに船長をしています。
仲間に加わった頃を、仲宗根和成さんは、こう振り返る。
仲宗根さん:
国とけんかして、なんかメリットあるのかな?っていうのが、正直な気持ちでしたね。
これそのまま見逃してたら、多分、僕らはもういいですけど、これから生まれてくる子とか、次の大人になる世代が、まあ絶対難儀するだろうなと。
そっからですね、その思いが入っていって、直接俺が行動しないと、自分が行動しないと変わらない。
不屈という命名には、最初は驚いたという。
仲宗根さん:
なんとか丸ですよ普通、船のは。
いっしょに闘っていくと、なんかこう、気持ちはほんとにわかりますね、その、金井さんがつけたこの想いってのもわかるし。
瀬長さんとか、まだ沖縄の先人のみなさんが闘ってた想いも、ほんとにわかります。
それで、いっしょにやってるんだと。
今いない、天国にい生きる先輩たちも、この想いでやってたんだなと思うと、やっぱり諦められないですよね。
ほんとに、不屈ですよね。
瀬長さんの人形が飾られてるから、いっしょに闘ってます。
そんな仲宗根さんとの出会いを、金井さんは、亀次郎が残した言葉に重ねている。
〝弾圧は抵抗を呼び、抵抗は友を呼ぶ〟(瀬長亀次郎のことば)
こういうことでもなければ、およそ出会うことがない、あるいは、同じ席に着くはずもないような人たちが、友になるっていうすごい出来事が、起こっててきましたし、今もそれは起こっていて、
ああ、瀬長さんが言われた言葉って、ほんとにそれは体験から言われたんでしょうし、そしてそれは時を超えて、私たちも日頃実感していることです。
裁判の和解で、海は静けさを取り戻していたが、再び、国が県を訴えた。
この海はまた、闘いの場となるのだろう。
止めよう辺野古新基地建設!沖縄県民大会(2015年5月17日)
「我々は屈しない!」
不屈の精神は、60年の時を超えて、沖縄県民の心に根ざしていた。
伝来のリーダーも、あの時代に、その原点を見出している。
『瀬長亀次郎先生の生き様は、私も心から尊敬しておりました』
翁長知事・就任挨拶(2014年12月12日):
過重な基地負担に立ち向かうことができるのは、先人たちが土地を守るための、熾烈な島ぐるみ闘争で、ウチナーンチュの誇りを貫いたからであります。
その先頭にいたのが、瀬長亀次郎、その人であった。
翁長知事:
えー、私たちは、どのように厳しいことがあっても、粘り強く、力強く、そして未来を見つめて頑張って、
そして、何十年間、子や孫が、歴史を振り返って、あの頃の私たちが頑張ったから、今の私たちがあるんだねと言われるような、そういう想いを持って、頑張っていかなければならないと。
頑張ろう〜!!
千尋さんは、父の出獄に集まった民衆たちを、思い出していた。
千尋さん:
出獄してくるシーンがね、こんな熱気だったと思うんですよ。
みんながまた、自分たちの所に戻ってきたっていうことを、ちょうどこの辺りで、みんなが、何百人の人が待ち受けて歓迎をしたという雰囲気が、あの写真とダブって、多分嬉しかったんだろうなって思って、
場所もまさに今のここなので。
この民衆の力っていうのは、同じだと思いますね。
亀次郎の闘いが、今に伝えるもの。
今も、未来を探し続ける民衆の闘いに、その答はある。
比屋根教授:
沖縄は、過酷な現実を常に目の前にしていますから、その(思想の)血脈や潮流は、途絶えることがない。
民主主義というものを武器にして、闘うということを、あのアメリカの、米軍の重圧下で、沖縄の人は学んだということですね。
だから、闘いというか、沖縄の運動は、途絶えないわけですね。
それは海が〜〜と泣いている
自然を壊す人がいる
約束は守らず祖国
あなたならどうする。
愛と涙
おしえてよ亀次郎
亀次郎の日記には、こんなことが記されていた。
亀次郎日記
民衆の憎しみに包囲された軍事基地の価値は、0に等しい。
戦後の沖縄で、アメリカ軍が最も恐れた男。
あなたは、亀次郎を知っていますか?
アメリカ軍がいかにして、この不屈の人亀次郎を、民衆の前から追放しようとしたか。
その執拗さ、強引さは、アメリカ軍がいかにこの亀次郎を恐れていたかを示すものですが、
そのアメリカ軍の小汚い策略を成功に導き、亀次郎を議会から追放することを実現させた人間は、仲井真元櫂という名の議員であり、仲井真元知事の父親なのでした。
親子二代で、沖縄の人々の思いを踏みにじっていたことを知り、なんともいえない気持ちになりました。
では、長いこと間が空いてしまいましたが、前回の文字起こしの続きです。
******* ******* ******* *******
沖縄公文書館には、アメリカ軍が、徹底的に亀次郎の行動を分析した、機密文書が保管されている。
その名も『瀬長亀次郎ファイル』。
琉球諸島の共産主義のリーダーと警戒し、調べ上げた家族構成。
アメリカ軍がマークするきっかけとなった、あの宣誓拒否について、亀次郎自身が述べた演説のメモ。
さらには、上京した亀次郎を、徹底的に尾行した記録も残されている。
その行動に、訴追できる材料は無いか、監視の目は常に、亀次郎を追っていた。
その頃、軍用地問題に関する報告書が、沖縄に大きな波紋を広げていた。
調査団長の名前から、プライス勧告と呼ばれた報告書は、アメリカ軍の土地代の一括払いや、軍用地接収の正当性を唱えている。
亀次郎らが打ち出した四原則を、真っ向から否定するもので、それに対する怒りは、ついに、島ぐるみ闘争へ発展していった。
そんな中で、亀次郎は、那覇市長選挙に立候補(1956年12月)。
市長選を、プライス勧告を押し付ける勢力との対決、と位置付けた。
それでも、投票日直前に、新たな土地の接収があきらかになった。
接収されたのは、普天間基地の移設をめぐって揺れる、名護市辺野古。
その原点は、60年前にあったのだ。
亀次郎も、日記に記していた。
亀次郎日記(1956年12月21日)
そして、その4日後の市長選挙を制したのは、亀次郎だった。
市民は、クリスマスプレゼントだと言って、沸きに沸いたが、選挙中、亀次郎を中傷するビラを上空から撒いていたアメリカは、衝撃を受けていた。
那覇市長としての立場は、瀬長に、過激な反米プロパガンダや、琉球における、アメリカの地位を揺さぶる、新たな武器を与えることになるだろう。
さらに、亀次郎の勝因を、軍用地収用計画に対する強い反対姿勢や、綱領として掲げた日本復帰が支持された、と分析した。
米軍諜報報告(1956年12月27日)
沖縄の近現代史を研究する比屋根教授は、市長当選の意味を、こう考える。
琉球大学名誉教授・比屋根照夫さん:
抵抗する瀬長の姿、あるいは、逮捕投獄された瀬長の姿、というものに、沖縄の魂の殉教者というかな、そういうものを市民は発見した。
民主主義を勝ち取るという、瀬長のこの言葉ですね、『民主主義』という言葉は、やっぱりその、キラキラと光っていた。
民主主義国家であるはずのアメリカは、民主主義で選ばれた亀次郎の追放工作を強めていく。
那覇市への補助金を凍結し、アメリカ軍が大株主である銀行の預金を封鎖した。
沖縄タイムス・琉球新報(1956年12月28日付)
その措置は、銀行単独で発表され、アメリカの介入には、一切言及されなかった。
自らは関与していないかのように振る舞う兵糧詰めだった。
米沖縄総領事発・国務長官宛航空書簡(1956年12月28日付)
すると、市役所に、市民の長蛇の列ができるようになっていた。
その列に驚いたのが、当時の那覇市職員、宮里政秋さんだ。
宮里さん:
おばあちゃん、何しに来たの?ったらね、アメリカーが瀬長市長をいじめるから、税金を納めに来たさー!目を輝かせて怒ってね、
行列してる人に何しに来たのって、そう言うと、そう答えました。
いじめればいじめるほど、(市民は)瀬長市政を守れと団結する。
亀次郎を助けようと、納税に訪れた市民の列だった。
納税率は飛躍的に上がり、97%に達したとも言われる。
その自主財源により、止まっていた公共工事も再開。
しかし、今度は、別の悩みも生まれていた。
アメリカ軍の司令により、銀行が集まった税金を預からないのだ。
宮里さん:
新しく銀行買って、現金をね、銀行に納めて、置いてるお金をね、寝泊りしてね、中にはシェパードも連れてきてね。
このシェパード、人に噛みつくんかって聞いたら、いや、人民党には噛みつかないって(笑)。
亀次郎は、市民の激励に支えられていた。
その手紙の多くは、弾圧を恐れて、匿名の差出人が目立っていた。
アメリカが次に手を伸ばしたのは、市議会だった。
那覇市議会(1957年6月)
分断を図るバージャー民生官と、連絡を密にする市議がいた。
亀次郎日記(1957年6月16日)
仲井真元櫂は、さかんに、バージャー民生官と連絡を取って…、
仲井真前知事の父であった。
亀次郎日記
1時開会と同時に、仲井真議員緊急動議とともに、不信任案を上程。
画策していたのは、不信任案可決による追放だった。
駆けつけた多くの市民で議場があふれる中、攻防が繰り返されたが、結局、少数与党である亀次郎派は、不信任成立を許す。
瀬長市長不信任可決(1957年6月17日)
議事録に、議場騒然という言葉が12回も出てくる、混乱の中での可決だった。
亀次郎は、アメリカと沖縄の財界人たちの圧力に負けた、この屈辱の議会に、解散を命じると、議会を解散。
市議選に突入したが、それでも市民は、亀次郎派を躍進させた。
その祝賀会の挨拶で、亀次郎は、当選した市議を、沖縄に生息するガジュマルに例えた。
敗れた敵陣営の候補を、その木陰で休ませ、同じガジュマルになれと説得し、民主主義を嵐から守り抜く体制を取ろうと呼びかけた。
千尋さん:
目の前にいる人たちが敵じゃないってことが、わかっているわけですよ。
こんなふうにさせてるアメリカが悪いんだってことがわかってるので、なんで同じ沖縄の人同士、こんなに争うか?
アメリカに残されたのは、最後の、究極の手段だった。
亀次郎日記(1957年9月10日)
連中は、もう一つしかない手を考え出した。
即ち、不信任成立と同時に布令を出し、瀬長が立候補できないようにする。
その通りに、アメリカ軍は、布令を改定する。
市町村自治法改定(1957年11月23日)
不信任議決の要件を、議員の3分の2の出席から、過半数に緩和した上に、復活阻止のため、投獄された過去を理由に、亀次郎の被選挙権を奪った。
この、いわゆる、“瀬長布令”によって、アメリカは遂に、亀次郎の追放に成功したのである。
亀次郎はこう言い残して、市役所を去った。
「この追放司令によって、瀬長市長を追放することは可能である。
だが、可能でないのは一つある。
祖国復帰をしなければならないという、見えざる力が、50日後に迫った選挙において、やがて現れ、第二の瀬長がはっきりと登場することを、ここに宣言しておく」
亀次郎日記
市長追放の祝杯は、やがて苦汁に変わるだろう。
今、瀬長ががっかりしようものなら、市民はどうなる?
さあ、戦いは新しい段階に踏み込んだ。
頑張れだ。
むしろ、闘志をかき立てられる亀次郎の姿があった。
亀次郎日記:
私は勝ちました。
アメリカは負けました。
第二の瀬長を出すのだ。
それが、布令に対するこよなきプレゼントになるのだ。
仲松さんは、亀次郎が勝ったという意味を、こう理解している。
仲松さん:
アメリカはね、正々堂々と、私と対決することができないでね、権力でね、弾圧でね、私を追放した。
これは私が正義であるんだと。
民主主義者であるということの証明だという意味じゃないでしょうか。
人間的に勝利した、ということじゃないですかね。
自らの後継を選ぶ選挙でも、先頭に立った。
立会い演説会に詰め掛けた、十万の大衆を前に、祖国復帰を訴え続ける。
そして、第二の瀬長当選へ導いたのである。
市長選で後継候補当選(1958年1月13日)
これが、亀次郎を追放したアメリカ軍に、市民が出した答だった。
残されている32年前のインタビュー(1984年取材)で、亀次郎はこう語っている。
「えー、この歴史はね、正しい者が必ず勝つんだと。
で、正しくない者は負けるぞと。必ず報復されると、いう歴史の流れね、その鉄則は、間違いなくね、鉄則通り進んでいくと、いうふうに考えております」
そして、この民意の前に、アメリカは、自らの占領政策を見直す検討に入っていった。
検討されたのは、将来に渡って確保する、基地以外の施政権を変換する、飛び地変換。
あれほどこだわった土地代の一括払いを取り下げ、引き上げに応じた。
亀次郎の抵抗は、民衆の意識を変え、社会の力となって、アメリカ軍の施政を変えさせることに結びついていた。
一定の成果を見せた『島ぐるみ闘争』。
その後、日本復帰運動につながっていく。
本土の世論も動かすに至り、政権の最大の課題となった沖縄返還は、日米両政府が合意、1969年11月のことである。
日米首脳会談(1969年11月)
しかし、その実像は、沖縄が望んだものではなかった。
基地は、そのまま残った。
翌年、亀次郎の姿は、国会にあった。
亀次郎初登院(1970年11月24日)
再度、布令が改められたことで、被選挙権を取り戻し、戦後初めて、沖縄から選ばれた、国会議員のひとりになっていた。
衆院/沖縄・北方問題特別委員会(1971年12月4日)
その舞台で、佐藤総理に迫った。
亀次郎:
返還が目的ではなくて、基地の維持が目的である。
この協定は、決して沖縄県民が、26年間、血の叫びで求め要求した返還協定ではない。
この沖縄の大地は、再び戦場となることを拒否する。
基地となることを拒否する。
佐藤栄作元首相:
基地のない沖縄、かように言われましても、それは、すぐにはできないことであります。
しかし私どもは、ただいま言われる、そういう意味の、平和な、豊かな沖縄県づくり、これにひとつ、まい進しなければならない。
このやり取りの5ヶ月後(1972年5月15日)、沖縄は、日本に復帰した。
しかし、その後見えた政治の姿は、佐藤の言葉からは、あまりにほど遠いものである。
その後も、基地あるが故の事件は、後を絶たず、民衆の決起は続く。
少女暴行事件・沖縄県民総決起大会(1995年10月21日)
しかし、この場に、亀次郎の姿は無かった。
病床で、この模様を見ていたのだという。
その様子を、妻のフミさんが、歌にしていた。
<デモ隊を テレビに見る目輝きて 胸中燃えしか病床の夫> 瀬長フミ
2001年10月5日、亀次郎は、94歳で、生涯の幕を閉じた。
マジムン(魔物)=基地を退治できなかったことが心残り、という言葉を残して。
その人生は、ムシロの綾のように真っ直ぐ生きなさいという、母の教えを守り続けたものだった。
瀬長亀次郎と民衆資料
亀次郎の大きな写真が、訪れる人々を迎え、多くの資料が、その足跡を伝えている。
館長を務めるのは、次女千尋さんだ。
資料館の名は『不屈館』。
亀次郎が好んで記した『不屈』から取ったものだ。
千尋さん:
なぜ自分が『不屈』って書くか。
沖縄の県民の闘いがね、とても不屈だったっていうことで、自分はこの言葉を色紙に好んで書いてるって言うんですね。
でも、県民は、亀次郎のことを、不屈の人って言うんですよ。
だから『不屈』なんだろうって思ってるけど、亀次郎は、県民の闘いが不屈なんで、自分はこの言葉が好きだって言ってるんですね。
亀次郎の精神は、辺野古で生きていた。
辺野古の海で抗議行動をするのは、金井創さん。
新基地建設反対の民意を実現させるために、何ができるのか。
勤務する大学が、全国からの募金で購入した小型船舶に、金井さんは、亀次郎の筆跡そのままに、不屈と命名した。
金井さん:
団結して、そして一人一人のそういう決意と覚悟っていうですね、まあここにこう込められて。
沖縄・南城市
牧師として活動する教会の説教でも、辺野古での活動にふれることがある。
当初は、金井さんらの行動を、心良く思っていなかった、仲間の船長のことだ。
金井さん:
あんな反対運動をしている人たちは、大嫌いだった。
ところが、海が埋め立てられて、しかも、生活の場が破壊されていく、ということを実感した時に、
あの反対運動をしていた人たちが頑張ってきたから、今まで基地は造られなかったんだ、という思いに至った。
ということで、彼は加わって、今いっしょに船長をしています。
仲間に加わった頃を、仲宗根和成さんは、こう振り返る。
仲宗根さん:
国とけんかして、なんかメリットあるのかな?っていうのが、正直な気持ちでしたね。
これそのまま見逃してたら、多分、僕らはもういいですけど、これから生まれてくる子とか、次の大人になる世代が、まあ絶対難儀するだろうなと。
そっからですね、その思いが入っていって、直接俺が行動しないと、自分が行動しないと変わらない。
不屈という命名には、最初は驚いたという。
仲宗根さん:
なんとか丸ですよ普通、船のは。
いっしょに闘っていくと、なんかこう、気持ちはほんとにわかりますね、その、金井さんがつけたこの想いってのもわかるし。
瀬長さんとか、まだ沖縄の先人のみなさんが闘ってた想いも、ほんとにわかります。
それで、いっしょにやってるんだと。
今いない、天国にい生きる先輩たちも、この想いでやってたんだなと思うと、やっぱり諦められないですよね。
ほんとに、不屈ですよね。
瀬長さんの人形が飾られてるから、いっしょに闘ってます。
そんな仲宗根さんとの出会いを、金井さんは、亀次郎が残した言葉に重ねている。
〝弾圧は抵抗を呼び、抵抗は友を呼ぶ〟(瀬長亀次郎のことば)
こういうことでもなければ、およそ出会うことがない、あるいは、同じ席に着くはずもないような人たちが、友になるっていうすごい出来事が、起こっててきましたし、今もそれは起こっていて、
ああ、瀬長さんが言われた言葉って、ほんとにそれは体験から言われたんでしょうし、そしてそれは時を超えて、私たちも日頃実感していることです。
裁判の和解で、海は静けさを取り戻していたが、再び、国が県を訴えた。
この海はまた、闘いの場となるのだろう。
止めよう辺野古新基地建設!沖縄県民大会(2015年5月17日)
「我々は屈しない!」
不屈の精神は、60年の時を超えて、沖縄県民の心に根ざしていた。
伝来のリーダーも、あの時代に、その原点を見出している。
『瀬長亀次郎先生の生き様は、私も心から尊敬しておりました』
翁長知事・就任挨拶(2014年12月12日):
過重な基地負担に立ち向かうことができるのは、先人たちが土地を守るための、熾烈な島ぐるみ闘争で、ウチナーンチュの誇りを貫いたからであります。
その先頭にいたのが、瀬長亀次郎、その人であった。
翁長知事:
えー、私たちは、どのように厳しいことがあっても、粘り強く、力強く、そして未来を見つめて頑張って、
そして、何十年間、子や孫が、歴史を振り返って、あの頃の私たちが頑張ったから、今の私たちがあるんだねと言われるような、そういう想いを持って、頑張っていかなければならないと。
頑張ろう〜!!
千尋さんは、父の出獄に集まった民衆たちを、思い出していた。
千尋さん:
出獄してくるシーンがね、こんな熱気だったと思うんですよ。
みんながまた、自分たちの所に戻ってきたっていうことを、ちょうどこの辺りで、みんなが、何百人の人が待ち受けて歓迎をしたという雰囲気が、あの写真とダブって、多分嬉しかったんだろうなって思って、
場所もまさに今のここなので。
この民衆の力っていうのは、同じだと思いますね。
亀次郎の闘いが、今に伝えるもの。
今も、未来を探し続ける民衆の闘いに、その答はある。
比屋根教授:
沖縄は、過酷な現実を常に目の前にしていますから、その(思想の)血脈や潮流は、途絶えることがない。
民主主義というものを武器にして、闘うということを、あのアメリカの、米軍の重圧下で、沖縄の人は学んだということですね。
だから、闘いというか、沖縄の運動は、途絶えないわけですね。
それは海が〜〜と泣いている
自然を壊す人がいる
約束は守らず祖国
あなたならどうする。
愛と涙
おしえてよ亀次郎
亀次郎の日記には、こんなことが記されていた。
亀次郎日記
民衆の憎しみに包囲された軍事基地の価値は、0に等しい。
戦後の沖縄で、アメリカ軍が最も恐れた男。
あなたは、亀次郎を知っていますか?