ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

10人のうちの7人が投票をすると、大きな変化が必ず生まれる!

2016年02月20日 | 日本とわたし
『Let's Go!在外選挙!』のイベントが昨日、マンハッタンで行われました。


もしこのイベントに、在外選挙人名簿登録をしていない人が10名以上参加したら、総領事の方々が出張で手続きをしに来てくださるということで、必死になって声かけしたのですが、
いやはや、なかなか難しいものですね、会の日時が合わなかったり、興味が無かったり、面倒だと言われたり…。
でも、諦めきれずにしつこく頼んで、とりあえず我が家からはわたしを入れて3人、手続きをしに行くことになりました。
で、どうやらイベント会場が、次男くんの会社のすぐ近くだということが分かり、ほんじゃー手続きだけ済ませて会社見学しよう~などと盛り上がっていたら、
そんなら僕も!と、いきなり夫も一緒に行くことになってしまいました。
なぜしまったかというと、夫が来る→手続きの間ぐらいしか待つことができない→本当はやっぱり聞こうよ~と、現場で息子を無理やり席に座らせて、一緒に話を聞こうと思っていた計画がオジャンになる。

というわけで、自分の手続きの準備はもちろんのこと、家族の、それもほぼ興味が無さそうな二人分の手続きの準備もして、当日に臨んだわけなのですが、
まさに文字通りラストミニッツまで、LINEとテキストで緊急連絡が続いたという、かなりカオスな状況でした。

わたしと夫は、わたしの仕事が終わってすぐの電車に飛び乗ったのですが、会場まではなんとかスムースに行けたので、手続きを無事に済ますことができました。


実はもう汗だく。
しかも、出したことが無いと思い込んでいた在留届が、2000年に出されていましたと指摘されて大慌て。
もし記載されている情報と現在が違っている部分があったら、赤ペンで書き直してくださいと言われ、必死で書き直しているところです。
係の方々は、お二方ともとても親切で、分かりやすく説明してくださいました。
結局、16年前に、息子たちを連名にして提出した在留届も、今回勘違いして、新たに出したわたし個人の在留届と次男くん個人の在留届も、すべて活かせておくことになりました。
「まあ、連絡のメールがたくさん送られてくるっていうことぐらいですから」と言われ苦笑い。

さて、こんな感じで、手続きが終わってすぐに会場を出なければならなかったので、写真はReikoさんがフェイスブックに載せてくださったものをお借りします。

会場には、予想していたよりもたくさんの人が来てくださっていました。


我らが歩美ちゃん、主催者の笑顔。


時間を大延期して、書類のまとめをしながら、会の進行を見守っておられる領事館のお二人。


この方こそが、今から23年前に、海外の在外選挙システムを、全くのゼロから築き上げた人、竹永氏です。


いったいどんなふうにしていったのか、そのお話を是非とも聞かせていただきたかったのですが叶わず…、
なので、いただいたプログラムの中に載っていたお話を、ここに書き起こしさせていただきます。

たった一人の若者の戦い
竹永浩之(在ニュージャージー)


「なぜ在外投票運動を始めたんですか?」

いまでもそういう質問を受けることがときどきある。
1993年10月、私はここニューヨークで在外投票運動を始めた。
アメリカに来て1年半、27歳の時だった。

なぜ始めたのか、自分でもよくわからない。
政治には全く興味がなく、市民運動の類いも大嫌いだった。
ニューヨークに来る前は、アジアを放浪。
その前は、沖縄で、素潜りの漁師をしていた。
日本の総理大臣が誰かも知らなかった。
当然のように、投票もしたことがなかったのである。
そういう人間が突然、在外投票運動なるものを始めた。
理由は不明。
それはまるで、空から何かが降りてきて、私に乗り移ったかのようだった。
気がついたときには、まわりの日本人に、
「在外投票制度を作りたいんですけど、どうしたらいいんですか?」と聞いて回っている自分がいた。
いきなり聞かれたほうも、さぞかしビックリしたと思う。

ある人から「署名運動がいいんじゃない」とアドバイスされ、早速友人からボロボロのワープロをもらい、署名用紙を作成。
ついでにFAXも購入した。
さらに、以前から在外投票運動を黙々と続けていた、オーストラリア・シドニーの保坂佳秀さんの存在を知り、すかさず連絡。
ニューヨークとシドニーで、同時に署名運動をスタートすることにした。

全くの世間知らずだったこともあり、運動のやり方も独特というか、いま思えばメチャクチャだった。
「在外投票権署名の会」という会を作ったところまではよかったが、運営の仕方がまったくわからない。
そこで、メンバーをできるだけ少なくし、ミーティングなども極力開かないようにした。
要するに、私だけの独裁制にしたかったのである。
一応、それなりの理由はあった。
組織維持にパワーを使うより、在外投票制度実現のために全力投球したかったのだ。

海外に住んでいることもあり、日本の国会議事堂前でデモすることもないし、毎日何らかの作業があって人数が必要というわけでもない。
マスコミの取材を受ける際に、会員の数を聞かれたら、適当に答えればいいだけの話だ。
実際、日本での記者会見で会員数を聞かれたとき、「100人です」と平然と答えた。
大した度胸である。

「運動は仲良しクラブではない」
なぜかはわからないが、そう信じていた。
ゴールは在外投票制度の実現。
それのみである。
不必要な事は一切したくなかった。
仲間もいらなかった。
たしかに、私自身が途中でくじけてしまい、ニューヨークでの運動がポシャってしまう可能性もあったが、そんなことは想像もしなかった。
今考えると、自分でも恐ろしくなる。
運動に関して、もうひとつ決めたことがあった。
「ゲリラ戦を多用すること」
会員がいないので、組織力は使えない。
その代わり、物事をすぐ決めてすぐ行動できる。
長所は機動性だった。
さまざまな作戦を次から次へと仕掛ける。
武器はアイディアとスピードだ。

たとえば、世界中で展開した在外投票制度実現のための署名運動。
私もニューヨークで毎日、日系書店の前に立ち、署名を集めたが、なかなか数が集まらない。
それはどこの団体も同じだった。
集まった署名は、最終的に、各団体の代表が日本に一時帰国し、日本政府に提出することになっていた。
その際は当然、記者会見も行う。
しかし、集められる署名の数には限界があった。
そこで私は、国の数で勝負することにした。
つまり「何カ国から署名が集まったか」である。
その点を、日本政府やマスコミにアピールしようと思ったのだ。

早速私は、世界各国にある日本の青年海外協力隊事務所に、署名用紙をFAX。
国によってはうまく流れないところもあり、何回も送った。
翌月、電話代の請求書を見たとき、私は気絶した。
日本円で約5万円分も使っていたのだ。
その頃、日本食レストランでウェイターとして働きながら大学に通っていたので、5万円の出費はかなり痛かったが、結局17カ国から署名を集めることができた。

また、在外投票制度の立案の段階で、自民党が、永住権保持者を在外投票から外すことを検討した際には、
すかさず自民党への抗議文キャンペーン、別名「自民党への不幸の手紙キャンペーン」を展開。
ニューヨークのチャイナタウンにある印刷屋で、自民党に対する抗議文をあらかじめ刷ったハガキを千枚作り、ニューヨーク中にばら撒いた。
送りたい人は自分の名前を書いて切手を貼り、そのまま投函するだけという仕組みだ。
ちなみに制作費は日本円で約8千円だった。

前述のようなさまざまな作戦を行うと同時に、私は自分が発行するミニコミ『週刊 Nuts』紙上でも、在外投票ネタについて書きまくった。
当時、日本の旧総理府に『平成の目安箱』という、FAXで一般市民からの意見を集めるサービスがあったのをいいことに、
同ミニコミ紙上にも『平成の目安箱』というコラムを設置。
当時の村山富市首相宛で、在外投票を含むいろいろな問題について、手紙形式で執筆し、そのコラムを毎回FAXで総理府に送った。
一応、建前上は、『平成の目安箱』に送られてきた意見は、首相も目を通すということになっていたが、本当のところは定かではなかった。

1995年5月、陳情のために各団体の代表と一緒に一時帰国した際、村山首相と会見することができた。
そのときにスキを見て、村山さんに、
「総理、『平成の目安箱』ってご存知ですか?」と聞いてみたのである。
すると、
「えっ?ええ、知ってますよ」という答え。
調子に乗って、「私、毎週ニューヨークから送ってるんですけど…」と言うと、「あっあなた」だと。
一瞬、「『あっ、あなた』って、ホントに知ってんのか、おっさん」と思ったが、とりあえず「ありがとうございます」とお礼を言ってその場はおさらばした。

そのあとで総理府に乗り込んで確認したところ、『平成の目安箱』の担当部署では、送られてきた意見を、律儀に首相に回しているとのことだった。
ちなみに私の場合、一時帰国する直前にFAXした号で、
「総理府に乗り込んで、ホントに首相が読んでるか確かめてやる!」と宣言していたのだが、
担当部署では、その部分にわざわざ赤線を引いて、首相に渡していたらしい。

ミニコミを使ってうまくいったケースとしては、運動の終盤戦で展開した「もう一押しキャンペーン」が挙げられる。
在外投票法案を設立するために、衆議院及び参議院で、同法案を担当する議員たちを、名指しで攻めたのである。
同ミニコミ紙上に、各議員の住所が載った宛名ラベルを掲載。
読者にその部分を切り取って、「早く法案通してよ」というコメントとともに送ってくれるよう働きかけたのだ。
議員たちも、いきなりニューヨークから、奇妙なハガキや手紙が送られてきたので、結構ビビったと思う。
実際、担当議員たちの間で話題になっていたという話を後で聞いた。
なんでもやってみるものである。

そして、1998年4月24日、待ちに待った在外投票法案が可決された。
私がアメリカに来て6年、32歳になっていた。
途中でくじけることもなく、なんとか最後まで続けることができたのは、おそらく運動自体が楽しかったからだと思う。
基本的にニューヨークで運動に関わっていたのは私一人ということもあり、好き放題やらせていただいた。
いろいろヘマもやったが、今ではいい思い出だ。

現在の在外投票制度は、小選挙区に投票できないなど、まだまだ改善の余地がある。
自分の子供だと思って、じっくり育てていきたい。


『海外から一票を!』(海外有権者ネットワークLA編・明石書店2004年発行)より


↑以上、転載おわり

その竹永さんのお話と資料の数々。















めちゃくちゃ聞きたかった、山本太郎議員からのメッセージビデオ。




竹永さんのお話の中に、たくさんのヒントが、キラキラと宝石のように光っています。
議員に直接ハガキを送る、楽しい名前のキャンペーン「自民党への不幸の手紙キャンペーン」や「もう一押しキャンペーン」などなど。
原発からの電気を使いたくなくて、「嫌われ者キャンペーン」を新聞広告で実施し、小水力発電で村全体の電気を賄うようになったドイツの小さな村のことを思い出しました。

まだまだわたしたち市民の数の力を武器に、戦えることはたくさんあります。
こちらでは、大人が二人以上集まると必ず、バーニー・サンダース氏、ヒラリー・クリントン氏・ドナルド・トランプ氏の名前が出てきます。
どうして彼らが、ここまで上がり続けているのか。
基盤も支援もポリシーも、真逆ともいえるほどの違いがある二人ですが、なぜこのような現象が起きているのかについての話に花が咲きます。
その中でも、権力側からの心身に及ぶ妨害や暴力によってすっかり力を失ったかのように思われていた、オキュパイ・ウォールストリート『99%デモ』に参加していた若者たちが、
オバマ大統領の再選以前から、全く目立たない草の根運動に切り替え、サンダース氏を支え、自由主義経済の切り崩しを狙うべく、非常に精力的に活動しています。
インターネットの活用はどの候補者のそれよりも盛んです。
寄付は3ドルが最低額。
それでも、大変な集金力を見せています。

わたしたちにはもっともっと、できることがある。
そして何よりもわたしたちは、もっともっと政治を語らねばなりません。
政治は生活すべてに関わっている、命と深く繋がっているものです。
興味が無いなんて人がいたら、目の前でパチンと手を叩いて、目覚めさせてあげなくてはなりません。

ピアノ狂想曲

2016年02月20日 | 音楽とわたし
腕のいいペンキ屋さんであり、友人でもあるデイヴから、今仕事をしているお家のピアノを、見に行かないか?と誘われました。
17年前に買ったボールドウィンのベビーグランドピアノ、ということで、伺ってきました。
ボールドウィンは、1862年に設立された、アメリカの老舗ピアノ・オルガンメーカーです。
鍵盤は少し重めで、音質が河合ピアノに似ていて、わたし個人としては好きな方のピアノです。


2009年の11月に、ニューヨークでピアノデュオのピアニストとして活躍していた故カルロス氏のピアノに出会い、
彼の死の悲しみに打ちひしがれながらも、彼の持ち物すべてを処分し、故国ペルーに戻らなければならなかったお母さまの、
「息子の分まで、このピアノを大切にしてください」という言葉と共に、家に引き取らせてもらいました。
それからの経緯を、わたしは何回か、ここに記してきました。

http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/2787e511ce875d6b96775251b37adadb
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/1634ff5805cfd273a7975be632e4accc
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/531d36cc1a4c7f7c36a3f90f4d5ffe8a
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/c/57d3acbef8583ba1818bb6947f2811cf/18
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/e1a5caffc16a7fcaebd0463087ae4ca4
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/58f9d3d0cdff7822f5a6bc70bcb9d594
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/4225d7f9cd50c9a607024d2c8a79d0d8
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/db20c5de8d07f21829de1c8e71404947
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/2bcf29e5805cbee09648fff9ba6c0300
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/bf0944ceb13d742c88eb75358bae1e2a

かなり古いピアノであること、体格のいい男性ピアニストが長年弾き続けてきたことから、鍵盤全体がかなり疲弊していましたが、
非常に分厚い一枚板の反響板と、大柄の体から湧き出てくる、温かな深い響きにすっかり魅せられたわたしは、鍵盤を修理することの大変さを、つい甘く考えてしまいました。

ピアノは、専門の運搬会社の専門職の男性が、口を揃えて文句を言うほどにとんでもなく重く、カルロス氏が暮らしていたアパートの部屋から運び出さなければならなかったのは、本当に大変だったのですが、
その時に、考えられない事件が起こりました。
運搬人のひとりが、取り外された鍵盤の上に足を乗せてしまい、破損してしまったのでした。
すでに非常にもろくなっていたとはいえ、ミスはミスとして、会社の保険で直してもらったのですが、
それからというもの、現在に至るまで、鍵盤の修理と調整に、時間とお金を費やさなければなりませんでした。
ところが、どうやっても、またどこかがおかしくなって、まるでモグラ叩きのような状態が続いています。
うちのピアノをずっと調律してくれているアルバートがとうとう、「ピアノを替えた方がいいと思う」と、わたしに忠告してきました。
彼ほど、このピアノの状態を知っている人はいないので、その忠告はズシンと心に響きました。
「まうみの気持ちはわかるけれども、このピアノは、我々の手に負えない問題を抱え過ぎていると思う」

わたしは、大きなミスを犯してしまったのでしょうか。
あの時、あの場所で下した判断は、間違っていたのでしょうか。
実は、とうの昔から、そう感じていたし、認めていました。
でも、気持ちがそれを、どうしても認めたくなかったのです。
そしてまた、このことに費やした時間やお金が無駄になることを、認めるのが恐かったのです。
そしてもちろん、カルロス氏のお母さまとの約束も。
日本で所有していたのは、中学生の時に買ってもらった、ヤマハのグランドピアノC3でした。
このピアノは、波乱万丈のわたしの人生の中で、わたしと同じく、翻弄され続けたピアノでした。
ヤクザの若い衆たちの手で持ち去られたこともあったし、そこから取り戻してくれた友人の家にしばらく居候していたこともありました。
それを、わざわざ床の補強をして仮置きさせてくれた母の家から、とうとう元の持ち主であるわたしの嫁ぎ先に戻ってきたのは、持ち去られてから3年後のことでした。
それからは、もう絶対に手放さないからと固く約束をしたのに、離婚をして、また引っ越しをして、その時も一緒に付いてきてもらったのに、
日本を離れなければならなくなった時、手持ちのお金が本当に無くて、50万円の運搬費をどうしても払えなくて、泣く泣く手放すことにしたのです。
でも、わたしが手放したことで、ピアノはある若い学生の家に引き取られることになり、彼女は今、立派なプロのピアニストになったのだから、それはそれでよかったのだと思っています。
けれども、やっぱり、いいピアノを弾きたい。
この気持ちは、こちらに引っ越して来てからずっと、わたしの中にじくじくと居座り続けています。
練習をしている間中、コンディションの悪さを嘆きながら、それらの問題に目を瞑りながら、良い音を求めることのストレスというのは、なかなかに大変なものですから。

そんなこんなの気持ちを抱えながら、6年以上もの年月が経ちました。
やっと気持ちを整理して、とりあえず1台のピアノのままで、またお金を少しずつ貯めて、修理の不必要なピアノを手に入れようと思います。


というわけで、新たな出会いを求めて、ボールドウィンのピアノを見に行きました。







刻印が非常に渋いので、これは少なくとも60年以上は前に作られたものだと思います。






ピンが少し傾斜しているのは、1960年代に作られたピアノの特徴だと、アルバートが教えてくれました。


かなり古いピアノです。




ナットも渋い。


鍵盤は重く、ベビーグランドにしては音の広がりに奥行きがあります。



残念ながら、わたしが欲しいと思うものではありませんでしたが、持ち主さんから希望の売値を知らせてもらったら、生徒たちに写真と一緒にメールしようと思います。