どえりゃ~寒いです。
零下も零下、0℉となりました。
℉で0ということは、℃ではマイナス18…。
運動をしたい夫は、それでも散歩に出かけて行きましたが、ただでさえ冬の間は家の中にこもりたいわたしは、今日とばかりにカウチの上でゴロゴロ。
せっかくのヴァレンタインズデーも、ここまで寒いと盛り上がりません…。
ということで、ずっと観たいと思っていた映画『SELMA』を観ました。
この映画は去年上映されたもので、アラバマ州の都市セルマで起きた流血事件が主題になっています。
その事件が起こったのは、1965年の3月7日。今から約51年前のことです。
夫が生まれた年で、わたしは8歳になろうとしていました。
ウィキペディアの説明に書き加えながら、『血の日曜日事件』の話を少し、ここに紹介したいと思います。
血の日曜日事件(1965年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/血の日曜日事件_(1965年)
1965年の血の日曜日事件(ちのにちようびじけん)は、1965年3月7日に、アメリカの公民権運動中にアラバマ州の都市セルマで起きた流血事件。
詳細は「アフリカ系アメリカ人公民権運動」を参照。
1965年3月7日、525から600名ほどの公民権運動家達が、セルマを出発する。
セルマの人口の半数ほどの黒人達は、差別と脅迫により、有権者登録を妨害された。
同じ年の2月18日に、セルマの隣町のマリオンで行われた公民権運動デモ、といっても、ただ静かに行進しているだけの人々に、州警察が棍棒を振り回し襲いかかった。
警察官たちの暴力から逃れるため、喫茶店に避難していた黒人ジミー・リー・ジャクソンと彼の母親と祖父を見つけた警官は、
店の中に入るなり3人に殴りかかり、母親と祖父を守ろうとしたジミーに、殴る蹴るの暴行を与えた末、至近距離から発砲した。
ジミーは、その町のどの病院からも治療を拒まれ、セルマの町の病院に運び込まれたが、8日後の2月26日に、感染症のため死亡した。
3月7日のデモ隊は、州都モンゴメリーまで行進を続けることで、警官隊達が合衆国憲法違反をしたことをアピールしようとした。
キング牧師がセルマからモンゴメリーへのデモを組織したのは、有権者登録をした黒人達を、知事に保護させようとしたためである。
白人の知事は、そのデモ行進が、公共の秩序を乱す恐れがあるとしてこれを非難し、あらゆる手段を使ってデモの阻止を宣言。
選挙権を求めて行進する黒人の、極めて平和的な行進であったにも関わらず、待ち構えていた州兵やダラス群保安官たちは、報道機関の目の前で、非常に残酷な暴力を加えた。
彼らは、無抵抗のデモ隊に対して、こん棒(鉄条網を巻いていたものもあった)や催涙ガス、鞭などを使って襲いかかった。
逃げる人たちを馬で追いかけ、性別も年齢も問わず、無抵抗の黒人たちを攻撃した。
中には、瀕死の重傷を負った女性もいた。
ひどい傷を負い、血だらけで倒れる人々の残酷なシーンは、テレビで報道され、合衆国の公民権運動を後押しすることになった。
******* ******* *******
これは、ほんの、夫の人生分だけ前の話なのです。
もっとわかりやすく言えば、夫の親の世代の人たちの話なのです。
当時、アメリカの南部ではまだ、黒人への差別が激しく行われていました。
セルマの町では、町の人口の半数以上が黒人が、半数以下の白人による差別と脅迫を受けていました。
セルマの町の人口は2万人。
この町はアラバマ川に面し、もともと綿花の積み出しなど内陸港として栄えた町です。
そして、黒人奴隷を供給する奴隷市の町としても有名でした。
1965年当時、町の黒人9,600人のうち、選挙権が得られたのはたった150人(1.6%)でした。
選挙権登録は、月に2日しか出来ず、黒人の行列が長くなると、係の役人はわざと、昼の休憩を長くしたりしました。
黒人は、有権者登録ができないままでいたのです。
投票ができなければ、自分たちの意思が政治の世界に反映されることは不可能であり、それはつまり、黒人を差別する環境を変えることもできません。
暴力には暴力を、という意見も少なくなかったのです。
そういう人々の怒り、恨み、焦りを、必死になって抑え、非暴力の行進へと導いていったキング牧師をはじめとする指導者や支援者の方々の苦しみ、恐れ、虚無感。
そして、どんどんとエスカレートしていく、州兵や警官隊の暴力のひどさ、醜さに、胸が押しつぶされそうになりました。
投票したい。
その願いのために、投票権を手にするために、ほんの50年前に、命がけで戦っていた黒人の人たち。
夫は、映画の途中でポツリと「恥ずかしい」とつぶやきました。
州兵や警官だけでなく、日常のありとあらゆる場面で、黒人を堂々と差別していた白人市民の姿を見てのつぶやきでした。
夫がそれを、同じ人種の人間として、恥ずかしいと思う気持ちはよくわかります。
でも、当時の、そして今も少数ではあっても、差別行為をしていた(いる)人たちは、何も悪いことをしていないと思っていた(いる)のだと思います。
黒人が奴隷だった時代には当然だった、「白人が黒人を管理する」という常識が、根強く頭に染み込んでいたのだし、
そういう社会が正しいと疑わない人たちの中で、そういうことはいけないことだ、などと声に出すことはきっと、とても難しかったでしょう。
このようなことは、アメリカに限らず、どんな社会でも、長く続いた、あるいはそうであることが快適だった常識やしきたりを変えるのは、容易なことではありません。
わたしが生まれた年にはもう、当たり前のようにあった選挙権。
でも、あまりにも当たり前過ぎたからか、それとも、学校や家庭での、選挙や政治についての真剣な教育や話が行われずにきたからか、
一党独裁の政治があまりにも長く続き過ぎ、さらには人の入れ替えも多くなく、世襲の人間や国内最大の右派組織のメンバーに、国会を牛耳られてしまいました。
そしてその70年の間に、世界でも有数の地震大国である国の領土に、原子力発電所などという、地面の揺れに非常に脆弱で、極めて深刻な放射能汚染を誘発するものが、次々と建てられてしまいました。
それでも2度だけ、国民の意思が強く反映された選挙で、社会党と民主党が政権を取りました。
ところがどちらの党も、政権を取った期間は、自民党のそれに比べると、非常に短かったのです。
なぜかどちらの時も、偶然なのか必然なのか、未曾有の巨大地震や津波、さらには原発の過酷事故にも襲われ、社会が非常に混乱しました。
いえ、今もなお、来月には事故から丸5年が経つというのに、事故の収拾の目処は立っていません。
作業をしておられる人たちの被ばく量は深刻なのに、生活環境も労働環境も劣悪です。
映画の中の、黙々と静かに、ただただ前に向かって歩き続ける人々の姿を見ているうちに、ある思いがふつふつと湧き上がってきました。
被ばく差別、基地差別、民族差別、貧困差別…。
それらに苦しめられている人たちがまず、その地から国の中心に向かって歩く。
一人ひとりが歩ける距離は限られているので、行進をバトンタッチしていく。
歩いている人は、伝えたいメッセージを文字や写真にして、関心の無い人、知らずにいる人に伝えていく。
そして、バトンタッチしていく間に、どんどんと人の数が増えていく。
インターネットがこれだけ普及している国だから、きっと実現できると思うのです。
日本が、差別に苦しむ人たちを我がことのように捉え、苦しみや悲しみを共有し、少しでも良い環境にと支えることができる大人でいっぱいになると思うのです。
そして、そのための手段として、政治参加を真剣に考え、投票できる権利をドブに捨てたりしない、未来への責任を果たせる大人でいっぱいになると思うのです。
零下も零下、0℉となりました。
℉で0ということは、℃ではマイナス18…。
運動をしたい夫は、それでも散歩に出かけて行きましたが、ただでさえ冬の間は家の中にこもりたいわたしは、今日とばかりにカウチの上でゴロゴロ。
せっかくのヴァレンタインズデーも、ここまで寒いと盛り上がりません…。
ということで、ずっと観たいと思っていた映画『SELMA』を観ました。
この映画は去年上映されたもので、アラバマ州の都市セルマで起きた流血事件が主題になっています。
その事件が起こったのは、1965年の3月7日。今から約51年前のことです。
夫が生まれた年で、わたしは8歳になろうとしていました。
ウィキペディアの説明に書き加えながら、『血の日曜日事件』の話を少し、ここに紹介したいと思います。
血の日曜日事件(1965年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/血の日曜日事件_(1965年)
1965年の血の日曜日事件(ちのにちようびじけん)は、1965年3月7日に、アメリカの公民権運動中にアラバマ州の都市セルマで起きた流血事件。
詳細は「アフリカ系アメリカ人公民権運動」を参照。
1965年3月7日、525から600名ほどの公民権運動家達が、セルマを出発する。
セルマの人口の半数ほどの黒人達は、差別と脅迫により、有権者登録を妨害された。
同じ年の2月18日に、セルマの隣町のマリオンで行われた公民権運動デモ、といっても、ただ静かに行進しているだけの人々に、州警察が棍棒を振り回し襲いかかった。
警察官たちの暴力から逃れるため、喫茶店に避難していた黒人ジミー・リー・ジャクソンと彼の母親と祖父を見つけた警官は、
店の中に入るなり3人に殴りかかり、母親と祖父を守ろうとしたジミーに、殴る蹴るの暴行を与えた末、至近距離から発砲した。
ジミーは、その町のどの病院からも治療を拒まれ、セルマの町の病院に運び込まれたが、8日後の2月26日に、感染症のため死亡した。
3月7日のデモ隊は、州都モンゴメリーまで行進を続けることで、警官隊達が合衆国憲法違反をしたことをアピールしようとした。
キング牧師がセルマからモンゴメリーへのデモを組織したのは、有権者登録をした黒人達を、知事に保護させようとしたためである。
白人の知事は、そのデモ行進が、公共の秩序を乱す恐れがあるとしてこれを非難し、あらゆる手段を使ってデモの阻止を宣言。
選挙権を求めて行進する黒人の、極めて平和的な行進であったにも関わらず、待ち構えていた州兵やダラス群保安官たちは、報道機関の目の前で、非常に残酷な暴力を加えた。
彼らは、無抵抗のデモ隊に対して、こん棒(鉄条網を巻いていたものもあった)や催涙ガス、鞭などを使って襲いかかった。
逃げる人たちを馬で追いかけ、性別も年齢も問わず、無抵抗の黒人たちを攻撃した。
中には、瀕死の重傷を負った女性もいた。
ひどい傷を負い、血だらけで倒れる人々の残酷なシーンは、テレビで報道され、合衆国の公民権運動を後押しすることになった。
******* ******* *******
これは、ほんの、夫の人生分だけ前の話なのです。
もっとわかりやすく言えば、夫の親の世代の人たちの話なのです。
当時、アメリカの南部ではまだ、黒人への差別が激しく行われていました。
セルマの町では、町の人口の半数以上が黒人が、半数以下の白人による差別と脅迫を受けていました。
セルマの町の人口は2万人。
この町はアラバマ川に面し、もともと綿花の積み出しなど内陸港として栄えた町です。
そして、黒人奴隷を供給する奴隷市の町としても有名でした。
1965年当時、町の黒人9,600人のうち、選挙権が得られたのはたった150人(1.6%)でした。
選挙権登録は、月に2日しか出来ず、黒人の行列が長くなると、係の役人はわざと、昼の休憩を長くしたりしました。
黒人は、有権者登録ができないままでいたのです。
投票ができなければ、自分たちの意思が政治の世界に反映されることは不可能であり、それはつまり、黒人を差別する環境を変えることもできません。
暴力には暴力を、という意見も少なくなかったのです。
そういう人々の怒り、恨み、焦りを、必死になって抑え、非暴力の行進へと導いていったキング牧師をはじめとする指導者や支援者の方々の苦しみ、恐れ、虚無感。
そして、どんどんとエスカレートしていく、州兵や警官隊の暴力のひどさ、醜さに、胸が押しつぶされそうになりました。
投票したい。
その願いのために、投票権を手にするために、ほんの50年前に、命がけで戦っていた黒人の人たち。
夫は、映画の途中でポツリと「恥ずかしい」とつぶやきました。
州兵や警官だけでなく、日常のありとあらゆる場面で、黒人を堂々と差別していた白人市民の姿を見てのつぶやきでした。
夫がそれを、同じ人種の人間として、恥ずかしいと思う気持ちはよくわかります。
でも、当時の、そして今も少数ではあっても、差別行為をしていた(いる)人たちは、何も悪いことをしていないと思っていた(いる)のだと思います。
黒人が奴隷だった時代には当然だった、「白人が黒人を管理する」という常識が、根強く頭に染み込んでいたのだし、
そういう社会が正しいと疑わない人たちの中で、そういうことはいけないことだ、などと声に出すことはきっと、とても難しかったでしょう。
このようなことは、アメリカに限らず、どんな社会でも、長く続いた、あるいはそうであることが快適だった常識やしきたりを変えるのは、容易なことではありません。
わたしが生まれた年にはもう、当たり前のようにあった選挙権。
でも、あまりにも当たり前過ぎたからか、それとも、学校や家庭での、選挙や政治についての真剣な教育や話が行われずにきたからか、
一党独裁の政治があまりにも長く続き過ぎ、さらには人の入れ替えも多くなく、世襲の人間や国内最大の右派組織のメンバーに、国会を牛耳られてしまいました。
そしてその70年の間に、世界でも有数の地震大国である国の領土に、原子力発電所などという、地面の揺れに非常に脆弱で、極めて深刻な放射能汚染を誘発するものが、次々と建てられてしまいました。
それでも2度だけ、国民の意思が強く反映された選挙で、社会党と民主党が政権を取りました。
ところがどちらの党も、政権を取った期間は、自民党のそれに比べると、非常に短かったのです。
なぜかどちらの時も、偶然なのか必然なのか、未曾有の巨大地震や津波、さらには原発の過酷事故にも襲われ、社会が非常に混乱しました。
いえ、今もなお、来月には事故から丸5年が経つというのに、事故の収拾の目処は立っていません。
作業をしておられる人たちの被ばく量は深刻なのに、生活環境も労働環境も劣悪です。
映画の中の、黙々と静かに、ただただ前に向かって歩き続ける人々の姿を見ているうちに、ある思いがふつふつと湧き上がってきました。
被ばく差別、基地差別、民族差別、貧困差別…。
それらに苦しめられている人たちがまず、その地から国の中心に向かって歩く。
一人ひとりが歩ける距離は限られているので、行進をバトンタッチしていく。
歩いている人は、伝えたいメッセージを文字や写真にして、関心の無い人、知らずにいる人に伝えていく。
そして、バトンタッチしていく間に、どんどんと人の数が増えていく。
インターネットがこれだけ普及している国だから、きっと実現できると思うのです。
日本が、差別に苦しむ人たちを我がことのように捉え、苦しみや悲しみを共有し、少しでも良い環境にと支えることができる大人でいっぱいになると思うのです。
そして、そのための手段として、政治参加を真剣に考え、投票できる権利をドブに捨てたりしない、未来への責任を果たせる大人でいっぱいになると思うのです。