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ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

人間も家も、年をとったらガタがくる。それが味わいというもんだ。

2015年08月20日 | お家狂想曲
今年の夏は宿題がありました。
ちょいと疲れ気味な感じがなかなか取れない体に、対処が必要な疾患の有無を調べるよう、ホームドクターのトーマス先生から言われていました。
実は一昨年のクリスマスイブの日に、4人の専門医に紹介状を書いてもらっていながら、それを1年と9ヶ月もの間放ったらかしてしまっていて、
というか、実際はずっと放ったらかしていたのではなくて、オバマケアを手に入れるのにとんでもない手間がかかったり、手に入れてからでもすぐに使えなかったりして、
結局は今年の3月に、やっとやっと、晴れて病院に行ってもよい市民になったのですが、もうその時点で、1年と3ヶ月が経っていたわけで…。
だからまあ、しゃあないといえばしゃあない、なんて一人で言い訳しても仕方がないのですが…。
かといって、
「へへへ~先生、実はわたし、まだどこにも検査に行ってへんかってん!なぁ~んちゃって~」とか言ってペロリと舌を出す勇気も無く、
なので、ドクターの娘ちゃんを教えていて、その母親でありドクターの奥さんであるアブリルとは大の仲良し、ということに甘えさせてもらうことにしました。
「こんなこと言うの、とんでもなく恥ずかしいのだけども、まだ全然お医者さんのとこに行ってなくて…」と、4通の紹介状をおずおずと彼女に見せたところ、
「あらま~、もうそれ、全部わたしにちょうだい!夫に言って日付だけ書き直してもらうから」と言って、4通とも持ち帰ってくれました。

この国は、本当の本当に、医者に診てもらうということが超~面倒で、超~時間がかかります(わたしみたいにサボってなくても)。
月々の支払いがこれまた超~高い医療保険の会社が、その面倒さと手続きの複雑さの元凶なわけで、ほんとは誰も関わりたくないのです。
でも、年をだんだん重ねていくと、あれこれと検査をしろとうるさく言われ、それを無視していると変人、または管理能力が低い人という目で見られてしまいます。
特に今年の秋からは、学校の教師としての仕事も始まるので、健康状態についての向こうからの質問に、具体的に答えられるようにしておかなければなりません。
多分、若い頃からずっと避けてきた予防注射なども、大勢の中学生たちを相手にするので拒否できなくなるかもしれません。

というわけで、昨日の朝6時45分に、検査に行ってまいりました。
夜の12時から絶食して、朝の5時半に起き、お水を1リットル飲み、それを溜めたまままず一つ目の検査が始まりました。
冷房が効きすぎている部屋の中でほとんど裸の状態の上、冷たいジェルを塗りたくられるので寒いったらありません。
検査が開始して15分も経つと、猛烈にトイレに行きたくなりました。
「あのぉ~、まだでしょうか?」
「ごめんね~、もうちょっと我慢してもらわなければならないのよ」
「そ、そうですか…」
お腹の中を、脇の下から、みぞおちの辺りから、ものすごく細切れに調べていくので、やっと膀胱のあたりに来た時にはもう、今指一本で押されても相当ヤバい!という極限に達してしまっていました。
でも、ここは58歳、大人の意地を見せなければ!と、かなり悲惨な決心をして、ついでに神さんにもお願いをして、お漏らしをしてしまわないよう頑張りました。
いやもう、かなりヤバかったです、ほんとに。
左側、真ん中、右側、どの部分もパンパカパンにお水が溜まっている膀胱を、ブローブでウリウリグリグリされるという我慢大会、とりあえず無事終了。
続いて骨粗鬆症のDEX検査と乳がん検査は、別の検査技師の女性がしてくれたのですが、この人がなんだか機嫌が悪くて…。
DEX検査を受ける直前に、これはとても大切な質問だからと、これまでの病歴やアレルギーの有無などを質問されたのですが、
早口の上に、そんな単語聞いたことありまへんがな!というような名詞ばかりで、「その単語の意味がわかりません」と言ってもなぜか、かたくなに同じ単語を繰り返して言うだけ。
ああ、こりゃ説明する気が無いってことだなと思い、多分病名だろうし、それも深刻な病気に違いない、などと勝手に想像して、「NO」「NO」「NO」と適当に答えてしまいました。
乳がん検査はまあ、板挟みがやっぱり痛くて痛くて…。
前回受けたのが2009年。もう6年もやってないことがバレてひんしゅくを買ってしまいましたが、この痛みさえなければもうちょっと受ける気にもなるってもんです、はい。
今回はひとつ、新しいことがありました。
甲状腺の保護のためにと、鉛が入ったカバーを首に巻きました。
6年前はこんなのはありませんでした。
あ、それと、加齢に伴い現れてきたほくろの部分に、花形のシールを貼ってもらったのも初めてです。
いやはや、病院嫌い&検査嫌いにとっては、大変な朝となりました。

放射線のことが気になって、「こんなにいっぺんにやってもいいんですかね?」と聞いたのですが、「大丈夫ですよ、バラバラにやっても同じですから」と、シレッと言われてしまいました。

そして月末には子宮検査、それから翌月には大腸と胃のカメラがあります。
胃にはピロリさんがいらっしゃるようなので、そのための治療も始まるはず。
ふぅ~…。



さてもうひとつ、書き残しておかなければならないのはこれ↓、これです!


Q. いったいこの、わけのわからない白い物はなんなのだ?
A. これは、台所の角の天井です。二階の浴室のバスタブが、この天井の上にあります。

これまでにも、二階の浴室の排水の問題にはずっと悩まされていて、何度か応急処置をしてもらったり、ちょっと大掛かりな修理などをしてもらってきました。
けれども去年の末に、浴室の床も天井も壁もぜぇ~んぶ引っ剥がして、徹底的に問題を解決してもらおうではないか!と決心したのでした。
でも、工事を請け負ってもらう人を探す際に、ケチったのが運の尽きでした。
その人の評判を尋ねたところ、「誰よりも安いのにとても良い仕事をする大工さん」として評価が高かったのも、わたしたちにとっては災いとなりました。
実際彼は、人柄が抜群に良く、話もうまく、そして、小さな工事(素人にはちょいと難しい程度のもの)を任せるには最適の人だったのですが、
電気や配管などの他のチームとの連携や管理が必要な、大掛かりな工事には最悪の人だったことが、工事が始まってものの1週間も経たないうちに明らかになったのでした。

いろ~んなゴタゴタがあり、そのたびに話し合い、できるだけお互いに譲歩し合いながらの、本当ならものの1ヶ月で終わる予定だったのが、結局は4ヶ月近くもかかった工事…。
終わり頃にはもう、両方ともにクタクタになっていて、だから最後の最後にし終えなければならなかった仕事をボイコットされても、だからその分は支払ってなくても、
もういいや~どうでも!という感じで、どちらからともなく音信を途絶えさせていました。
まあ、正直言うと、もう二度と頼まないだろうし、関わりを持ちたくないと思っていたのです。
でも…。

またこんなことになって、天井がボワ~っと膨らんできて、水滴がポタポタと落ちてきたんですから、連絡しないわけにはいきません。
すると、この原因を作った張本人である配管工のトムではなく、別の配管工を行かせようと思うが、今彼は休暇中だ、というメールが返ってきました。
いえいえ、もういいんです、頼むつもりはなくて、ただ知らせただけですから。

今日来てくれた配管工のマイクに、工事の経過を撮った写真があったら見せてくれと言われ、ブログの記事の写真を見てもらいました。
「いやあ、よくこんな写真を撮っておいたね。これは珍しい」と褒めてもらって、「いや~それほどでも~(やっぱブログやっててよかったな~)」などといい気になっていたら、
「あ、これはいかん、こんなのはダメだ」と厳しい顔に。

「ほら、このどちらの写真も、新しい管に替えてあるのはほんの一部分しかなくて、ほとんど昔のままのを再利用してしまってる」




このことは、工事中ずっと、ずっとずっと、わたしの疑問でもあったのでした。
床も壁も天井も全部剥がしたのだから、このチャンスを逃したらもう無い!と思っていたので、配管を整え、新しいものに替えることは当たり前だと信じていたのです。
でも、相変わらずシャワーの水でさえもスルスルと流れていかず、浴槽の底にうっすらと溜まったりするのを見て、ため息をつく毎日が続いていました。

結局、下手に管通しをして、古い管を破損させてしまうようなことになったら、さらにカオスな状態になってしまうので、
「誰か信頼できる配管工に頼んで、壁や天井をぶち抜いて、工事をし直してもらうしかないよ。いや、それにしても、水はけ問題解決の絶好のチャンスだったのにねえ…」と、
いかにも気の毒そうに言われてしまうと、ほんとに自分が気の毒に思えてきました。
実際のところ、気の毒の他のなにものでもないのですが…。
いくら初めての体験だったからって、こりゃないよ~…およよ!

でもまあ、起こったことはもう仕方がない。
けれども、まともな配管工なんているのか?この国に…。
今の時期、夏休みでさらにつかまりにくいだろうしなあ…。

なんてなことを言ってたら、

あっちゃ~!!


とうとう割れ目の一部が落ち始めてきたので、夫がベリっと、かなり思い切りよく剥がしてしまいました。
元々はクローゼットだったのに、それを無理矢理浴室にされたという事情がある二階の浴室の床板の下には、ガスだの水道だの排水だのの配管が、迷路のようにぎゅうぎゅうに詰まっています。
なので、特に排水については全くきちんと考えられていなくて、これまでにもずっと、浴室に改装した時からずっと、排水の問題が続いてきたんだと思います。
それはいったいどれだけの年月だったんでしょう…。
この家は100歳を超えていて、わたしたちで三代目なので、それが二代目の時代だったとしても、少なくとも50年以上は続いていたはずです。



いずれにせよ、上から下から、なんともいえない歴史の匂いが漂う台所となってしまいました。
幸いにしてお天気が良く、窓から涼しい風が時折入ってくるので、とりあえず今のところはなんとかいけてますが、お天気が崩れて湿気が高くなると…ああ恐ろしい…。

まだまだ続くお家協奏曲なのでした。

『焼き場に立つ少年』を撮ったオダネル氏の写真展のお知らせ(京都&大津)

2015年08月20日 | 日本とわたし
長崎に原爆が投下された直後に街に入り、惨状を記録した故ジョー・オダネルさん。
NHKスペシャル『解かされた封印 ~米軍カメラマンが見たNAGASAKI』のビデオの中のオダネル氏と出会ったのは、2013年の春でした。
何度も何度もビデオを観ているうちに、これは自分の心に焼きつけておかなければならないという気持ちがふつふつと湧いてきて、
何時間もかけて文字起こしをし、ビデオからの映像を何枚か載せました。

『あなたはこの、『焼き場に立つ少年』の写真を見てもまだ、戦争はしょうがないと思いますか?』

この記事は毎年、8月が近づくにつれてまた、新たに読んでくださる方々が現れ、その数が増えていくにつれ、さまざまな意見をコメントでいただくことになります。
今年は特に、戦争法案をごり押ししようとする連中の、ウソやその場しのぎの誤魔化し答弁を聞かされているのですから、危機感がさらに増すのは当然のことだと思っています。

オダネルさんは、今から8年間の、奇しくも長崎に原爆が投下された8月9日に亡くなりました。
数十回という過酷な手術を受けながら、被爆と戦ってこられたと聞いています。
文字起こしをしている間、オダネル氏がもうこの世の人ではないことを知らなかったわたしは、絶対に会って話を聞かせてもらおうと意気込んでいました。
でもそれは叶わぬ夢となり、今はなんとかして息子さんのタイグさんと連絡をつけたいと、あれこれ調べている最中です。

彼の遺志は、原爆を投下された世界で唯一の国の民として、わたしたちこそが引き継いでいかねばならないと、強く強く思っています。


では、友人のsarahさんから教えていただいた二つの記事を紹介します。
ぜひぜひ、期間中に足をお運びいただけたらと思います。


メッセージ広告を裏面に掲載したポスターを手にする鈴木晴嵐さん(大津市長等1丁目)

米従軍カメラマンの写真展、開催の輪広がる 大津で20日から
【京都新聞】2015年8月16日 
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150816-00000031-kyt-l25

八日市図書館(滋賀県東近江市)で開催中の故ジョー・オダネルさんの写真展が、20日から大津市内でも開かれる。
米軍の写真家として、原爆投下直後の長崎、広島の惨状を記録したオダネルさんは、大津市を訪れたこともあり、
その際に交流した陶芸家鈴木晴嵐さん(64)=大津市長等1丁目=が、写真展のポスター裏に掲載するメッセージ広告などで資金を募り、開催にこぎつけた。
 
オダネルさんは、1990年ごろから、米国と日本で写真展を始め、2007年に亡くなるまで何度も来日した。
鈴木さんの夫で日本画家の靖将さん(71)が、米国でオダネルさんに会っており、04年ごろに鈴木さんを訪ねた。
鈴木さん夫妻は「ユーモアのある人だった」と振り返るが、撮影時の被爆で体をむしばまれ、数十回の手術を受けたと聞いた。
 
戦後70年に合わせて、写真展を企画した晴嵐さんは、写真の借り賃や搬送費をまかなうため、1行千円のメッセージ広告を募集。
実行委員7人で呼びかけたところ、わずか数週間で、目標を超える125行分の広告が集まった。
「戦争は威嚇(いかく)の人災原爆忌」
「平和であれかし、孫の生まるる」など、反戦や平和を願うメッセージに加え、
「敵を想定した平和は平和とは言わない」など、参院で審議中の、安保関連法案を批判した内容も目立つ。
 
写真展は25日までの6日間、大津市中央1丁目のギャルリーオーで開かれる。
会場は無償で提供してもらったといい、晴嵐さんは
「各方面の協力を得られ、関心の高さを感じた。
1枚の写真が訴える力は大きい。大勢の人に見てほしい」
と話す。

大型作品「グラウンド・ゼロ」を含む約50点を展示する。
無料。




原爆投下直後の長崎や広島で撮影した作品が並ぶ会場(京都市上京区・京都佛立ミュージアム)

終戦直後、日本の惨状たどる 京都で米従軍カメラマンの写真展印刷用画面を開く
【京都新聞】2015年7月8日
http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20150708000090
 
終戦直後の日本を写した、米国人従軍カメラマンの写真を紹介する企画展「トランクの中の日本 戦争、平和、そして佛教」が7日、
京都市上京区御前通今出川下ルの京都佛立ミュージアムで始まった。
原爆で焦土と化した広島や長崎で生きる、人々の苦悩が伝わる約40点が、来場者に戦争の悲惨さを訴えている。

同ミュージアムの戦後70年特別展の一環。
第2弾の今回は、米の従軍カメラマン、ジョー・オダネル氏(1922~2007年)の写真をテーマにした。

オダネル氏は、占領軍のカメラマンとして、1945年9月から約7カ月間滞在し、日本各地を記録した。
任務の傍ら、長崎で購入した私用のカメラで、被爆者や子どもたちの様子を撮影。
除隊後は、長年トランクにしまい込んでいたフィルムを公開し、米国や日本で写真展を開いてきた。

会場には、「ATOMIC・FIELD」の看板が掲げられた、がれきだらけの長崎の街や、福岡の空港で燃やされる山積みの戦闘機、
原爆の投下目標とされた広島の相生橋と、更地となった市街地など、オダネル氏の足跡をたどるよう時系列順に並ぶ。

長崎の遺体の焼き場で亡くなった弟を背負い、口を真一文字に閉じて直立不動する少年や、原爆を受け背中がただれた少年を捉えた写真など、有名な作品も多く、場面や状況の解説も充実している。
訪れた人はパネルの前に立ち止まって、戦争の意味や平和の尊さを考えていた。

長松清潤館長は、
「70年前のありのままを写した作品から、戦争のむごさや、そこで生きる人々の強い精神性に触れてほしい」と話す。

来年1月31日まで
入場無料。
月曜休館。
京都佛立ミュージアム 電話 075(288)3344。