スロージョギングと写真のブログ

ウォーキング、ジョギング、ママチャリで出あった季節の花や風景写真で日々の出来事・雑感をつづっていきます

朝刊エッセイ~おじさん図鑑を読んで

2018年01月07日 | その他の事、未分類

今朝の朝刊からの抜粋転載です。

 

私たちが感じていて、誰も表立って言わないことが多いなか、さらりとエッセイにしている。

上記のエッセイに共感しつつ、今の日本の状況と重ね合わせ、かつて心に響いた抜き書きを以下に再掲しました。(故人2人)

<池波正太郎>

 還暦に思う人生(昭和58年)

・これは、太平洋戦争に若い自分が直面し、その前途が五分五分に生死に賭けられていたからだろう。

だが、戦場で戦うこともなく、海軍の航空基地から復員したときは、生還の僥倖を喜ぶよりも、日本の敗戦により、一夜のうちに変わった時代と、戦死した少年航空兵の顔が重なり合い、一年ほど虚脱してしまっていた。
‥ ‥
おのれの健康をほこる気持ちは、いささかもない。生と死は、いつも、隣り合わせになっているのだから……。

60年生きて来て、いまさら感じることは、我欲のない人ほど幸福になっていることだ。

むろんのことに、これは金銭とは別のもので、いかに我欲を貼って財産を得たところで人間は満たされない。その実例を、数え切れぬほどに、私は、この目で見てきた。

恐ろしいのは、我欲と傲慢の結果が、すぐにあらわれずに、一国家、一団体、一個人それぞれに、我欲の芽がふくらみ、長く潜伏していて、これが表にあらわれ、はっと気づいたときには、手遅れになっていることだ。

私の我欲が薄いといっても、ないわけではない。

その残存する我欲を一つ一つ取り除くことを、こころがけて行きたい。
‥  ‥
私は、政治や経済のうごきについては、ジャーナリズムを信用しない。できない。

これは、終戦のときの、一夜にして白が黒となり、黒が白となった衝撃が尾を引いているからだ

私が信用するのは、自分の目でとらえた「一個人が表現しているもの」のみである。 

 すべて簡素に、簡明に(昭和59年)

・こう書いてくると、まだまだやりたいことはいくらでもあるわけだが、私は欲張らない。

仕事と生活の上において余分なものは一つ一つ切りとって行き、もっとも簡素な生き方をしたい。

戦後の私は、あまり人付き合いのよい男ではなくなってしまったけれども、これからはなおさら義理を欠き、付き合いの時間を減らしていくつもりだ。

それも60歳を超えた私には許されることだと思っている。

これからは、人も世も、国家も、すべて簡素に……簡明にである。  

<茨木のり子>

1975年(49歳)、四半世紀を共に暮らした夫が先立ち、以降、31年間にわたる一人暮らしが始まる。

2年後、彼女は代表作のひとつとなる『自分の感受性くらい』を世に出した。それは、かつて戦争で生活から芸術・娯楽が消えていった時に、胸中で思っていた事をうたいあげたものだった。

自分の感受性くらい

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

その後、 弟が先に他界し、かつての同人仲間が1人、2人と世を去るのを見送った。だが、彼女は孤独感をものともせず、1999年に73歳で『倚(よ)りかからず』を発表するなど、詩への創作意欲は衰えなかった。

●倚(よ)りかからず ※73歳の作品

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ

2006年、自宅で脳動脈瘤破裂によって急逝した彼女を、訪ねてきた親戚が発見する。きっちりと生きることを心がけた彼女らしく遺書が用意されていた。「私の意志で、葬儀・お別れ会は何もいたしません。この家も当分の間、無人となりますゆえ、弔慰の品はお花を含め、一切お送り下さいませんように。返送の無礼を重ねるだけと存じますので。“あの人も逝ったか”と一瞬、たったの一瞬思い出して下さればそれで十分でございます」。この力強さ。享年79歳。

戦争への怒りを女性としてうたい上げた「私が一番きれいだったとき」は多くの教科書に掲載され、米国では反ベトナム戦争運動の中でフォーク歌手ピート・シーガーが『When I Was Most Beautiful』として曲をつけた。彼女の心の声が国境を越えて人の心を打ったのだ。人生を明るく、そして清々しくうたう茨木の詩は、没後も多くの人を魅了し、晩年の『倚りかからず』は詩集としては異例となる15万部のベストセラーになっている。エッセイ本も多数。 韓国語を学んで出した『韓国現代詩選』(1990)では読売文学賞を受賞している。

●わたしが一番きれいだったとき茨木さんは15歳で日米開戦を、19歳で終戦をむかえた

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがらと崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき
誰もやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆(みな)発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように ね

冒頭の朝刊エッセイに関連して、

この5年間で、特定秘密保護法(25/12/13)・安保法(28/3/29)・共謀罪法(29/6/21)などの重要法案が成立し、今年度は憲法改正!!メディアを通じてのプロパガンダというか、世論操作に惑わされないようにしたい。

432円の文庫本「日本国憲法」(講談社学術文庫)から主要な箇所を抽出してみた。

他の条文も大切なのですが、とりあえず。

冒頭のエッセイの一文をお借りすれば、

今年こそは国民一人ひとりが「正気」を保って、平穏な世の中がず~っと続くようにしていきたいですね!!

美浜公園10周/昼過ぎ 約10k (9:27~9:50~9:36~9:58~8:51~9:22~9:35~9:21~8:57~8:13/1:33)
                               
   月間累計 44km

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