犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

弥勒菩薩の修行

2024-07-20 23:50:47 | 日記

もう一か月以上前のニュースですが、国際研究チームが、銀河の中心にある巨大ブラックホールの撮影に初めて成功したと、報じていました。それは地球から約2万7000光年の距離にあって、「見かけの大きさは月の上のドーナツ(直径8cm程度)ほどの大きさ」なのだそうです。
わかりにくい表現ですが、月面に8センチほどのドーナツを置くとして、それを地球から見たときと、同じくらいの小ささだという風に理解しました。撮影されたブラックホールが、ドーナツのポンデリングのようにも見えるので、このような表現になったのでしょう。

銀河の中心が、世界の中心というわけではないかもしれませんが、仏教の世界では世界の中心に、須弥山という山があるとされています。その山の上空には兜率天という天界があり、弥勒菩薩が修行をしています。
釈迦の後継者の如来となることを約束されてはいるものの、未だ悟りの境地にはない菩薩なので、まだまだ修行が必要なのです。

この弥勒菩薩が、いつ菩薩から如来になるかというと、56億7千万年後という気の遠くなる将来の話です。
ちなみに、この途方もない時間は、地球を含めた太陽系が消滅するまでに残された時間とほぼ等しいのだそうです。

これを文字通りに捉えると、どうなるのかと、愚にもつかないことを考えてみました。
偉大なる後継者が降臨したときには、もうすでに太陽系は消滅していると捉えるか、如来が大破局から救ってくれると捉えるか、あるいは、我々は弥勒菩薩とともに宇宙が果てるまで修行すると捉えるか。

私は最後のように考えると、何ともしれぬ伸びやかな気持ちになりました。

西洋人が仏教に初めて接したとき、人生は「苦」だという教えにひそむ、厭世的な恐怖主義を嫌悪し遠ざけました。明日にも裁きの日が訪れるという強迫観念を普通とするのならば、メシアならぬ弥勒菩薩の話は許されざる虚無の極みであったでしょう。

光の輪に囲まれた、歪な穴をじっと見ていると、そこで弥勒菩薩が修行をしている姿が見えるようです。


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七夕の祈り

2024-07-13 23:56:41 | 日記

薄茶の稽古は、久しぶりに「葉蓋」の点前でした。
水指の蓋の代わりに葉を用いる、ちょうど七夕のころの点前です。裏千家十一代玄々斎の考案なので、幕末の時代に生まれた点前ということになります。七夕の趣向の茶会で、玄々斎好みの花入の受け筒に、梶の葉を蓋にして水指に使用したのが始まりと言われています。

水指から葉蓋をはずして、縦に二つに折り、横にして三つに折りたたみ、さらに上下にたたんで指で穴を開けたところに、葉の茎を通して「トトロのドングリ土産」のようになったものを建水に落とします。今でこそ、涼を呼ぶ季節恒例の点前ですが、最初に茶会で披露されたときには、大きな驚きで迎えられたのではないでしょうか。

蓋に見立てた梶の葉を水に落とすという所作は、しかしながら、奇をてらって取り入れられたのではなく、古代中国の七夕の行事「乞巧奠(きこうでん)」に由来しています。
梶の葉に願い事をしたため、それを水を張ったタライに浮かべることで、願いを天に届けるというのが、乞巧奠での慣わしでした。これが奈良時代頃にわが国に伝わり、宮中などでも伝えられていたのだそうです。

下図は、巌如春の「儀式風俗図絵 七夕・乞巧奠」(金沢大学附属図書館所蔵)に描かれた「乞巧奠」の様子です。願いごとの行事というよりも、捧げものの行事という印象を受けます。

七夕を「たなばた」と読むのは、反物を織って棚に供え、豊作を祈った「棚機(たなばた)」という織り機に由来すると聞いたことがあります。織り上げられた布は棚に飾られたまま、これを仕立てたものに誰も袖を通すことはありません。
一回切り使われて建水のなかで揺れている葉蓋は、神事にのみ使われた布のようにも見えます。涼を呼ぶ葉蓋の点前は、古代のわが国の祈りに通じるものなのかもしれないと思いました。


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西行の蓮の花

2024-07-06 23:35:45 | 日記

福岡城の濠では、蓮の茎が隆々と伸び、葉が水面を覆い尽くしていて、朝ここを訪れると、白い花が濠に光を放っているのが見えます。
十数年前、3号濠と5号濠の蓮が壊滅状態だったのを、外来種の亀の食害が原因と特定して対策を講じた甲斐あって、今のこの姿があるのだそうです。ただし復活した蓮の葉が水面を隠すので、夜の水面は月を映すことはありません。

亀と蓮のせめぎ合いの話を聞いて、西行の次の歌を連想しました。せめぎ合う月と蓮を詠ったものです。

おのづから月宿るべきひまもなく池に蓮の花咲きにけり

蓮の葉が生い茂って、月が水面に映ることはないけれども、池に蓮の花が咲いている、という意味だと理解しました。

西行にとって、月は愛でる対象というよりも、みずからの心を映し出すものであり、それゆえおのれを磨くことによって、より輝きを増すものでした。
北面の武士という勤めを捨て、若くして出家して都を去る西行は、月を見て、次のように詠っています。

月の色に心を清く染めましや 都を出でぬわが身なりせば

出家をしても、保元平治の乱にはじまる大混乱の、節目節目に関わることになる西行にとって、「おのづから月宿るべきひまもなく」というのが実感だったのではないでしょうか。

しかし、そうしてみると蓮の花は、西行の目にどのように映っていたのでしょう。出家の身の西行にとって、悟りの境地を表すもののはずですが、私は次のように考えたいと思います。

みずからを鍛えて、その色に染まりたいと切望する対象が「月」だとするならば、たとえ目標から遠くとも、今精一杯生きていることの証しとして「蓮の花」は映ったのではなかっただろうかと。
「願はくは花の下にて春死なむ」と詠んだ「桜」には、天上へのあこがれがあったとすると、蓮の花には、今あることへの肯定が込められていたのではと思います。


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利休の朝顔

2024-06-29 23:44:44 | 日記

利休の庭に見事な朝顔が咲いている、という噂を聞きつけた秀吉は、それでは見に行こうと、朝から利休の屋敷へ向かいます。どんなに丹精こめた朝顔が見られるだろうと楽しみにしていた秀吉でしたが、どこにも花は見当たりません。訝しんだ秀吉が茶室に入ると、床にたった一輪の朝顔が生けてありました。
たった一輪の花が醸し出す侘びの世界を演出するために、利休は庭の朝顔の花をすべて摘み取っていたのです。
これが有名な利休の「朝顔の茶会」です。

この朝顔が、今で言うアサガオではなく、ムクゲだったという説があります。アサガオは中国から渡来した新参者で、朝顔と言えば長い間ムクゲだったからです。朝顔という語はもともと「朝に咲く花」というほどの意味で、時代によって指し示す花の種類が違います。少し話が脱線しますが、わが国の「アサガオ」の歴史を概観してみます。

万葉集に詠われる朝顔は、明らかに「桔梗」を指しています。
  朝顔は朝露負ひて咲くといへど夕影にこそ咲きまさりけれ
    (作者不詳『万葉集』)

夕方にこそ美しさが際立つので、これは桔梗の花を詠ったものです。

奈良時代に「ムクゲ」が渡来して、朝顔は「ムクゲ」を指すようになります。『源氏物語』の「朝顔」の巻の「あさがお」は注釈書で「槿(ムクゲ)」の字が当てられています。

平安初期に薬草として中国から渡来した今で言う「アサガオ」は、薬草名で「牽牛(けんご)」と当初呼ばれており、次第に「朝顔」と呼ばれるようになります。今の「アサガオ」がしんがりに登場となるわけです。

利休の「朝顔の茶会」の話に戻ると、時代背景に照らしても、たった一輪残された花の侘びた風情という観点からでも、ムクゲのほうがふさわしいようにも見えます。
しかし、利休の孫宗旦の弟子筋が著した『茶話指月集』には「朝顔の茶会」のことが記されていて、そのなかに次の記述があります。
  「宗易庭に牽牛の花みごとに咲きたるよし、
         太閤へ申しあぐる人あり」

朝顔を「牽牛」と呼んでいることから、この記述が正しいとすれば、朝顔の茶会には「ムクゲ」ではなく「アサガオ」が生けられていたことになります。

私はと言えば、今で言う「アサガオ」の花を当てはめる方が好きです。紫のアサガオの生垣の前に、大柄な利休が仁王立ちして、つる草のアサガオを一気呵成にむしり取っている姿。そこには花の生命に対する、そして美そのものに対する畏れがあり、それらを振り切るように、利休の茶の湯への情熱がほとばしるのを感じます。

計算され尽くした詫びの形式を、淡々と披露しただけなのならば、それはこれ見よがしの作為ではないか、とも思います。そんなものではない、畏れも、驚きも、湧き上がる情熱も、それら一切が伝わるような利休の姿を思い描くのならば、やはり、つる草のアサガオではなければと思うのです。


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ヤマボウシの花

2024-06-22 23:45:22 | 日記

夕方の散歩道にヤマボウシの白い花が咲いています。

木を覆いつくすように花が咲くので目を引くのですが、どこか寂しげな印象を与えるのは、飾らない端正な花がまっすぐ四方に伸びる様子からでしょうか。この「花」のように見えるものは、実は蕾をつつむ葉が変形したものなのだそうで、そう言われて花をながめると、なるほどとも思います。

見た目に劣らず、名前も地味なこの木は、私にとってなじみ深いものです。数年前のこの時期、妻と散歩の途中に、この木の名前を教えてもらい、さほど日を置かずに同じ質問をして、あきれられてしまいました。そのとき名前の由来とともに、改めて教えてもらったので、この花の名前は頭の中にしっかりととどまっているのです。

ヤマボウシは比叡山延暦寺の僧兵(山法師)のことを指し、白い頭巾姿の僧兵を想起させることから、この名前が付いたのだとのこと。可憐さ、清楚さといったものとは程遠い名がつけられるのは、気の毒なような気もします。

美智子上皇后の歌に、この花を詠んだものがあります。

四照花(やまぼうし)の一木(ひとき)覆ひて白き花咲き満ちしとき母逝き給ふ

昭和63年5月にお母様を亡くしたときの歌です。この翌年1月、昭和天皇が崩御され美智子妃は皇后になられます。白頭巾の山法師が立ち尽くすように故人を見送る佇まいが、ちょうどこの花の印象と響きあって、秀逸な挽歌となっています。今は「ねむの木の庭」という公園になった正田邸跡に、ゆかりの木とこの歌を刻んだプレートが残されているのだそうです。

桜やツツジのように咲き誇る花とは違う、ヤマボウシには慎ましやかな魅力があります。風雨に負けないように花弁の代わりに葉を変容させたのだとすると、強くあろうとする木なのだと言うこともできるでしょう。風雨に耐えるこの時期の花が、あたかも人に寄り添うように静かに立っているのは、慈雨にも似た自然の恵みのように感じます。


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