まりっぺのお気楽読書

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ロシア皇帝ニコライ2世妃 アレクサンドラ

2009-07-24 00:26:54 | ロシア皇妃
さようなら、ロシア皇室
ニコライ2世妃 アレクサンドラ(アリックス)・フョードロヴナ


1872~1918/在位 1894~1917

改名前の名はヴィクトリア・アリックスで、ドイツのヘッセン大公の公女ですが
母親が大英帝国女王ヴィクトリアの王女アリスで、イギリスで教育を受けていました。
    
ニコライの叔父セルゲイとアリックスの姉エリザベスが結婚することになり
ふたりは初めて顔を合わせます。
16歳のニコライと12歳のアリックスはお互いを憎からず思い
その5年後にモスクワで再会してから愛し合うようになったと言われています。

けれどもアリックスを気に入っていたヴィクトリア女王は、彼女と、同じく孫の
(切り裂きジャック説がある)クラランス公アルバートと結婚させたがっていました。
ロシアでもアンチ・ドイツのアレクサンドル3世夫妻がアリックスとの結婚には反対で
次々に他の王女との縁談を考えますが、いずれも改宗がネックになって上手く運ばず
また、ニコライも女優などと遊びまわり同棲までするようになります。

その後アレクサンドル3世は目に見えて衰え、根負けしてアリックスとの結婚を認めました。
婚約した年にアレクサンドル3世が崩御しましたが式は延期されませんでした。
ふたりはかなり嬉しかったらしく大はしゃぎでした。
が、ヴィクトリア女王はロシアの先行きにかなり不安を覚えていたご様子で
「何事もなければ良いが…」と書き残していらっしゃいます。 さすが

ロシア宮廷はアリックスに対してかなり冷ややかでした。
アリックスは地味だし、無口だし、なによりも横柄そうに見えました。
また、不幸なことには姑マリーヤがめちゃくちゃ人気者で何かと比べられてしまうし…
マリーヤの絶大な影響力には宮廷もニコライ2世も言いなりでした。

アリックスもロシア宮廷をふしだらで軽薄だと見なして、なるべく公の場には出ず
お気に入り以外とは付き合うのを避けようとします。
けれどこんな頑な姿勢がさらに不人気に拍車をかけていきます。

後年は待望の皇太子アレクセイが血友病だとわかり
治療を頼んだラスプーチンに心酔してしまうことになりました。
ラスプーチンは皇帝夫妻に多大な影響力を持ち政治にも口を出し始めます。

ところでニコライ2世は大の日本嫌いって知ってました?
(この説には異論もあります。たぶんそちらが正しいみたい)
独身時代に大津事件があったからなんですけれど
その影響でアリックスも日本大嫌い! だったそうでございます。

思えばロシアは君主国になってからも権力闘争と反乱に明け暮れて
ニコライ2世だから革命がおきたというわけじゃないと思うのですが
満州をめぐる日露戦争の敗戦があり、第一次世界大戦へも参加したもので
国内の疲弊は並大抵なものではありませんでした。
また飢饉などもあったので、今まで燻っていたものが大爆発してしまったようです。

2月革命の後、退位したニコライと一家はツァールスコエ・セローへ送られ
臨時政府は従兄弟にあたる大英帝国王ジョージ5世に引き取りを要請しますが
ジョージ5世は自国内の労働運動の激化を怖れて拒否したそうです…ひっど~い
(ニコライ2世の方が復位を楽観視していて断ったという説もあります)

そうこうしているうちに革命政府が樹立され、ニコライ一家の扱いはひどくなり
とうとうエカチェリンブルクの農家の地下室で殺害されることになりました。

アナスタシア皇女については生存説も根強くありましたが、真相は謎のままです。

       
              ニコライ2世一家です
                 右端がアナスタシア皇女です


ニコライ2世は内気で気が優しく家族思いでした。
アリックスの教育は庶民的で部屋の掃除は自分たちでやらせたり
目上の人への挨拶にうるさかったという普通の良きお母さんでした。
贅沢はできなくても一家仲良く我慢できたと思うんだけど…
せめてイギリスに渡っていたらなぁ… 一般人の甘い考えでしょうか?

(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』
      外川継男氏『ロシアとソ連邦』
      三浦一郎氏『世界史の中の女性たち』 Wikipedia英語版)
コメント (13)
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