まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

ロシア女帝 エカチェリーナ1世

2009-07-04 02:48:13 | ロシア皇妃
北の大地に女の時代到来!
ピョートル1世妃 エカチェリーナ1世


1684~1727/在位 (皇妃)1707~1725 (女帝)1725~1727

他のヨーロッパ諸国では皆無に等しいのではないかと思うのですが
王家と血の繋がりがあるわけでない、それも家柄もない皇帝の嫁が
帝国ロシアに君臨することになってしまいました。

エカチェリーナは本名をマルファ・スカヴロンスカヤといって
リトアニアでロシア軍の捕虜になった農民の娘でした。
17歳でスウェーデン人の兵士と結婚しています。
捕虜になった時改宗してエカチェリーナに改名しました。
       
まずは占領軍の洗濯室で働くことになったのですが
彼女は陸軍大臣に自分の下着 を差し出すという手を使って愛人の座につきます。
その後アレクサンドル・メンシコフの邸宅の小間使いになるわけですが
この人物がピョートル1世の大親友で相談役だったことが彼女の運命を大きく変えます。

メンシコフはエカチェリーナを愛人にしたもの、結婚が決まり幸せ一杯なので
ピョートルに彼女を献上した…というわけです。
ふたりは合うやいなや恋に落ちたということです。

学問より戦争が好きだったと言われるピョートル1世はこの時期
各地を転戦して野営暮らしをしていました。
エカチェリーナは彼に付いて戦地をまわり場を明るく盛り上げていたそうです。
ここまでは嫁の鏡ってかんじですね。

1707年、ふたりは密かに結婚しましたが公表されたのは1712年でした。
なにしろ元気な人だったみたいで12人の子を生んでます。(10人は夭逝)
そりゃあ容姿も崩れてきましょうよ! 贅沢と深酒が衰えに拍車をかけました。
というわけで皇帝もちょこちょこ愛妾を持つようになります。
その中でもアンナ・カンテミールとは真剣に結婚を考えたらしいのです。

エカチェリーナとの離婚を思いとどまらせたのは、若い日にふたりで戦場をまわって
苦労した日々の思い出だったそうですよ ちょっといいエピソードですね。

1725年にピョートル1世が崩御した時、宮廷には孫のピョートル派もいましたが
上級士官がこぞってエカチェリーナ派についたため女帝として即位することになりました。

ただ即位したと言っても実際はメンシコフたちが創設した最高枢密院が実権を握っていて
エカチェリーナは完全にお飾りでした。
お手すきな女帝は飽食とラヴ・アフェアに明け暮れたということになっております。

それでもピョートル1世の遺志をついでサンクト=ペテルブルクの都市整備には尽力し
ロシア科学アカデミーの創立などを果たしました。

エカチェリーナは、本当は自分の娘エリザヴェータを指名したらしかったのですが
世論に押されてピョートルを後継者に指名し、即位から2年後に43歳で亡くなりました。

活動的で陽気で少し怒りっぽいという、肝っ玉母さんタイプの女性ですよね。
勝手な意見だけど、彼女自身は権力欲はなかったのじゃないかしら?
ただ少し贅沢ができて楽に暮らせればいいという、極めて庶民的な女性だった気がします。
やるべき仕事があって動き回っていたらもっと長生きできたのかもしれません。
適材適所というのは、社会だけでなく個人にも恩恵をもたらすものかもしれませんね。

ロシアはこの後女帝が続きます。
華やかそうではあるけれど、ドロドロ~としそうな予感

(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』
      外川継男氏『ロシアとソ連邦』 Wikipedia英語版)

ロシア皇帝歴代誌 創元社


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ロシア皇帝ピョートル1世妃 エウドキヤ

2009-07-04 00:08:38 | ロシア皇妃
              他に描きようはなかったのでしょうか?
                  もう少し美しいドレスを着るとかさ…


地味だけど波瀾万丈
ピョートル1世妃 エウドキア・フョードロヴナ・ロプーヒナ


1669~1739/在位 1689~1698

ソルジェニーツィン曰く「まったく凡庸な頭脳の持ち主」というピョートル1世は
国政よりも軍の強化に人生をかけちゃったようなところもありましたが
それが幸いしたのか国は拡大し、大帝の称号まで与えられました。
ご陽気で遊び仲間が多かったらしく愛妾もけっこういたご様子です。

不毛の凍土と言われていたサンクト=ペテルブルクに首都を移転したのも
北欧に狙いを定めたという軍事的な要因があるのかもしれません。

ピョートル大帝は17歳の時に摂政ソフィアを打倒して皇帝の座に返り咲くと
3歳年上のエウドキアと結婚することになりました。

エウドキアは、これまたたいした家柄の出じゃなかったのですが
彼女を選んだのは大帝の母ナタリア・ナルイシキナでした。
なんでも権力者の高官に頼み込まれちゃったらしいです。
     
エウドキアは保守的で信心深くて、享楽好みの大帝とは見るからに水と油で
最初っから上手くいきそうもなかったんですけど、やはり大帝は我慢ができなくなり
1696年に西ヨーロッパ外遊に出ると、高官ナルイシキンに手紙を送り
“ エウドキアを説き伏せて修道院に入れちゃってよ ” と申し付けています。

エウドキアはなかなか首を縦に振らず2年ほど頑張ったのですが
最終的には離婚されスズダリに追放されてしまいました。
でも修道院には入らなかったらしくて
彼の地でステファン・グレボフという愛人までできたみたいです。
離婚できてラッキーだったんじゃ…

エウドキアはアレクセイという皇太子を生んでいます。
大帝はもちろん帝王学を学ばせて立派な後継ぎにしようと考えましたが
アレクセイは母親に似ちゃったらしく保守派でバリバリの正教徒でした。
その上、反ピョートル派の貴族たちとスズダリのエウドキアの屋敷に集まって
皇太子派を形成していました。

結局皇太子派は打倒されて、アレクセイは継承権を放棄させられ司教たちは処刑、
エウドキアも今度こそ修道院に入れられてしまいました。
さらに大帝の死後後妻エカチェリーナが女帝になると
密かにシュリッセルブルクの要塞の独房に移されてしまいました。
とても不潔で陰気な監獄だったそうです。

耐えること2年、孫のピョートル2世が即位するとまたまたモスクワに呼び戻されました。
あくまでもステータスのためにだけ呼び戻されたエウドキアは
宮廷内では役立たずで余所に自分の宮殿を持つことを許されました。
そこでノヴォデヴィチに修道院を建て、1698年に亡くなるまで暮らしました。

前には摂政ソフィア、後ろにエカチェリーナ、エリザヴェータなど強力なキャラの
女性たちがいるものですから、かなり印象が地味ですけど、どう? 波瀾万丈よね?
決して自分から動いているわけではないんですけど、巻き込まれっぷりがハンパじゃない。

(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』
      外川継男氏『ロシアとソ連邦』 Wikipedia英語版)
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