針谷みきおの一言 集まり処「はんの木」情報 

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富士山の世界遺産登録に思う

2013-05-07 23:48:11 | 歴史散歩

人類が文明を開いたうちのひとつ、古代エジプト。肥沃(ひよく)な地を生み出し、人間の営みをはぐくんできたのは、大河ナイル川でした。

▼1960年、治水と電力供給を目的にナイル川で大規模なダム建設が始まります。ところが、エジプト文明の遺跡群が水没してしまうことが判明。ユネスコの呼びかけによって各国が援助し、巨額の費用をかけて移築されました。

▼フランスの文化相だったアンドレ・マルローは当時、ユネスコの会議で「世界文明の第1ページを刻む芸術は、分割できないわれわれの遺産である」と演説。これが、人類共通の宝物を守ろうという、世界遺産の理念につながりました。

▼日本の象徴ともいえる富士山が、その世界遺産に登録される運びとなり、地元のみならず、喜びにわいています。ユネスコの諮問機関は、富士信仰や浮世絵などの芸術的な伝統もあることから、文化遺産として勧めました。

▼富士山のもつ自然や文化、愛され親しまれてきた歴史をみれば、日本人には昔から心に根づいてきた宝物。しかし美しく雄大な山も、近年は増えつづける登山者によるごみ問題や環境保全に悩んでいます。

▼忘れてはならないのが、米軍と自衛隊が訓練をくり返す東富士演習場です。戦車が広大な大地を荒らし、軍用機が大気をふるわす。実弾射撃によって穴があいた山すその無残な姿…。演習場は北富士にもあり、オスプレイの配備も計画されています。登録を機に、まずは世界遺産に最もふさわしくない軍事の場をなくさなければ。しんぶん「赤旗」潮流5/3付より


巣鴨歴史散歩ー白鷗歴史散歩の会

2013-04-27 23:48:03 | 歴史散歩

恒例になっている白鷗歴史散歩の会の例会がありました。今回は「巣鴨から染井霊園・庚申塚」を中心にまわりました。

http://youtu.be/VulRhI0ZCUI

巣鴨駅前の商店街は太陽光発電パネルが張り巡らされていました。

おばあちゃんの「原宿」といわれている「巣鴨地蔵通商店街」は活気がありました。

入口に案内所がありました。

まずは「とげぬき地蔵」といわれている高岩寺

タイマーを使って記念撮影、いつものことですがすまし顔


未来がその胸中にある者、これを青年という

2013-04-08 23:10:06 | 歴史散歩

明治時代の自由民権運動家、植木枝盛(えもり)はいまの憲法にも影響をあたえた先駆的な思想のもち主でした。人間の自由と権利を求めた植木はこんな言葉をのこしています。「未来がその胸中にある者、これを青年という」この言葉を私は好んでつかっています。62歳になっても青年の心を持ち続けています。

高知市にある植木枝盛の生家の前で記念撮影(2006年2月)

植木枝盛紹介ビデオ 画像をクリックするか下記のアドレスをクリックして下さい。

http://youtu.be/UbvagDwX_ho

▼いつの時代も、新しい世を思いえがき、未来をきりひらいてきた若者。そのエネルギーを結集し、社会を変える活動を戦前からつづけてきた日本民主青年同盟が、90周年をむかえました

高知と言えば坂本竜馬ー坂本竜馬生誕の家の前

▼出発は1923年4月5日。15人ほどの青年による日本共産青年同盟の結成でした。天皇制政府のもとで劣悪な条件に苦しめられていた青年労働者や、貧困や抑圧にさらされていた学生らが参加。要求実現と、社会の仕組みを知る学習に励みました

▼もちろん、それは自分たちの幸福だけを追い求める運動ではありませんでした。共青の初代委員長、川合義虎(よしとら)らは創立の年におきた関東大震災の際、わが身をかえりみず被災者を救援しました。倒壊した家の下敷きになっていた幼児3人を救い出した川合をはじめ、誘導や炊き出しに力をそそぎました

▼その伝統は、いまに生きています。東日本大震災のボランティア活動や原発反対の運動には多くの民青同盟員がつどい、よりよい社会をめざす青年たちと力をあわせています

▼語り合い、学び、ともに成長できる。民青は、社会変革の思いを形にできる存在になっています。わずか21歳でときの権力に命をうばわれた先輩の川合が、好んで呼びかけた言葉があります。「未来は青年のものである」 しんぶん赤旗「潮流」より


新年の西新井大師風景

2013-01-04 23:32:54 | 歴史散歩

今年の元旦に新年のあいさつをした西新井大師の風景をお知らせします。

今年の大師参拝客は意外と少なかったように思いました。

私も西新井大師の賽銭箱に少し、協力をしてきました。

だるまは高値がついていましたが、買う人がいるんですね。

破魔矢も縁起をかつぐ人がいるので結構、売れていたとおもいます。

この飾りは何というのでしょうか。不信心な私にはわかりません。

最後に自分の宣伝です。

 

 


白鴎歴史散歩の会ー吉原とその周辺

2012-10-20 23:22:44 | 歴史散歩

私が加入している白鷗歴史散歩の会の例会があり、時間がとれたので参加しました。今回は吉原とその周辺です。今回もガイドは元白鷗高校校長先生の萱原昌二さんです。

まずは、萱原先生がつくってくれたパンフレットの冒頭のあいさつを紹介します。

吉原とその周辺 

吉原大門の入り口にある「見返り柳」の記念碑ー

江戸時代、江戸では「男一度は伊勢と吉原」といわれ、男にとってはお伊勢参りと吉原は一度は通過しなければならない体験であったようだ。新吉原と呼ばれた遊廓は、江戸時代の文学や歌舞伎、浮世絵にも取り上げられ、「通」と「粋」、「洒落」の言葉に代表される江戸文化の基盤をなすものであった。

元吉原と新吉原

江戸の町は、徳川家康の入府以来50年以上も大規模な建築工事が行われており、女性は男性の半数以下しかいなかったこともあって、市中の各所に遊女屋がつくられた。 1612(慶長17)年、各所の遊女屋が小田原北条家・浪人庄司甚左衛門を代表者として遊廓の開設を申し出て、1618(元和4)年葭茅の繋る湿地二町四方(中央区日本橋人形町付近)を埋め立てて葺屋町とし、営業を開始した。当初は葭原(よしはら)と言っていたが、その後に吉原と改称した。

 吉原に通う客については、当初は昼見世ばかりで、暮六つ(日没)までに登楼しなければならなかったので、昼間でも自由な時間のもてる大名や旗本などの武士を客として繁盛していた。その結果、時間的な余裕のない庶民を相手とする売春宿が再び増え始めた。特に吉原の強敵となったのが風呂屋の湯女(湯女風呂)であった。

そこで吉原では、湯女風呂の営業の禁止と夜間営業の許可を町奉行に求めていた1656(明暦2)年、逆に町奉行から、江戸の発展によって吉原が江戸の中心に近くなり、風紀上思わしくないので、浅草日本堤の浅草千束村への移転を命じられた。翌年の明暦の大火で吉原の遊廓が全焼したことから、移転の費用は町奉行が負担、江戸市中の湯女風呂の営業禁止、昼夜の営業の許可などを条件にこの浅草田圃に移転することとなった。

鷲神社ー大本は花畑の大鷲神社
 吉原弁才天の西側に鷲神社がある。この神社は「おとりさま」として知られ、11月の茜の日は開運・商売繁盛などを祈願する江戸っ子好みの縁起のよい市として、現在に引き継がれている。酉の日には縁起物の熊手を売る店が境内にひしめき、商売繁盛を祈願して、たくさんの参拝者が押しかけている。売られている熊手や「やつがしら」は、もともと農業神であることを示している。

酉の市は浅草鷲神社が有名であるが、本来は足立区花畑町にある大鷲神社で始まったものである。奥州合戦で苦戦中の源義家(1039~1106)を援けるためにやってきた弟の義光が、綾瀬川で戦勝を祈願した時に、一羽の大きな鷲が飛んできて、義光を守るように空を舞ったという。戦いは義光の勝利に終り、村人たちはその鷲を鷲明神として祀ったのがこの神社のはじまりである。

樋ロー葉記念館・旧居跡
 かつての新吉原遊廓の西の脇、旧竜泉寺町に樋口一葉が荒物・駄菓子を売る小店を間いた旧居があった。
それは間ロ二間(約4メートル)、奥行き六間(約12メートル)の小さな借家で、わずか10か月で廃業せざるをえなかった。歩道の道路側に「一葉旧居跡の碑」がある。
 

 

 


足立区80周年記念ビデオ「未来へ」

2012-10-09 23:35:00 | 歴史散歩

足立区の区政80周年記念ビデオができ、区議会議員にも配布されましたので一部、静止画像で紹介します。

ビデオを観るには画像をクリックするか下記のアドレスをクリックして下さい。

http://youtu.be/iPYQ407uaQw

かつての東京電力千住火力発電所の4本煙突はおばけ煙突と呼ばれていました。見る場所で1本に見えたり、2本、3本、4本に見えたのです。

私も子供の頃は北区の神谷町に住んでいたので、よく、足立区の新田の土手に遊びに来た時に、おばけ煙突が見えていました。

昭和7年足立区役所は千住1丁目におかれました。今は東京芸術センター(ハローワーク)になっています。

千住新橋をわたると「千住二丁目」の都電の停留所がありました。

富士山と丹沢連山がはっきりとみえていたのですね。この写真を撮影したのは「石坂満」さんという方で、かつての日本共産党足立地区委員長であった「久米嘉弘」さんの伯父さんで本木町に住んでいました。

昭和54年、当時日本共産党足立区議団の奮闘で実現した足立の花火大会。足立区の区政50周年記念誌に区議会議員渡辺やすのぶ、菅原かおる議員の奮闘で再開したと記載されています。当時から区議団は区政をリードしていたのですね。

昭和53年西新井大師門前にあった映画館、私はこのすぐ近くに住んでいました。西新井6丁目で新婚時代2年間だけでしたが、当時は石川千代子区議会議員(現生活と健康を守る会会長)が地元に住んでいました。石川書店という民主書店を経営していました。ご主人は石川竹治さんでした。

できたばかりの竹ノ塚駅東口まだ何もなかった駅で、この後、竹ノ塚第一から第三団地ができました。私はわが母校が竹ノ塚駅西口から徒歩15分でしたので、3年間通いました。昭和41年から3年間東武電車に東十条駅から日暮里駅、北千住駅経由で1時間以上かかりました。

下水道が完備されていなかったので、毎年、水害にあいました。

 


知られざる大英博物館ー古代エジプト

2012-09-02 23:50:52 | 歴史散歩

世界各地の文明が残した偉大な遺産を収めた、世界有数の博物館それがイギリスの大英博物館。今回、NHKが知られざる大英博物館として3回シリーズで放映しました。

私は1994年にロンドンを訪れた時、はじめて大英博物館を見学、その素晴らしさに感動して2000年から数回イギリスを訪れた際、大英博物館に行っています。その時のエピソードはここに書いています。アドレスはhttp://www.d4.dion.ne.jp/~m-hari/london5.htm 

 800万点を誇る収蔵品のうち、展示室で公開されているのは、僅かに1%。残りの99%は収蔵庫に眠っています。そして、大英博物館のバックヤードでは、そうした未公開の品々の科学分析を始め、最先端の調査研究が、日々続けられています。

今回、NHKは、2年半に渡る交渉の結果、大英博物館の知られざる舞台裏の全てを、本格的に取材する許可を得ることができました。そこからは、これまで謎に満ちていた、新たな古代史の真実が明らかになります・・・。

古代エジプトの神聖文字ヒエログリフ解読の鍵となったのが、高さ1.14 メートルの石版ロゼッタ・ストーンです。エジプト王プトレマイオス5 世を称える同じ内容の文章が、古代ギリシャ文字、古代エジプトの民衆文字デモティック、神聖文字ヒエログリフ、三種類で刻まれていました。

ロゼッタストーンによって、古代エジプトの忘れ去られていた膨大な文字の記録が一気に解読されました。この一枚の石板が、古代エジプト世界への新たな扉を開いたのです。


墓参りー秩父聖地公園

2012-08-09 22:14:11 | 歴史散歩

久しぶりに両親の御骨のある秩父聖地公園に墓参りに出かけました。

私もいずれ入ることになる墓です。

両親が30年前に秩父市が第3セクターで分譲したので、購入、権利を得ました。聖地公園は高台にあり、ながめが最高です。

近くに秩父鉄道の前身上武鉄道は、明治三十四年熊谷を基点に創業、大正三年大宮町(現秩父市)まで延長、秩父駅(停車場)が開設され、以来秩父地域交通の要となり昭和五十八年同所に、秩父地域地場産業振興センター建設に伴い同五十九年現在地へ移築復原されてました。

この駅舎は、当地出身の坂本朋太郎博士の設計といわれ、吹きぬけ部を構造の中心に四辺の下り棟勾配をアクセントに、大屋根の量感とが簡潔な調和を見せ、ハイカラな外観を形成、山間秩父における象徴的洋風建築として栄えました。

当時の写真が展示室に飾ってありました。

年間に4回しか開館しない駅舎内で記念撮影しました。


2時間で回る大英博物館ーNHK放送

2012-06-25 22:33:29 | 歴史散歩

6月24日(日)NHKが放映した大英博物館を2時間で回る番組をみました。世界有数の巨大コレクションが年間600万人もの観光客をひきつけています。NHKスペシャルのプロローグとして、大英博物館が所蔵する人類の至宝をしっかり味わう、特別番組をお送りします。絶対見逃してはならない逸品、隠れた名品や穴場を、わずか2時間で満喫できる、最適最短ルートで紹介しています。

古代エジプトの王、ファラオが作らせたピラミッドや巨大神殿。
古代エジプトの繁栄は、絶対的な力を誇ったファラオ。ミイラなど紹介しています。

私はかつて1994年から数回にわたり、カールマルクスの資本論の勉強や空想的社会主義の源流の一つと言われているスコットランドのニューラナークを訪れた時に、大英博物館に立ち寄り、日本語によるガイドをうけたことがあり、今回の番組は参考になりました。

ギリシャ 紀元前7世紀に、突如エーゲ海で花開いた古代ギリシャ文明。
真っ白い大理石の彫刻や白亜の神殿に象徴とされた文明も紹介しています。

http://www.nhk.or.jp/britishmuseum/walk/root/#/spot1/

ここからは15のビデオで紹介しています。必見です。

 


徳川家康の江戸城散策

2012-05-05 19:40:20 | 歴史散歩

連休の二日目は、徳川家康の居城、江戸城を見学しました。

江戸城は麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた城です。近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、日本最大の面積の城郭になったようです。

徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となりました。明治維新後・皇居となりました。以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっています。その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されています。

これは現在、残っている富士見櫓です。

家康が入城した当初は、道灌築城時のままの姿を残した比較的小規模で質素な城であった為、徳川家は開幕までにそれまでの本丸・二ノ丸に加え、西ノ丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸を増築しているそうです。

本丸御殿は表・中奥・大奥が南から北にこの順で存在していたとのこと。表は将軍謁見や諸役人の執務場、中奥は将軍の生活空間であるが、政務もここで行っていた。大奥は将軍の夫人や女中が生活する空間でありました。大奥は表や中奥とは銅塀で遮られており、一本(後に二本)の廊下でのみ行き来ができたようです。

この花はなんでしょうか。蜂が蜜を吸っています。

将軍の御殿としての最初の本丸御殿は1606年(慶長11年)に完成、その後、明暦の大火で焼失)、(弘化元年)焼失)、(安政6年)焼失)、(文久3年)焼失)などと再建・焼失を繰り返している。文久の焼失以降は本丸御殿は再建されずに、機能を西ノ丸御殿に移しているそうです。

植物園のように、めずらしい花がたくさんありました。

梅林坂ですが、梅の花は終わっていました。

内堀が四方八方にあります。

大手門(大手町駅)から入場して、平川門前(竹橋駅近く)から退場しました。

丸太の橋を渡ると場外に出て、すぐに竹橋駅があります。