ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

燃え残りし我ら、この岸辺で

2010-03-14 02:59:22 | その他の日本の音楽
 ”果てしなき闇の彼方に”by おぼ たけし

 深夜も深夜、午前2時とか3時とか4時とかいう時間帯にテレビがアニメの番組を流し始め、「なんだこりゃ?」と呆れたのも、もはや遠い昔、そんなものはいまや見飽きた日常の光景となってしまった。考えてみれば、「ではアニメの放映が、夜の早い時間帯や昼間なら正常といえるのか?その根拠は?」と問われても応えようがないのであって。

 ひときわ印象に残っているのが、水木しげる氏の「ゲゲゲの鬼太郎」の原型である貸本漫画時代の作品、「墓場鬼太郎」のアニメ化されたもの、なんて代物を何の予備知識もないままに偶然深夜のテレビで見てしまったことだ。
 おそらくはじめからある種の効果を狙って作られていたのだと思うが、アニメというには妙に動きが少なく薄暗い、夜店の幻燈ショーみたいなその映像作品に人の寝静まっている深夜、一人で向かい合っているのは、子供の頃、風邪の熱に浮かされるままに見た悪夢との再会を思わせた。

 そして・・・これは数ヶ月前の話となるのだろうか、その日もブログの原稿打ちながら横目でテレビの画面を見つつ無駄に時間を過ごしていたら、「あしたのジョー2」なるアニメが始まったのだった。時はもう午前4時を廻っていたと記憶している。
 「あしたのジョー」に関して私は、強力に熱中していた連中のすぐ下の世代に属している。リアルタイムでファン化するのも可能だったが、もちろん私があのようなものに反応するはずないね、私は当時、マンガに関しては「ガロ」などのアングラ・マンガを暗い顔で読み耽る出来損ないの文学青年もどきだった。

 で、ちょうどいいや、あれがどんな物語だったのか、遅まきながら確認してやろうとそれなりに気を入れて画面に向き直ったのだが、どうも雰囲気がおかしい。60年代と70年代の狭間という熱に浮かされた時代の空気があまり感じられないのだ。妙に整然と進行するストーリーによる意外なほどのクールな空気感がかもし出す雰囲気は、むしろ先にあげた「墓場鬼太郎」の静けさを連想させる。私の場合、それを見た夜明け近い深夜という条件がますます作品の「しらっちゃけ感」を倍化させた。

 おかしいなと調べてみた結果。タイトルにある「2」がクセモノだったのだ。本作品ともいうべき「1」のほうは1970年から1年間、いわばリアルタイムで製作されたのだが、途中で急進行するストーリーがアニメ製作に追いついてしまい、やむなく途中でアニメは製作中止となったとか。そんな無茶なと思うが、まあ、あの時代はそんな時代だった。
 そして、その先の物語をフォローすべくアニメ「2」が作られたのがおよそ10年後の1980年だった。10年もの時が過ぎれば、血気盛んな若者もそれなりに現実の苦さを知るようになる。なにより、時代の喚起した熱が10年もの歳月を同じ熱さをもって燃え盛るのは不可能だ。

 物語の中に潜んでいた様々な矛盾も「2」においては製作者の手が入り、論理的なストーリー展開が実現されたのだという。しかし、”論理”なんかで受けていた作品だったのか、あれは?
 そもそも1980年に「あしたのジョー」なんて話題になっていたっけ?明らかに時代は変わっているのだから。
 まちがいなく「あしたのジョー」は、1960年代と70年代と言う、まさに世の中が熱に浮かされていたような不思議な時の狭間に燃え盛った奇怪な炎の一形態であった。そいつを、どのような事情があったか知らないが、10年もの時を置いて、しかも論理の矛盾(おそらく、そこにこそ虚実皮膜のドラマの玄妙な間があった)を洗い流してきれいに整地した続編を世に送り出してしまうとは。負け戦は目に見えている。

 しかし、「1」と「2」の、どちらもでチーフ・ディレクターをやっている出統氏(ちなみに私、この名は初対面で、どのような方か、まったく存じ上げません) をはじめ、スタッフたちは、この作品を作らずにはおれなかったのだ。青春残侠伝に片をつけねばいられなかったのだ。真っ白に燃え尽きて、なんてカッコいい終わり方が青春の出口に用意されている事などあるほうが不思議な、カッコつかない人生なのだから。
 などと勝手な当て推量を胸に秘めつつ、いつしか私は深夜の「あしたのジョー2」を楽しみに見るようになっていた。

 「2」のタイトルナンバーである、「果てしなき闇の彼方に」を、オリジナルのおぼたけしの唄と、なぜか後半流れるようになった作詞作曲者である荒木一郎本人歌唱の両ヴァージョン聴きたいがために、「あしたのジョー・サウンドファイル」なるCDまで買い求めた。
 さすが荒木一郎は、”それ”を過ぎたもの、過ぎ去ってしまったものとして、むしろ鎮魂歌といえる形態の曲に仕上げている。曲の形態としてはむしろブルースである。今、私にとっては一杯やったときの最愛好曲である。

 そういえば今度、「ジョー」を実写版で取り直すんだって?やめとけばいいのにねえ。絶対にそれは失敗作になる、それはもう決まっているんだからさ。カッコいい時代はもう、ずっと昔に過ぎていってしまったんだからさ、俺たちを置き去りに。そんな俺たちの見るべき夢は他にある。




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