ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

60'ハコバン事情

2007-07-05 03:13:07 | 60~70年代音楽

 さらに先日の”日本のロック・ベスト”の余波が続いていて恐縮ですが。
 たとえばダイナマイツのアルバムなどを高評価する根拠としての”60年代末のディスコの湿った空気感”などと言った話。

 とりあえず当時、街には不良少年少女たちの遊技場としてのディスコ、当時は”ゴーゴークラブ”なんて呼び方もあったのだが、そのようなものが日々の娯楽を提供していたものだ。ただそれは今の”クラブ”なんてものの持つ、まるで運動会みたいな日向臭さを持ったものではなく、より湿った後ろめたさ、陰気さが支配していた。

 当時、”不良であること”は明らかに”いけないこと”であり、今日のようにそれなりの認知はされていなかった。その証拠に、その場には、シノギにつながるなにやらおいしいネタが転がっているのであろう、”営業中”のヤクザが当たり前の顔をして徘徊していた。
 あの頃の日本のバンドの持つ湿った暗さ重さは、そのような”都市の悪場所”の発していた感触と無縁ではないと思う。

 当時は、そのような場には生のバンドが入るのが流行しており、多くの場合、一晩に二つのバンドが交互に演奏して、喧騒のうちに朝を迎える、そんな仕組みになっていたのだった。店の専属となる事を”ハコバンで入る”などと称した。

 そんな”ゴーゴークラブのハコバン”の身分からスカウトされ、人気GSとして名を成す、なんて道は狭いながらも開けていた。たとえばタイガースやらテンプターズやら、といった超人気バンドは、そのようにしてスターになっていったのであり、それに続いた有名無名のバンドは数知れない。それらすべてが、過ぎてしまえば虚しい日々の泡であるのは、言うまでもないが。

 そのうち家出をしてGSの世界に身を投じようか、などと半分本気で思いつめていた私としては、そのような連中の底辺とそれなりの繋がりもあるにはあったのだが、たとえば彼らは、広間は仕事場であるディスコの床で寝ていた。GSとして名を成す道は開けているとはいえ、それはまさに雲を掴むような話であり、彼らの日々は目先の小金、女とクスリ、なんてものの間で荒み、鈍磨して行った。

 ディスコの客の中には、その店を”締める”番長、なんて存在もいて、バンドの演奏上のとりあえずの使命としては、彼がかっこよく踊れるようなリズムを提供することにあり、それに答えることが出来れば、番長お気に入りのバンドとしてそれなりの扱いのよさを手に入れることが出来た。

 なかなかな情けない話だが、そんなバンドに時に加わって演奏していた私としては、そのような”ともかく踊りに奉仕するリズムを繰り出すこと”を体の芯から覚えたことは意味がなくもなかったな、とは思っている。「タラタラ演奏していたらぶっ飛ばされるぞ」なんて恐怖を背に感じながら、その感触を身に付けていったのだ。

 そのようなヒリヒリした空気感を伝えるものがあるゆえ、ダイナマイツやらの演奏するR&Bナンバーなどに高評価を与えずにはいられない私なのである。まあ、場末もいいとこ、の私の体験と最前線で戦っていたダイナマイツを同列に語るのも申し訳ない話だが。

 まだ”青い珊瑚礁”のヒットを出す以前の”実力派GS”たるズー・ニー・ヴーのデビューアルバム、”ズー・ニー・ヴーの世界”などは、GS歌謡の1曲も収められていず、当時のR&Bの定番メニュー連発の、まさに当時のディスコから直送の雰囲気を伝える。
 
 ホールド・オン -HOLD ON I'M COMING
 マンズ・マンズ・ワールド -IT'S A MAN'S MAN'S WORLD
 青い影 -A WHITER SHADE OF PALE-
 グリーン・オニオン -GREEN ONIONS
 ドック・オブ・ザ・ベイ -Sittn' On THE DOCK OF THE DAY
 僕のベイビーに何か? -WHEN SOMETHING IS WRONG WITH MY BABY
 マイ・ガール -MY GIRL
 アイヴ・ビーン・ラヴィング・ユー・トゥ・ロング -I'VE BEEN LOVEING YOU TO LONG
 リーチ・アウト・アイル・ビー・ゼア -REACH OUT I'LL BE THERE

 そうだよあの頃、こんな曲が受けていたんだよ。・・・と、これらのラインナップが喚起するあの頃の個人的な思い出には事欠かない。

 ”実力派R&Bバンド”と高評価を受けつつデビューしたものの、あまり後味が良いとは言えないある事情で、アルバム1枚を世に問うただけで消えていった”ボルテージ”の残した音などは、今でも有効と感じられる独自のファンキーさに捨てがたい魅力を感ずる。

 そぞろGS時代にも陰りが差した時期にデビューした彼らは、ゴールデン・カップスのようにアーティスト然としたアピールではなく、無口な職人ぽい姿勢で黒人音楽に対峙していて、なんだかそれも魅力に感じられた。
 が、本当の成果が問われる前に彼らは、メンバーがファンの女の子に性的暴行したとかつまらない事件が原因で、芸能界を追われていった。

 先に述べた”ゴーゴークラブの番長”をやっていた男の一人と私は、30過ぎてからある飲み屋で再会し、しばらく飲み仲間として付き合った事がある。

 「その後、学校を中途で放り出された後、遠洋漁業の仕事に就いた」と、大の男が辛さに涙さえするというあるいは南太平洋の、あるいはアフリカ沖の体験を語る彼に私は、ははあなるほど、あなたがあんまりおっかない人だから、日本国内に誰も置いておきたくなかったんだね、と言ってはおいたが。

 それから私は店に置かれていたギターで思い出のR&Bあれこれのフレーズを弾き、歌ってみせた。相好を崩して頷き、良い調子で酔っ払った彼は、「日本中のディスコのバンドは俺が鍛えた!」とグラスを掲げて叫んだ。

 次の漁に出た後の彼はなぜか街に帰っては来ず、私もそんな夜があったのも忘れたまま、もう長い歳月が流れ過ぎた。彼や私がダルい青春を燃やした”ゴーゴークラブ”はとうの昔に建物ごと取り壊されて英会話学校となっており、そのようなものがあった面影さえ残っていない。


最新の画像もっと見る