ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

”ラストチャンス”に耳をふさいで

2007-07-03 03:15:01 | 60~70年代音楽

 ”日本のロック・ベスト”の企画の余波がまだ心のうちに残っていて、ゆえにまたも日本のロック昔話をしてしまうが、どうかお許し願いたい。

 麻生京子=麻生レミに関しては以前、文章を書いているが、まだ書き足りないものがあるのでこれも再登場お許しを。
 麻生京子は1960年代はじめに、そのワイルドな歌声を売り物に”日本のブレンダ・リー”などとも仇名されつつデビューした、のだそうだ。さすがに私もそこまでリアルタイムに知ってはいない。

 デビュー当時の彼女の録音を集めたP-VINE編集盤の”ハンガリアロック・麻生京子”を聞くと、フルバンドとともにスイングしまくる表題作やブルーコメッツをバックにワイルドなシャウトを聞かせる”のっぽのサリー”などなど、当時としてはかなり濃厚にロックの魂を持っていた歌い手と思え、嬉しくなってしまうのだが。

 私にとっての彼女の最初の記憶は、ある日のテレビの画面にエレキギターを抱えて現われ、男どもによるエレキバンドを従えて”セブンアップ!セブンアップ!のっみっまあしょう~♪”とCMソングを歌う姿である。

 1960年代半ばである。ギターなど弾く者は即、不良の判定が下ったそんな時代において、女だてらにエレキを抱えてロックを歌うその姿のあまりのかっこ良さにすっかり魅せられてしまったのだが、その時期、そのCM以外に彼女の歌うのを見たことはなかった。ヒット曲ってなかったんだろうなあ、彼女には。

 というか、”日本最初のロック少女”とも言うべき彼女にふさわしい活動の場は、当時の日本にはまだ存在しなかったと考えたい。そして、そのすぐ後に、すべてを少女たちの嬌声で塗りつぶしてグループサウンズの全盛時代がやって来る。

 麻生京子が麻生レミと改名して、内田裕也が”日本発の本格的サイケデリックバンド”として組織した”フラワーズ”に加入したのは資料によると1967年の出来事となっているが、私の記憶ではもう少し後、GSが完全に退潮の兆しを見せ始めた頃に、ジェファーソン・エアプレインやジャニス・ジョプリンのコピーをメインに押し立て、盛んに活動をはじめたような印象がある。

 どちらかと言えば旧来のポップソングの枠組みの中で窮屈そうにしていたデビュー当時に比べ、その資質をより生かせる”ロックバンドのボーカル”のポジションを得た彼女は、ずいぶんと生き生きとして見えた。

 また、サイケバンドと名乗りつつもバンドの中央になぜかペダル・スチールギタリストがいたフラワーズのサウンドも、独特の色合いを持っていた。
 ファズのかかったリードギタリストのインド音楽色濃いアドリブと、スライド・バーで押さえるがゆえに微妙に揺れ動くスチールギターの響きは不思議なブレンド具合を示し、何がなにやらまだ分かっていない少年ロックファンの当方は、なるほどサイケなサウンドだと大いに納得させられたものだった。

 当時のロック少年の”聖典”の一つであった、土曜の午後のフジテレビで放映されていた”ビートポップス”への出演時、番組司会の大橋巨泉に、「あんたはサラブレッツってジャズバンドを持っているらしいが、俺にはこのバンドがある!」などといいつつ、本来ジャズ畑の曲ではある”サマータイム”をフラワーズに演奏させた内田裕也の心の高ぶりなど、今思い出すとなかなか微笑ましいものがあった。

 まあ、その”サマータイム”は、フラワーズの演奏も麻生レミのボーカルも、ジャニス・ジョプリンとそのバックバンドの丸々コピーではあったのだが。いや、当時はそれで十分に驚嘆に値したのだった。日本のロックのレベルから言えば。

 だが、もう残された時間は少なかった。フラワーズはその頃、”ラストチャンス”なるシングル盤を発売する。それは彼らが標榜していた最先鋭のサイケなサウンドではなく、ブルーコメッツの井上忠夫のペンになるマイナー・キーの辛気臭い、典型的な”GS歌謡”だった。要するにサイケの理想は理想として、とりあえず手っ取り早く金が必要だったのだろう。GSのブームはとっくに去り、有名バンドにさえ解散の噂が出ていた。

 もっとも私は、この”ラストチャンス”なる曲、嫌いではなかった。
 歴史の転換期とて激動していた時代の空気と、そいつに追立てられる様にして暮れていったあの頃の街角のあちこちに、そして人の心に淀んでいた陰りを、あの物悲しい別れの歌がとてもよく表現していたと思えるからだ。
 それは滅び失われて行くGSたちへの挽歌であり、抱え込んだ激しい熱を、だがどこへも叩きつける道を見つけられずに忘れてしまうしかなかった”60年代の終わり”への頌歌だった。

 フラワーズ自身にしてみればおそらく好きでもなんでもない、ただ金儲けのために歌わされたのであろう歌が、奇妙に歪んだ輝きで時代の貌を映し出して見せる。そんな瞬間もまた、大衆音楽の孕みうる栄光と言えよう。もちろん、誰もそれを讃えたりはしない、それでいいのだが。

 やがて、あっけなく年は明けて1970年がやってきて、麻生レミはフラワーズを脱退してソロの道を歩んだ。フラワーズは代わりのボーカルにジョー山中を迎え、ご存知、フラワー・トラベリンバンドとして、ハードロックのバンドに生まれ変わった。
 そして私は、ジャニス・ジョプリンに傾斜するあまり、そのそっくりさんと化して行く麻生レミにも、あの不安定な音を出すサイケのバンドから、”ハードロック”とはっきり割り切れる音を出すようになったトラベリンバンドにも、もう興味が持てず、そんなもののファンであったことなど一度もないような顔をして暮らす事を覚えていったのだった。


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