”Fantasy” by Candy Lo
もう何度もしてしまった話だが。1990年代の終わり近く、あの香港が99年の租借期間満了に伴い北京政府に返還されたのだが、それに先立つ数年間の香港ポップスに妙な思い入れを込めつつ、聞き込んでいた時期が私にはある。
地上のリアルから、ほんの数センチ浮かび上がったような”借り物の土地と時間”の狭間から”世界の最先端”を鋭く照射していた都市世界・香港の輝きが、あの茫漠として巨大な中国大陸と大量の人民の波に埋もれ、窒息し、やがて雲散し霧消してしまうのではないか?
そんな香港市民の焦り、不安、怒り、恐怖が、日々伝わってくるニュース等から、なんだか非常にリアルに感じられた気がした。
だが、だからといってどうする?すでに返還は決定事項だ。あとはただ、容赦なく過ぎて行く時をただ見守ることだけが我々には許されている。
香港市民のそんな想いが焼き付けられたように、虚無的な輝きを放ちつつ疾走する独特のダンス・ミュージックや、身をよじるように歌い上げられる、香港名物の華麗な、でもやっぱり名付けようのない終末観が吹き零れそうな美しいバラードなどなど。毎晩毎晩、安い酒に酔い痴れながら聴き続けたものだ。
おそらく私は当時抱えていた、生きて行く上で先の見えない、オノレの進むべき道を見つけられない焦燥感と、香港の人々が”返還”を前にして、始末のしようのない屈託として懐に呑んでいると感じられた終末観とを無理やり重ね合わせて、いたのだ。
勝手に作り上げた「俺って香港市民と魂の兄弟」なんて幻想に、さらに自己憐憫の粉を振りかけて、その”苦しみ”を楽しんでいた。
本来、重ね合わせて考えるべき問題でもなかったのはもちろんである。そう考えてみるのが気持ち良かったから。それだけのこと。
その後、香港があっけなく返還となり、多少のギクシャクはありつつも大陸中国にゆっくりと同化して行く頃になると私の妙な嵌め絵遊びは、まったく気合が入らなくなっていった。
また、それまでひいきにして来た香港の歌手たちが「こうなったら金儲けに」と居直ったかのように、これまでの使用言語である香港方言、すなわち広東語で歌うのをやめて、大陸市場を意識した”標準語”たる北京語で歌ったCDなどをメイン商品として世に問い始めるたのも大いにしらける気持ちがあり、私はいつしか香港ポップスを聴く習慣をなくしていた。
そして20世紀も終わり、本当ならもうとっくに月や火星に人類のドーム型都市なんぞが出来ている筈だったのに空振りに終わった21世紀暮らしにも慣れたある日、私はこのCDをレコード棚の隅に見つけたのである。
キャンディ・ローなる歌手のアルバム。香港の歌手らしい。知らない名前。ショートカットの髪が印象的なシャープな雰囲気の人である。私が香港に興味を失った以後にデビューした人なんだろう。
なんという理由もなく、気まぐれで購入した。考えてみれば、ほとんど10年ぶりにまともに聴く”香港の今の音”である。
変わり果てた香港の音”だったら嫌だなあ。そしてあの、シュウシュウいう四声音が耳障りな北京語で歌われていたらどうしよう。などと嫌な予感を覚えつつ、スタートボタンを押す。
が、聞こえてきたのは、あのアクの強い広東語の響きだった。それも、都会人らしい洗練とけだるさをまき散らし、気位も高いが気も強いぞ、の香港の女性歌手らしいテンションを持って、そいつは歌われていた。ああ、何も変わってはいないじゃないか。
あとでネットで調べて知ったのだが、このキャンディ・ローなる歌手、結構ロック志向のある人のようで、きれいなメロディのバラードのど真ん中に突然、ハードなギターのカッティングなどぶち込んだりするのが困りものなのだが、しかし、あの昔ながらの香港ポップスの香りを十分に発散してくれていた。そいつが嬉しかった。
”香港ポップスのあの香り”と言っても、どのように説明すれば良いのか分からない。ギターのサウンドがどうで、という問題ではないのだ。
よく映像で見るでしょう、香港の夜。キンキラキンに繁華街の明かりが燈り、そいつが港の水面に反射して揺れている。空を横切って最終便のジャンボジェットが、ほとんど街の真ん中と言いたい場所にある空港に吸い込まれて行く。
そんな光景をバックにつかの間漂い、そしてまた消えて行くひと時の蜃気楼みたいに無意味がゆえに美しい、そんな音楽。
まあ、わかりゃしないんだけどね、たった一枚聴いただけで、この10年間の香港の変化なんて。
とはいえ。もう一度、あの喧騒の香港の街角をうろつきまわるのもいいかな、とまた思い始めた。
人の生活は続いている筈なんだから、”返還”なんかとは関係なく。そりゃそうだ。そうなんだけどね。まあ、いろいろあるけど。