”WHARN GUNGWARN VOL.1”by KUMWHARN WEERAWAID
寒いね。この間、春一番って吹いたんじゃなかったっけ。なのに寒いね、もう3月なのに。地球温暖化とかいうのはイカサマだ、というのの、これは証明なのか、その逆の証明なのか。もはやどういう理屈だったか分からなくなってる。
さっき海辺のコンビニに買い物に行ったついでに、夜の海岸遊歩道を歩いてみた。夏になれば深夜であろうとスケボーやる奴はいる、犬の散歩をする奴はいる、それらを避けて道の端に寄れば、人目を避けて寄り添ってる二人連れにけつまずいてしまう、そんな場所だが、さすがこの季節、この時間に人影はない。
通りに沿って一直線に夜風は吹き抜け、通りから見下ろすヨットハーバーからはギシギシと繋索の鳴る音が登って来るのみだ。海沿いのホテルのネオンサインは暗い水面に映り込んだまま凍りついている。
この数日、雨やら寒さやらを言い訳にサボりっぱなしのウォーキングの埋め合わせに歩いてみようとしたのだが、いや、寒くてやっちゃいられないから簡単に中止してしまったのだった。
こんな季節に聴いてみたくなった南の国タイの音楽があった。ジャンル的にはタイの演歌といわれるルークトゥンというジャンルのもののようだが、とはいえ陽気な大衆歌謡の賑わいとは段違いの、意外な世界が広がっている。
ともかくしっとりと濡れたような静けさに包まれた、祈りにも似た静謐な歌世界なのだ。と言っても宗教臭さではなく、どちらかといえば過ぎ去ってしまった優しい時代への郷愁に満ちた優しい人肌の静けさなのだ。
一瞬、ルークトゥンではなくクロンチョンか?とも思ったが伴奏が違うし、音楽の雰囲気がまるで違う。クロンチョンの潮騒のざわめきのような寄せては返すリズムのさざ波はここにはなく、あるのは悠久の時の流れの中で、旅人たちが古道に残して行った足跡一つ一つみたいな遥かなエコーを感じさせる控えめな拍動だけである。
これは、ルークトゥンの懐メロ集とか、そんなものなのではないか。他国のものとばかりも思えない、こちらの懐にまでもぐりこんでくるような懐かしさは、その曲調に日本の古い歌謡曲なんかにも通ずるニュアンスを潜ませているから、と思える。
このアルバム、毎度タイ関係では頼りにさせていただいている”ころんさん”のブログで知ったのだが、ころんさんはこのアルバムに”東アジア歌謡の古層”を想定して論じておられた。なかなかに血の騒ぐ展開と思える。とはいえ、それに加担しようにも、こちらはまるでタイ歌謡の知識も持ち合わせない。けど、勝手な空想を広げて楽しむことは勝手だろう。
絶妙にコントロールされたKUMWHARN WEERAWAID 女史の歌声は、シンと静まり返った水際にポツンと落とした水滴がそっと波紋を広げるように繊細なヴァイブレーションをもって広がって行く。東アジアの民衆文化の流れの淵に沿って。
目の前に暮れかけた広い空が広がり、その空の下、遠く遠くに懐かしい人がいる。もう会うことも叶わない人なのだけれど、せめて子供の頃に習い覚えたこの歌をあの人のいる方角に向って歌ってみましょう。
そんな想いの一つ一つを、フルートやアコーディオンやストリングスの柔らかな響きがそっと包み込み・・・東アジアの空は暮れて行くのだ。
(もの凄く残念なことに、このアルバムの試聴は見つけることが出来なかった。これは絶対、聴いて欲しかったんだけどねえ。
と言って、何も貼らないのも淋しいんで、大物ルークトゥン歌手のスナーリー・ラーチャシーマーのものなど下に。まあ、上の文章とあんまり関係ないけど、懐かしめのルークトゥンてこんな感じ、という紹介の意味で)
そう言えば昨年ラオスに行った時、この人のアルバムのCMとか、この手の音楽の別の歌手のCMが結構流れていましたが、もしかしたらそこそこ需要があって普通に聞かれている音楽なのかもしれませんね~。単に我々はそのことを知らないだけ、という気もします。
もし今週の音楽が一つのジャンルをなすくらい人気も厚みもある、なんて事だったら、その関係の盤をどんどん紹介して欲しいものですね。もっと聴きたいもの、こういう音を。
下記記事を参考にして下さい。2008年11月30日にタイ文化センターで開催されたコンサートの状況です。このコンサートにカムワーン・ウィーラウェートは参加しておりました。
http://www.daco.co.th/my/kenchan123/item/5005
http://www.daco.co.th/my/kenchan123/item/5008
すでに死に体といわれながらも新人歌手が出てくる・・・なかなか気になるところですね。 とにかく予備知識なしに”音楽”として聴いて気に入ってしまっているんで、今後も聴いて行きたく思っています。そして、やっぱり大物歌手の立派な唄より、新人のフレッシュな唄を聴きたいなあ。