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町役人はお裁きにも立会 文政12年3月上旬・色川三中「家事志」

2024年03月11日 | 色川三中
文政12年3月上旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第三巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
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文政12年3月朔(1日)(1829年)
・宮古条助様が、今後町組小頭を兼ねることとなったので、羽織袴でご挨拶に伺うようにとの連絡があった。
・隣主人が雛人形を持ってきた。受取らないといったのに。(これで三度目)。仕方ないので受取ることとする。
#色川三中 #家事志
(コメント)
・宮古条助(土浦藩士)が町組小頭に任命されました。町役人は町組小頭との接触も多いため、挨拶に行くよう指示されています。
・娘の初節句ですが、倹約のため、お祝いは受取らないという方針です(2月26日条)。しかし、仲の良い隣主人のしつこさにだけは叶わなかったようです。
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文政12年3月2日(1829年)雨
中城の百姓源八の養子の源兵衛が出奔した。
御尋御請書を提出する日限は30日。奥印を遣わす。
#色川三中 #家事志
(コメント)
町役人の仕事控え。人別帳に載っている者が出奔したときには、町として記録を残す必要があるようです。御尋御請書というのは、その記録の一つのようです。町役人の奥印が必要なため、印形を持っていかせています。

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文政12年3月3日(1829年)雨のち晴
老人が言うには、「3月3日の朝西風が少しあって露がおりるときは、綿には良い。朝雨で昼から南風が吹いて晴れるときは、綿には誠に良くない。これは間違いないことだぞ。」とのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
古老の言い伝え。信憑性はともかく、綿の栽培への関心が高かったことがわかります。文政10年9月9日条でも綿作成につき言及があり、綿栽培の重要性がわかります。
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文政12年3月4日(1829年)雨 曇
間原吉右衛門の隠居が亡くなった。香典として金二朱遣わす。羽織袴で弔問に行く。
#色川三中 #家事志
(コメント)
この時代正装は羽織袴。弔問も羽織袴ですし(本日の日記)、名主宅に藩の御用で訪問するのも羽織袴です(2月7日条)。
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文政12年3月5日(1829年)曇
・町組小頭から御用ありとのことで、宮古条助殿方に羽織袴で、恐悦しつつ参る。
・戸田や重兵衛が藤兵衛から土地を買い戻し、奥印をもらいにきたので、奥印を遣わす。
#色川三中 #家事志
(コメント)
町役人としての仕事。①町組小頭に任命された宮古条助殿方から早速仕事につき連絡。正装で御用伺いです。②譲主藤兵衛、被譲人戸田や重兵衛の買い戻し証文に奥印。重要書面は町役人の公証が徹底していたのですね。
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文政12年3月6日(1829年)曇
町奉行の藤井様のところへ、名主・町年寄一同で参る。駒市(馬市)には他所者が入り込むので万端気をつけるべきこと、ことにスリ等には気をつけるべきことを仰せ付けられる。
#色川三中 #家事志
(コメント)
町奉行との会合。町で駒市(馬市)が開催されるに当たっての注意を指示されています。様々な者が土浦に来るため、土浦藩は治安維持をはかりたい。しかし、治安維持の実際は町が負います。奉行所は指示するだけで、実務は町役人が負うのがこの時代の特徴です。
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文政12年3月7日(1829年)
戸田や重兵衛から奥印の礼として金二朱を受け取る。
#色川三中 #家事志
(コメント)
一昨日の記事(3月5日条)で、戸田や重兵衛が藤兵衛から土地を買い戻し、奥印をもらいにきたとありましたが、その戸田屋さんが本日御礼にきました。御礼は金二朱。不動産売買契約書のときは一朱でしたから(2月19日条)、それよりも高い金額です。
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文政12年3月8日(1829年)晴
清兵衛(田宿町の忠蔵の伜)と詠吉(中城町の儀助の伜)がとんだや富七の湯屋で帯び二筋を盗んだ。町組小頭が両人をお糺しになり、その差添を昨日、今日と勤めた。両人は本来は本縄だが、酒の上の過ちでもあり、腰縄に小手御廻し羽交い締めで、清兵衛は太田甚五右衛門に、詠吉は我らにお預けになられた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
町役人は刑事事件にも関与します。①差添え、②被告人の身柄の確保(「お預け」)。警察の留置場や拘置所といったものがない時代なので、町役人の方で責任をもって預かっていたようです。それにしても「腰縄に小手御廻し羽交い締め」って何かスゴそうです。
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文政12年3月9日(1829年)晴
帯を盗んだ清兵衛と詠吉の件。菩提寺の神龍寺が間に入ってくれて、二度とこのようなことをしないという書面を差し入れることで、お許しをいただくこととなった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
清兵衛と詠吉が行ったのは窃盗(被害は帯二筋)。飲酒の影響もありとのことで、書面差し入れで、処分なしとなりました。今でいえば起訴猶予といったところでしょうか。事案の軽重に鑑みて柔軟な処理ができる仕組みはこの時代にもあったのですね。
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文政12年3月10日(1829年)晴
帯を盗んだがお裁きとはならなかったので、清兵衛が、組合(五人組)と一緒に礼をいいに来た。礼は半紙二丈。
#色川三中 #家事志
(コメント)
清兵衛が御礼の半紙二状を持ってきました。不動産売買の奥印は金一朱や二朱だったのと比べると、半紙二状は見劣りします。刑事事件での「御礼」はその者の資力も影響するのかもそれません。
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