駒井邦夫先生 長い間有難うございました!

2022-08-15 13:53:43 | 日記
7月21日木曜日、稽古を始めてまもなく駒井先生のご子息から電話がかかりました。

電話を聞いて、あまりにも驚いて何と言っていいかわからず、「どうして?どうして?」と、相手を責めるしか術がありませんでした。しばらくして、宮川町の組合長である奥様よりもお電話をいただき「まず、あんたに知らせなあかんと思うてな。おとうさんはあんたのことが好きやったしなあ。」と。


私は1981年、はじめてのりさいたるを開催しました。荻江「鐘の岬」と長唄「時雨西行」を踊らせていただき、中程で、西川 鯉先生が長唄「ことぶき」を踊って華を添えて下さいました。そして駒井先生の奥様が荻江を唄って下さいました。その時師匠は、当時NHKで活躍されていた駒井先生を紹介して下さり、今後は一切先生に相談して決めていくようにと言われました。先生はNHKの古典芸能部門のディレクター(後に音楽部門全体も担当された)、私はおどりが大好き、師匠が大好きで舞踊家に憧れているだけの普通の一人の女ー普通の人間がいきなりプロの世界の人に出会ったという感じで、何もかもが驚きの連続でした。りさいたるの舞台稽古で、いきなり雷が落ち、私は恐ろしくてトイレに駆け込んで泣きました。
師匠が亡くなられた後、師匠からのプレゼントが何と素晴らしいものであったかを日を追うごとに理解できるようになり、ただただ感謝しました。でも、出会いが衝撃的であった上に、先生は人を寄せ付けない厳しさをお持ちでしたので、先生と会う時はいつも緊張の連続でした。が、素人の私に、一つ一つ少しずつ様々なことを教えて下さいました。師匠亡き後、保護者がなくなった私が難しい特殊な世界で今日まで生き延びられたのは、先生がいて下さったからです。そうでなければ、早くに潰されていたと思います。


文化庁が主催する芸術祭がどんなものであるか知らなかった私に、先生は参加することを勧めて下さいました。その上、何とかして賞を取らせてやりたいと
親身になって心配して下さるのが有難く、その期待に添いたいと思えば思う程緊張が高まり、苦しい日々も過ごしましたが、優秀賞がいただけたことを報告した時は、とても喜んでいただき褒めてもいただき、受賞式にも一緒に来ていただきました。一度ならず、二度までも受賞式にお連れすることができたのが私の一番の喜びでした。二回目の大阪のリーがロイヤルホテルでの授賞式の後は大雨でしたが、京都に帰って駒井先生ご夫妻と前原氏と四人でワインを飲みながら喜びを分かち合った夜のことが、今でも鮮明に思い出されます。ここまで頑張れたのは、何とか先生に怒られたくない、少しでも褒めていただきたいという一心があったからです。




でも、先生はまた、私に注文を出されました。「西川 鯉なんて素晴らしい名前を他の人に渡したらあかん。あんたが継がなあかん!」と。私は、自分の祖母や母が「あんたのおばあさんは誰やの?おかあさんは誰やの?」と問い糺す程、師匠宅に入り浸っていましたが、それほど師匠が大好きだったので、先生の注文はとても嬉しいことでしたが、大変な困難と責任が伴うことでしたので躊躇しました。が、西川右近先生が「駒井さんがついているなら」と、思いがけなくもすんなりと賛成して下さり、襲名させていただくことになりました。そして2020年2月11日、運よくコロナ感染拡大の直前に南座で襲名披露公演をさせていただいた後頃から、次第に怖い、緊張しなければならない先生だという感じが薄れて行き、少し物足りなく、淋しく感じるようになりました。時々は褒めていただけるようにもなり、嬉しい反面、却って怖くなり心配になりました。

コロナ禍の世界を迎え、お会いするのもはばかられるようになった2021年11月14日、東京国立劇場でも襲名披露公演をさせていただきました。東京へ来ていただくのは難しいと感じ、我儘すぎると重々思いながらも、国立劇場でも披露公演を開催できたということを見ていただきたいと思い、苦悩していました。それを見かねて、有難いことに前原氏が同行しようと自ら申し出て下さいました。当日はお会いできませんでしたが、帰京後、先生のお好きなホテルオークラ京都の桃李で宴会をした夜の事も、又、又、忘れられない思い出です。いつもいつも次の会のことは先生に相談して決めて来たのですが、今相談しないとダメだと咄嗟に思い、「先生、私に綱館は無理ですよね?」と問いかけました。「いつまでそんなこと言ってるんや!なんでもやろうと思ったらできるんやから!」と久々に怒られました。その一発で、漸く前に進む決心がつきました。が、どうなりますやら?

東京公演無事終了を師匠に何とか報告しなければと思い、12月30日にやっと四天王寺へ墓参することとなりました。「そうだ、駒井先生を誘ってみよう!」と思いつきました。前に一度お誘いした時、師匠が大好きだった先生がとても喜んで下さったことを思い出したからです。案の定、年末であったにもかかわらず、この日も「よかった!よかった!」と大層喜んで下さいました。帰りにホテルオークラ京都で休憩して宮川町にお送りしようと思ったのですが、何だかもうお逢いできなくなるような予感がして、ホテルのロビーで写真を撮りましょうとお誘いしました。不思議なくらい「いいよ!」と機嫌よく、同行した息子と共に写真に納まって下さいました。


年が変わり、再び感染が拡大し、お逢いするのを遠慮しているうちに時が移り、先生の訃報をお知らせいただくこととなってしまい、あの日の写真が大事な大事な一枚になってしまいました。訃報をお知らせいただいた時奥様は「おとうさんはあんたのことを好きやったし・・・」とおっしゃって下さいましたが、今、想い出せば、私も先生のことを尊敬し、好きやったから40年以上も色々なことがあったけど、ついてこれたのだと思います。

7月21日に驚きの余り思考が停止してしまいました。この悲しさに負けたら先生に怒られると思い、今日まで突っ走って来ました。でも、あれからかなりの時間が過ぎ、先生を偲んで、お礼をしたためようという気力が戻ったので、一人で献杯しながら書いてみました。

駒井邦夫先生とのご縁があってこそ今日の私があることを、どのように感謝したらよいかわりません。本当に本当に有難うございました。今までお教えいただいたことを思い出しながら、遅々たる歩みではありますが、一歩ずつ前に進んでまいります。どうぞいつまでもお見守り下さい。たまには、夢に出て来て厳しく怒って下さい。首を長くしてお待ちしています。
  
                         2022年8月15日
                              西川 鯉

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