やあ、いらっしゃい。
毎晩暑苦しいね。
暑気払いには、冷たい飲物を飲みながら、怪談話をするに限る。
今夜はレモンバームティーを用意してあるよ。
さあ、席に着いて…今、持って行くからね。
今夜は旧盆…懐かしい人達と過す、最後の夜だ。
そんな夜に相応しい話を、語らせて貰うよ。
京都に、一人の若侍が居たが、主君の没落の為貧乏になり、已む無く家を離れて、遠国の国守に仕える事になった。
都を去る前に、この侍は妻を離別した。
――善良で美しい女だったが、侍は別な縁組によって、もっと立身が出来ると信じたからである。
こうして彼は、或る身分の高い家柄の娘を妻に迎え、自分の任地へ連れて行った。
しかしこの侍が、愛情の価値等解らずに、こんなに無造作に捨て去ったのは、未だ若気の無分別な時代であり、辛く貧しい経験をしていたからの事だった。
彼の二度目の結婚は、幸福なものではなかった。
新しい妻の性質は、頑なで我侭だった。
間も無く彼は、何かにつけて京都時代の事を思い出し、悔恨の情に駆られた。
やがて彼は、自分が今も尚、最初の妻を愛している事――二度目の妻よりも、ずっと彼女を愛している事に気が付いた。
そして、自分がどんなに非道で、どんなに恩知らずで在ったかを、感ずるようになった。
遺憾の念は次第に深まって、悔恨の情となり、心の休まる時は無かった。
彼がつれなくした女の思い出――あの優しい話し振り、あの笑顔、上品で感じの良い物腰、この上無い辛抱強さ等が、絶えず心に付き纏って離れなかった。
時折夢の中で、あの幾年もの貧乏暮しの間、夜も昼も働いて自分を助けてくれた時と同じ様に、織機(はた)を織って居る彼女の姿を見た。
が、もっとしばしば見たのは、自分が捨てて来た人気の無い小さな部屋に、彼女が独りしょんぼり坐って、哀れにも破れた袖で、涙を隠している姿であった。
公の務めに出ている時でさえ、彼の思いは、つい彼女の元に彷徨って行きがちで、そういう時には、よくあれはどうして暮し、何をして居るだろうかと、我と我が胸に尋ねてみるのであった。
しかし心の中では、何とはなしに、あれが他に夫を持つ筈は無い、また、自分を許してくれない事は決してなかろうと、思われてならなかった。
それで彼は、京都に帰れるようになったら、直ぐに彼女を探し出そう――それから彼女の許しを乞うて連れ戻し、罪滅ぼしに男として出来るだけの事をしてやろう、と心密かに決心した。
しかし、幾年かは過ぎ去った。
とうとう、主君である国守の任期が満ちて、この侍も自由な身となった。
「さあ、愛しいあれの所へ、帰って行くのだ」と、彼は自分に誓う様に言った。
「ああ、あれを離別した事は、なんという無情な――なんという愚かな事だったろう。」
二度目の妻との間に子供が無かった事を幸いに、彼はその女を親元へ送り返すと、急いで京都へ帰り、旅装を改める暇さえ惜しんで、直ぐさま以前の連れ合いを探しにかかった。
彼女の住まっていた町に着いた時には、夜も更けていた。
――九月十日の夜だった。
都は、墓場の様にひっそりしていた。
しかし、冴えた月が一切の物をはっきり照らし出していたので、彼は何の苦も無く、その家を見付けた。
家は住む者も無く荒れ果てているようで、屋根には丈の高い雑草が生えていた。
雨戸を叩いたが、誰も答える者は無かった。
やがて、内から戸締りがしてない事が解ったので、押し開けて入った。
とっつきの部屋には畳も無く、がらんとしていて、冷たい風が、板張りの隙間から吹き込んでいた。
そして、月の光が、床の間の壁のぎざぎざの割れ目から、射し込んでいた。
他の部屋も、同じ様に荒れ果てた様を呈していた。
どう見ても、この家に人が住んでいる様子は無かった。
それでも侍は、住いの一番奥の、もう一つの部屋――妻の気に入りの居間だった、極小さな部屋を、覗いてみる事にした。
その部屋の仕切りの襖に近付くと、内側に明りが見えるので、びっくりした。
侍は襖を開けて、喜びのあまり声を立てた。
というのは、そこに彼女が――行燈の光で縫い物をして居るのが、目に付いたのだ。
その瞬間、彼女の目が、彼の目とぴったり合った。
そして嬉しそうに微笑みながら、彼に会釈した。
――ただ、「何時京都へお帰りになりまして?あんな暗い部屋を通って、どうしてこの私の所へ、お出でなさいましたの?」と尋ねた。
歳月の為に、彼女は少しも変っていなかった。
今も尚、一番懐かしい思い出の中の彼女と少しも変らず、美しく若く見えた。
――そして、どの思い出よりも快く、彼女の何とも言えぬ美しい声が、嬉しい驚きの為に震えを帯びて、彼の耳に響いたのであった。
侍は嬉しそうに彼女の傍に坐って、一部始終の事を話した。
――どんなに深く、自分の我侭を悔いたか、彼女が居なくて、どんなに自分が惨めであったか、どんなに始終彼女と別れた事を残念に思ったか、どんなに長い間償いをしたいと思って色々工夫したか。
――こう話す間にも、彼女を愛撫して、何度も何度も彼女の許しを乞うのであった。
すると彼女は、彼が心で願った通り、愛情深い優しい様子で彼に答えて、そんなに我が身を責めるのは止めて頂きたい、と頼んだ。
私の為に、苦しみなさるのはいけません。
貴方の妻となるだけの資格が無いと、かねがね感じていたのですから、と彼女は言った。
それでも、貴方が私と別れたのは、ただ貧乏の為だった事は、知っておりました。
それに一緒に暮していた時分、貴方は何時も親切でした。
それで、絶えず貴方の幸福を祈って来ました。
しかし、償いをすると言われるような理由が仮に有るとしても、こうしてお訪ね下さった事が、有り余る程の償いです。
――たとい、ほんの束の間であるにしても、こうして再び逢えた事に勝る仕合せが有りましょうか、と彼女は言った。
「ほんの束の間だって!」と彼は、嬉しそうに笑いながら答えた。
「いや、それどころか、まあ七生の間程もだよ。
ねえ、お前が嫌でないなら、戻って来て、何時までも何時までも、お前と一緒に暮そうと思うよ。
どんな事が有っても、もう二度と別れはしないよ。
今では、自分には、財産も有れば友も居る。
貧乏なんか恐れるには及ばん。
明日、わしの持ち物を此処へ運ぼう。
また召使達も来て、お前の世話をするよ。
そして皆でこの家を綺麗にしよう。
実は今晩……」
此処で侍は、言い訳をする様に付け加えた。
「こんなに遅く――着物も着替えずに来たのは、ただお前に会ってこの事を話したい、とばかり思ったからだ。」
彼女はこれらの言葉を聞いて、大層喜んだ様であった。
そして今度は彼女の方から、侍が立ち去ってから、京都に起った色々な事を、すっかり話して聞かせた。
――ただ、自分の悲しかった事だけは口に出さず、その話は優しく拒んだ。
二人は、ずっと夜の更けるまで、語り合った。
それから彼女は、南向きの、もっと暖かい部屋――以前、彼らの婚礼の間だった一室に、彼を案内した。
「この家には、手伝ってくれる者は、誰も居ないのか?」と、彼女が寝床を延べ始めると、彼は尋ねた。
「はい」と、彼女は晴れやかに笑いながら答えた。
「召使はおけませんでした。
――それで、まったく一人で暮して居りましたの。」
「明日になれば、召使が沢山来るよ」と彼は言った。
「良い召使がね。
――それから、他にお前の入用な物は何でもだよ。」
二人は、横になって休んだ。
が、眠る為ではなかった。
互いに語りたい事が、山程有ったのだ。
――二人は、過ぎ去った事、現在の事、行末の事を、夜が白むまで語り合った。
それから侍は、我知らず目を閉じて眠った。
目を覚ますと、日の光が雨戸の隙間から射し込んでいた。
そして、全く驚いた事には、侍は朽ちかけた床の、剥き出しの板の上に横たわっているのだった。
……自分は、ただ夢を見ていたのだろうか?
いや、彼女はそこに居る――眠っている。
……彼は、彼女の上に身を屈めて――見た。
そして、「あっっ!」と叫び声を上げた。
――眠っている女には、顔が無かったのである!
……彼の前には、ただ経帷子に包まれた女の死骸が――もうすっかり朽ち果てて、骨と乱れた長い黒髪の他には、殆ど何も残っていない死骸が、横たわっているだけだった。
ぞっと身を震わせ、むかつく様な厭な気持ちで日の光の中に立つと、氷の様な戦慄が、次第に耐え難い絶望、烈しい苦痛に変って行き、侍は、自分を嘲笑する疑惑の影を掴みたいと思った。
そこで、この近辺の事は何も知らない風を装って、妻が住んでいた家へ行く道を尋ねてみた。
「あの家には、誰も居ませんよ」と、問われた人は言った。
「元は、数年前に都を去ったお侍の、奥方の物でした。
そのお侍は、出掛ける前に、他の女を娶る為、その奥方を離別したのです。
それで、奥方は大層苦にされ、その為病気になりました。
京都には身寄りの人も無く、世話してくれる者も在りませんでした。
そして、その年の秋――九月十日に亡くなられました……」
…実に哀しく、痛ましく、恐ろしい話と言えるだろう。
この女は…「自分は離縁されて已む無し」と口では言っていても、内心決してそうは思って居なかったのだろう。
でなければ、女の命日に、男が丁度訪れる事は無かった筈だ。
何より執念無くして、今生に留まれはしない筈だ。
女はずっと、男が来るのを、待っていたのだ。
この話と同型なものは、『雨月物語』にも出て来る。
古くは『今昔物語集』…更にもっと古くには、中国、明の怪異小説にも見られる。
かなり歴史の古い怪談と言えるだろう。
現代になっても素材として、よく創作に利用されている。
『ウインダリア』と言う名のオリジナルビデオアニメがそうで、これはネットで視聴可能。
(要会員登録、有料だが→http://www.b-ch.com/cgi-bin/contents/ttl/det.cgi?ttl_c=449)
非常に素晴しい傑作だと思うので、機会が有れば御覧戴きたい。
最後、少し話がズレて申し訳無かったが…今夜の話は、これでお終い。
さあ、蝋燭を1本、吹消して貰おうか。
……有難う。
では気を付けて…夜道の途中、後ろはくれぐれも振り返らないように。
今夜は特に…止めておいた方がいいだろう。
夜に鏡を覗く事もね。
それでは御機嫌よう。
また次の晩に、お待ちしているよ…。
『怪談・奇談(小泉八雲 著、田代三千稔 訳、角川文庫 刊)』より
毎晩暑苦しいね。
暑気払いには、冷たい飲物を飲みながら、怪談話をするに限る。
今夜はレモンバームティーを用意してあるよ。
さあ、席に着いて…今、持って行くからね。
今夜は旧盆…懐かしい人達と過す、最後の夜だ。
そんな夜に相応しい話を、語らせて貰うよ。
京都に、一人の若侍が居たが、主君の没落の為貧乏になり、已む無く家を離れて、遠国の国守に仕える事になった。
都を去る前に、この侍は妻を離別した。
――善良で美しい女だったが、侍は別な縁組によって、もっと立身が出来ると信じたからである。
こうして彼は、或る身分の高い家柄の娘を妻に迎え、自分の任地へ連れて行った。
しかしこの侍が、愛情の価値等解らずに、こんなに無造作に捨て去ったのは、未だ若気の無分別な時代であり、辛く貧しい経験をしていたからの事だった。
彼の二度目の結婚は、幸福なものではなかった。
新しい妻の性質は、頑なで我侭だった。
間も無く彼は、何かにつけて京都時代の事を思い出し、悔恨の情に駆られた。
やがて彼は、自分が今も尚、最初の妻を愛している事――二度目の妻よりも、ずっと彼女を愛している事に気が付いた。
そして、自分がどんなに非道で、どんなに恩知らずで在ったかを、感ずるようになった。
遺憾の念は次第に深まって、悔恨の情となり、心の休まる時は無かった。
彼がつれなくした女の思い出――あの優しい話し振り、あの笑顔、上品で感じの良い物腰、この上無い辛抱強さ等が、絶えず心に付き纏って離れなかった。
時折夢の中で、あの幾年もの貧乏暮しの間、夜も昼も働いて自分を助けてくれた時と同じ様に、織機(はた)を織って居る彼女の姿を見た。
が、もっとしばしば見たのは、自分が捨てて来た人気の無い小さな部屋に、彼女が独りしょんぼり坐って、哀れにも破れた袖で、涙を隠している姿であった。
公の務めに出ている時でさえ、彼の思いは、つい彼女の元に彷徨って行きがちで、そういう時には、よくあれはどうして暮し、何をして居るだろうかと、我と我が胸に尋ねてみるのであった。
しかし心の中では、何とはなしに、あれが他に夫を持つ筈は無い、また、自分を許してくれない事は決してなかろうと、思われてならなかった。
それで彼は、京都に帰れるようになったら、直ぐに彼女を探し出そう――それから彼女の許しを乞うて連れ戻し、罪滅ぼしに男として出来るだけの事をしてやろう、と心密かに決心した。
しかし、幾年かは過ぎ去った。
とうとう、主君である国守の任期が満ちて、この侍も自由な身となった。
「さあ、愛しいあれの所へ、帰って行くのだ」と、彼は自分に誓う様に言った。
「ああ、あれを離別した事は、なんという無情な――なんという愚かな事だったろう。」
二度目の妻との間に子供が無かった事を幸いに、彼はその女を親元へ送り返すと、急いで京都へ帰り、旅装を改める暇さえ惜しんで、直ぐさま以前の連れ合いを探しにかかった。
彼女の住まっていた町に着いた時には、夜も更けていた。
――九月十日の夜だった。
都は、墓場の様にひっそりしていた。
しかし、冴えた月が一切の物をはっきり照らし出していたので、彼は何の苦も無く、その家を見付けた。
家は住む者も無く荒れ果てているようで、屋根には丈の高い雑草が生えていた。
雨戸を叩いたが、誰も答える者は無かった。
やがて、内から戸締りがしてない事が解ったので、押し開けて入った。
とっつきの部屋には畳も無く、がらんとしていて、冷たい風が、板張りの隙間から吹き込んでいた。
そして、月の光が、床の間の壁のぎざぎざの割れ目から、射し込んでいた。
他の部屋も、同じ様に荒れ果てた様を呈していた。
どう見ても、この家に人が住んでいる様子は無かった。
それでも侍は、住いの一番奥の、もう一つの部屋――妻の気に入りの居間だった、極小さな部屋を、覗いてみる事にした。
その部屋の仕切りの襖に近付くと、内側に明りが見えるので、びっくりした。
侍は襖を開けて、喜びのあまり声を立てた。
というのは、そこに彼女が――行燈の光で縫い物をして居るのが、目に付いたのだ。
その瞬間、彼女の目が、彼の目とぴったり合った。
そして嬉しそうに微笑みながら、彼に会釈した。
――ただ、「何時京都へお帰りになりまして?あんな暗い部屋を通って、どうしてこの私の所へ、お出でなさいましたの?」と尋ねた。
歳月の為に、彼女は少しも変っていなかった。
今も尚、一番懐かしい思い出の中の彼女と少しも変らず、美しく若く見えた。
――そして、どの思い出よりも快く、彼女の何とも言えぬ美しい声が、嬉しい驚きの為に震えを帯びて、彼の耳に響いたのであった。
侍は嬉しそうに彼女の傍に坐って、一部始終の事を話した。
――どんなに深く、自分の我侭を悔いたか、彼女が居なくて、どんなに自分が惨めであったか、どんなに始終彼女と別れた事を残念に思ったか、どんなに長い間償いをしたいと思って色々工夫したか。
――こう話す間にも、彼女を愛撫して、何度も何度も彼女の許しを乞うのであった。
すると彼女は、彼が心で願った通り、愛情深い優しい様子で彼に答えて、そんなに我が身を責めるのは止めて頂きたい、と頼んだ。
私の為に、苦しみなさるのはいけません。
貴方の妻となるだけの資格が無いと、かねがね感じていたのですから、と彼女は言った。
それでも、貴方が私と別れたのは、ただ貧乏の為だった事は、知っておりました。
それに一緒に暮していた時分、貴方は何時も親切でした。
それで、絶えず貴方の幸福を祈って来ました。
しかし、償いをすると言われるような理由が仮に有るとしても、こうしてお訪ね下さった事が、有り余る程の償いです。
――たとい、ほんの束の間であるにしても、こうして再び逢えた事に勝る仕合せが有りましょうか、と彼女は言った。
「ほんの束の間だって!」と彼は、嬉しそうに笑いながら答えた。
「いや、それどころか、まあ七生の間程もだよ。
ねえ、お前が嫌でないなら、戻って来て、何時までも何時までも、お前と一緒に暮そうと思うよ。
どんな事が有っても、もう二度と別れはしないよ。
今では、自分には、財産も有れば友も居る。
貧乏なんか恐れるには及ばん。
明日、わしの持ち物を此処へ運ぼう。
また召使達も来て、お前の世話をするよ。
そして皆でこの家を綺麗にしよう。
実は今晩……」
此処で侍は、言い訳をする様に付け加えた。
「こんなに遅く――着物も着替えずに来たのは、ただお前に会ってこの事を話したい、とばかり思ったからだ。」
彼女はこれらの言葉を聞いて、大層喜んだ様であった。
そして今度は彼女の方から、侍が立ち去ってから、京都に起った色々な事を、すっかり話して聞かせた。
――ただ、自分の悲しかった事だけは口に出さず、その話は優しく拒んだ。
二人は、ずっと夜の更けるまで、語り合った。
それから彼女は、南向きの、もっと暖かい部屋――以前、彼らの婚礼の間だった一室に、彼を案内した。
「この家には、手伝ってくれる者は、誰も居ないのか?」と、彼女が寝床を延べ始めると、彼は尋ねた。
「はい」と、彼女は晴れやかに笑いながら答えた。
「召使はおけませんでした。
――それで、まったく一人で暮して居りましたの。」
「明日になれば、召使が沢山来るよ」と彼は言った。
「良い召使がね。
――それから、他にお前の入用な物は何でもだよ。」
二人は、横になって休んだ。
が、眠る為ではなかった。
互いに語りたい事が、山程有ったのだ。
――二人は、過ぎ去った事、現在の事、行末の事を、夜が白むまで語り合った。
それから侍は、我知らず目を閉じて眠った。
目を覚ますと、日の光が雨戸の隙間から射し込んでいた。
そして、全く驚いた事には、侍は朽ちかけた床の、剥き出しの板の上に横たわっているのだった。
……自分は、ただ夢を見ていたのだろうか?
いや、彼女はそこに居る――眠っている。
……彼は、彼女の上に身を屈めて――見た。
そして、「あっっ!」と叫び声を上げた。
――眠っている女には、顔が無かったのである!
……彼の前には、ただ経帷子に包まれた女の死骸が――もうすっかり朽ち果てて、骨と乱れた長い黒髪の他には、殆ど何も残っていない死骸が、横たわっているだけだった。
ぞっと身を震わせ、むかつく様な厭な気持ちで日の光の中に立つと、氷の様な戦慄が、次第に耐え難い絶望、烈しい苦痛に変って行き、侍は、自分を嘲笑する疑惑の影を掴みたいと思った。
そこで、この近辺の事は何も知らない風を装って、妻が住んでいた家へ行く道を尋ねてみた。
「あの家には、誰も居ませんよ」と、問われた人は言った。
「元は、数年前に都を去ったお侍の、奥方の物でした。
そのお侍は、出掛ける前に、他の女を娶る為、その奥方を離別したのです。
それで、奥方は大層苦にされ、その為病気になりました。
京都には身寄りの人も無く、世話してくれる者も在りませんでした。
そして、その年の秋――九月十日に亡くなられました……」
…実に哀しく、痛ましく、恐ろしい話と言えるだろう。
この女は…「自分は離縁されて已む無し」と口では言っていても、内心決してそうは思って居なかったのだろう。
でなければ、女の命日に、男が丁度訪れる事は無かった筈だ。
何より執念無くして、今生に留まれはしない筈だ。
女はずっと、男が来るのを、待っていたのだ。
この話と同型なものは、『雨月物語』にも出て来る。
古くは『今昔物語集』…更にもっと古くには、中国、明の怪異小説にも見られる。
かなり歴史の古い怪談と言えるだろう。
現代になっても素材として、よく創作に利用されている。
『ウインダリア』と言う名のオリジナルビデオアニメがそうで、これはネットで視聴可能。
(要会員登録、有料だが→http://www.b-ch.com/cgi-bin/contents/ttl/det.cgi?ttl_c=449)
非常に素晴しい傑作だと思うので、機会が有れば御覧戴きたい。
最後、少し話がズレて申し訳無かったが…今夜の話は、これでお終い。
さあ、蝋燭を1本、吹消して貰おうか。
……有難う。
では気を付けて…夜道の途中、後ろはくれぐれも振り返らないように。
今夜は特に…止めておいた方がいいだろう。
夜に鏡を覗く事もね。
それでは御機嫌よう。
また次の晩に、お待ちしているよ…。
『怪談・奇談(小泉八雲 著、田代三千稔 訳、角川文庫 刊)』より