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「皇室 vs. 横暴な蘇我氏」という近代成立の図式を覆す蘇我氏系皇子論:荒木敏夫「古人大兄皇子論」

2024年02月01日 | 論文・研究書紹介

 聖徳太子は蘇我氏を代表とする有力氏族の横暴を押さえるために「憲法十七条」を制定した、といった説明が現在でも良く見られますが、こうした図式は近代になって生まれたものです。

 つまり、江戸時代の儒者や国学者たちが、聖徳太子は崇峻天皇を暗殺した逆臣である蘇我馬子をとがめず、ともに政治をおこなった、いや太子こそが元凶だ、などと非難したため、天皇の権威を強調するようになった明治以後、太子を弁護しようとする者たちは、「いや、太子は馬子などの横暴を押さえ、皇室の権威を確立しようとしたのだ」と主張したのです。

 実際は、太子は父方・母方ともに蘇我氏の血を引く最初の天皇候補者であったうえ、馬子の娘を妃とし、その間に生まれた山背大兄を後継ぎにしていたのであって、大叔父かつ義父である馬子によって太子道の建設や斑鳩寺の建立などの支援がなされていました。

 太子擁護派は、皇室をないがしろにする氏族の横暴を押さえようとした太子の意図を継いだのが、蘇我氏を滅亡させ、天皇中心の大化改新を推し進めた中大兄(天智天皇)と中臣(藤原)鎌足だ、と論じたのですが、実状はそうではなかったことを示したのが、

荒木敏夫「古人大兄皇子論」
(『国立民俗歴史博物館研究報告』第179集、2013年11月)

です。

 古代の皇太子の研究で知られる荒木氏は、早くから上述のような図式に疑いを持っており(このことは、別記事で紹介します)、この「古人大兄皇子論」では、蘇我氏は乙巳の変で亡びたわけではなく、本宗家も蝦夷・入鹿以外は大化の改新以後も重要な位置にいたことを示し、『日本書紀』における中大兄の意義づけを疑います。

 『日本書紀』では、舒明天皇と宝皇女(皇極天皇)の間に葛城皇子(中大兄)、間人皇后、大海[人]皇子(天武天皇)が生まれているため、こちらが主流のように見えますが、当初は舒明天皇と馬子の娘である法堤郎女の間に生まれた第一皇子である古人皇子の方が有力な天皇候補であったと、荒木氏は説きます。

 実際、『日本書紀』では、蘇我入鹿は舒明天皇の後には古人大兄を即位させようとして山背大兄を殺害したとされており、舒明の皇后であった宝皇女が即位して皇極天皇となったものの、乙巳の変の後で、クーデターの立役者である中大兄に譲位の意図を語ったところ、中大兄からその話を聞いた鎌足が「古人大兄は殿下の兄であり、軽皇子は殿下の舅です」と進言し、即位すべきでないと説いたとされます。

 それを知った皇極天皇が弟の軽皇子に譲位しようとすると、軽皇子は「古人大兄は前の天皇の子であって、私より年長なので、古人大兄が即位すべきだ」と断ったものの、古人大兄は即位を断わり、急いで出家して吉野に入ります。しかし、結局は謀反を疑われて殺された結果、軽皇子が即位したとなっています。

 このように、第一候補であった古人大兄が即位を断ったのは、生母の一族である蘇我本宗家が亡んでしまったためでしょうが、蘇我氏全体が滅亡したわけではありません。

 荒木氏は、古人が「大兄」と呼ばれており、蘇我頬手郎女が生んだ子たちの最上位にあったこと、また、入鹿が暗殺された際、古人皇子が「私宮」に閉じこもったことから見て、皇子宮を有する有力皇子であったことに注意します。この点は、大兄と呼ばれ、斑鳩宮を継承していた山背大兄と同じですね。

 皇子宮にはお仕えする舎人がおり、皇子とのつながりが強く、古人大兄の場合は、蘇我田口臣川堀が、古人大兄が謀反を試みたとされた際、その共謀者の筆頭とされており、倭漢文直麻呂もその一味とされているのがそのためのようです。

 古人大兄は謀反を起こしたとして斬られ、その「妃妾」は自死したとされます。ここで補足しておくと、こうした場合の自死とは自殺を強いるのであって、実際は殺すのと同じですし、殺しておきながら史書では「自ら首をくくって死んだ」などと記することも多いですね。

 ただ、荒木氏は、古人大兄の娘である倭姫王は葛城皇子の妃となっており、葛城皇子が天智天皇となった以後も健在であるばかりか、天智紀10年(671)10月庚申条によれば、大海人皇子が、病床に臥せる天智天皇に代わって大后の倭姫王大友王による執政を要請していることに注目します。

 つまり、この時点ですら、天智天皇の妃とはいえ、馬子の娘の孫娘が天皇として即位する可能性があったのです。また、荒木氏は書いていませんが、大化改新後も本宗家ではない蘇我氏の者たちが大臣となって活動しています。

 当時は、大王家内部の対立と強大な蘇我氏内部の対立が複雑にからんで様々な事件がおきたのであって、「皇室 vs. 横暴で邪悪な蘇我氏」などという状況ではなかった証拠ですね。

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