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鎌倉幕府の「御成敗式目」五十一箇条は「十七条憲法」の三倍ではない:佐藤雄基「五十一という神話 御成敗式目と十七条憲法」

2024年06月13日 | 聖徳太子信仰の歴史

 貞永元年(1232)に出された鎌倉幕府の「御成敗式目」五十一箇条という数は、聖徳太子の「憲法十七条」の17を3倍にしたものだ、というのは良く聞く話です。しかし、確実な証拠はありません。そこで、この説について検証してみたのが、

佐藤雄基「五十一という神話 御成敗式目と十七条憲法」
(『古文書研究』第95号、2023年6月)

です。

 佐藤氏は、戦前から既にそうした説がなされていたものの、「御成敗式目」成立当初にはそうしたことを述べた記録はないとし、これを言い出したのは16世紀の「御成敗式目」の注釈書、清原宣賢の『式目抄』だと指摘します。なお、佐藤氏は「十七条憲法」という言葉を使っていますので、以下、その言い方に従います。

 『式目抄』では、「十七条憲法」の十七条に天・地・ 人の三つをかけて三倍にしたのが五十一であって、これは清原家の口伝だと述べていました。しかし、佐藤氏は、『式目抄』は式目作成者の六名を六地蔵・六観音とし、式目に付された起請文に署名した13人を「十三仏」を表すとするなど、神仏に引きつけて数字を解釈する傾向が目立つとします。

 ただ、「御成敗式目」を「十七条憲法」と結びつけて解釈することは、16世紀には広がっていたそうです。そこで古い例を探すと、永仁4年(1296)に成立したとされる斎藤唯尚の注釈、『関東御式目』では、北條泰時は大賢人であるため、五十一という数字には由来があるに違いないが不明だと書いていました。

 戦後になって佐藤進一が1965年に二段階成立説を唱えると、3倍説には批判もなされるようになりました。佐藤氏は、これらの議論は、複数の条項をまとめたり削除したりすることによって五十一という数に合わせたという見方、つまり、五十一という数字に意味があるとする前提に立つものとします。

 そして、中世の武家の式目の場合、追加されていくことは珍しくないのであって、五十一という数を重視するのは十七の三倍説に縛られたものではないかと述べます。

 ただ、「五十一箇条」と呼ばれたのはなぜかと問題提起し、当時は「一、……の事」といった形の箇条書きの文書を、「〇箇条」と呼ぶのは一般的であったと指摘します。そして、「御成敗式目」は幕府の中で条目が追加されていったものの、世間に流れ、武家の「式目」として知られたのは五十一箇条のものであったことに注意します。

 そうした中で、治世者としての北條泰時の評価が高まった結果、五十一という数字には深い意味があるはずとされるようになったのであって、その動きは13世紀末には既に始まっていたと見ます。

 そして、式目注釈をなした是円が起草メンバーとなった1336年の『建武式目』は、聖徳太子の「十七條憲法」を意識して十七箇条から成っていました。また、元の「十七条憲法」についても、文永9年(1272)に法隆寺で「談義評定」を経て注釈が造られ、弘安8年(1285)には版木で印刷されるなど、注目を集めていました。

 つまり、「十七条憲法」評価と五十一条の「御成敗式目」評価の高まりは平行していたのです。その背景には、多数の条目の法があるのは世が乱れている証拠であり、十七条とか五十一条ですんだ時代は統治が素晴らしかったのだ、という認識が鎌倉後期の知識人にあったと、佐藤氏は述べます。

 「御成敗式目」の起草者の一人とされる玄恵は、「十七条憲法」の注釈の作成者とみなされていますが、その注釈には、五十一条はもとより、十七という数字に関する説明がないことに佐藤氏は注意します。玄恵の注釈に対する注釈、『聖徳太子御憲法玄恵註抄』になると、『式目抄』の説が組み込まれるようになるのです。

 以上のことから、「御成敗式目」制定時点では、「十七条憲法」の十七条を三倍にして五十一箇条にするという意識はなかったと、佐藤氏は結論づけます。まあ、そうでしょう。ですから、古典を研究する際は、その本文の研究だけでなく、研究史の研究が必要なのです。

 なお、玄恵は「憲法十七条」だけでなく、『太平記』の作者とされるほど、いろいろな文献の作者とされた大学者でした。玄恵については、中世文学会のシンポジウムに招かれた際、その特質と伝承について発表し、論文にもしてあります(こちら)。

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