千の天使がバスケットボールする

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『サラの鍵』

2012-01-31 22:51:30 | Movie
本作よりも一足速く、昨春公開された 映画『黄色い星の子供たち』は、1942年フランス政府によるユダヤ人を一斉に検挙して迫害したヴェルディヴ(冬季競輪場)事件を、史実を徹底的にリサーチして映像で再現していた作品である。それというのも、フランス政府は、ヴェルディヴ事件の位置づけを長らくナチス・ドイツによる迫害として、国の責任から逃れていたから、まずは悲劇的な事件がテーマだったと思う。1995年、シラク大統領が正式に演説で謝罪した時は、事件そのものを知らなかったフランス国民は大きな衝撃を受けたという。フランス政府の恥部とも言える歴史的な事件を白日の基にして映像で世界に訴えて表現したのが『黄色い星の子供たち』だとしたら、その演説がきっかけで一篇の物語が生まれ、世界的なベストセラーとなったタチアナ・ド・ロネの小説「サラの鍵」を映画化したのが、本作になる。『黄色い星の子供たち』を鑑賞して初めてヴェルディヴ事件を知り、そして『サラの鍵』で現代に生きる女性を主人公にした物語にしたことで、過去の不幸な事件という客観性をこえて、痛みを我が身に置き換え感情をゆさぶる映画となり、たまたまなのだろうが、この公開の順番は私にとっては最適だったとしか言いようがない。

パリで生活するアメリカ人記者ジュリア(クリスティン・スコット・トーマス)は、夫と娘とパリで暮らしている。45歳にして待望の妊娠をしたことの喜びもつかの間、二人目の子を待望していたはずの夫が「本当はこどもは欲しくない」と出産に反対する。はっきりとは言わないが、彼は年齢も年齢だし、すでに前妻との間に自分の娘もいるし、仕事を中心にしたいので新しいこどもは育てる余裕はないから中絶しろ、ということらしい。悲しみに打ちひしがれる彼女は、ジャーナリストとしてヴェルディヴ事件を調べていくうちに、おしゃれに改装中の夫の祖父母から譲り受けたアパートの持ち主がかってのこの事件の被害者だったことに気がついていく。そして収容所から脱走していた長女の10歳のサラの足跡をたどっていくのだったが・・・。(以下、内容にふれてまする。)

この映画は、一言でホロコーストものという分類をされがちなのだが、確かにあまりにも過酷な環境、理不尽な事件を背景にし、又、事件そのものが最終的に悲劇の幕を降ろしているのだが、私はもう少しホロコーストとは別に根源的な人間の罪を考えさせられた。姉の弟を助けるためのとっさの行動が、最大の不運をもたらした。ホロコーストの悲劇だけでなく、彼女には非業な不運を体感してしまったのだった。ユダヤ人の迫害事件がなくても、そして、平和な現代でもほんの遊び心や、ふとした不注意、或いはよかれと思ってした行為が、予想外に別の人間に大きな不運をもたらしたり、場合によっては生命さえ失うこともあるかもしれない。サラが生き延びて優しい人々に救われても、一生罪を背負い、自分が幸福になることを自分自身に決して許さなかった、禁じていた彼女の哀しみと深い暗闇が苦しくも胸を打つ。どんな言葉でもどんな優しい手助けでも深い愛情でも、彼女の心を救うことはできなかった。ある意味、彼女の優しい資質がその優しさがゆえに救いから遠ざけたのではないだろうか。

一方で、現代の同時代を生きるジュリア。彼女や夫にとっては、人生は計画していくもの。こどもを望み妊娠したのも成功者の計画であり、いざ妊娠したら夫が中絶を望むのも 自分の人生のキャリアのため。そこには生命の尊厳さ以前に、自己中心的な自分のライフスタイルを優先する現代人の姿勢がみられる。そもそも、この夫は妻に中絶をすすめるくらいなら、何故、これまで妊娠に協力?をしていたのだろう。ジュリアの高年齢から、まずこどもはできないと軽んじていたのではないだろうか。ありがちな設定とは言え、なじめないものを感じた。

最大の悲劇は、ヴェルディヴ事件よりも、サラが決めた最後の人生の総括の仕方にある。サラの人生を知ってしまったジュリアは、アメリカ人らしく前向きに生きていく。小さな希望を残して。

監督:ジル・パケ=ブレネール
2010年フランス映画


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