やっぱり千秋さまとのだめは、ラブラブだったって~~?!!
どうラブラブだったかは、ルール違反の暴露になってしまうのでここで明文化できないのが残念。でも千秋さまがのだめを
「いつも一緒にいるようで、そうでもない。ひとりで旅していつのまにか帰ってきてる。それでいい。オレが見失わなければ-」
と心の中でつぶやいて、そっと彼女を引き寄せる場面は夏の夜の風が涼やかに渡るようなロマンチックな名場面だった。お城の室内の煌々とした灯りが届かない庭は、恋人たちが天使の距離まで接近する格好の場でもある。
ところで、少女漫画の多くは、男性が自分への関心と恋愛感情を抱くのを期待する”受身”のカタチに、女の子としての可愛らしさへの表現がある。自分への視線、関心、ちょっと乱暴だけど思いがけない(あくまでも自分への)優しさの発見、告白、そのひとつひとつに「きゅん」と乙女心が発動するシーンをつなげるところに特徴がある。そのいじらしさが、読者の好感と共感を呼ぶ。白馬の王子さまを待つシンデレラや白雪姫というのが、少女漫画の王道である。(最近の少女漫画は、多様性に富んでいるので一概に言えないかもしれないが)
ところが、のだめは千秋さまに惚れているが、決して受身ではない。ラブラブを公言しているほど、実際の行動は恋に積極的というのでもない。彼女には、とってもとっても大好きな千秋さまと同じくらい、本人はあまり意識していないがのめりこんでいる音楽というもうひとつの世界があるからだ。どんなに男性に夢中になっても、彼は彼女にとって人生のほんの一部。決して、彼こそすべてにはならない。この点が、天才ピアニストを主人公としたこの漫画の、大人の男性も評価する漫画というポイントではないだろうか。「のだめカンタビーレ」は、実は恋バナという測面は主軸ではない。あくまでも物語の中心は、ひとりの人間の成長物語である。天才医師、天才シェフという設定でもよかった。発表の場が、「Kiss」という乙女を読者層にもつ雑誌だから、女の子を主人公として、まだ鮮度の高いピニストの卵になったのである。(そういう意味では、『ガラスの仮面』に近い。ただ、あのようなスポ根風の根性ものは今時ハヤラナイ。)
千秋が、のだめの初リサイタルをモーツァルト、リスト、ラベル、シューベルトと聴きながら「オレはいろいろなことを覚悟しておいたほうがいい」と胸に刻むのは、この漫画の要になると思われる。
音楽家どうしの恋愛、結婚はなかなか難しい。お互いの才能への嫉妬、コンプレックス、音楽観の違いによる衝突、そもそも常識の欠落している部分が表現上の武器になるという職業のふたりがうまくやっていけるのかっ。
確かに、のだめの自由奔放さはromaniさまのご指摘どおりマルタ・アルゲリッチに似ている。こんな怪物のような女性と恋をするには、男も器が大きくなければとても勤まるものではない。はたまた完璧に主夫として裏方の人生を生きるか。また千秋は、シャルル・デュトワほど浮気症ではないが、指揮者らしく気難しいところもある。千秋のこの”覚悟”を考えると、このクラシック音楽漫画としての最大の魅力にふれたような気がする。
モーツァルトを弾く時に、千秋がオレもこどもの頃言われた、
「簡潔に、有限の美に 無限の美を刻むように 美しく」
と。小林秀雄のようなこの言葉には、モーツァルトが凝縮されている。
どうラブラブだったかは、ルール違反の暴露になってしまうのでここで明文化できないのが残念。でも千秋さまがのだめを
「いつも一緒にいるようで、そうでもない。ひとりで旅していつのまにか帰ってきてる。それでいい。オレが見失わなければ-」
と心の中でつぶやいて、そっと彼女を引き寄せる場面は夏の夜の風が涼やかに渡るようなロマンチックな名場面だった。お城の室内の煌々とした灯りが届かない庭は、恋人たちが天使の距離まで接近する格好の場でもある。
ところで、少女漫画の多くは、男性が自分への関心と恋愛感情を抱くのを期待する”受身”のカタチに、女の子としての可愛らしさへの表現がある。自分への視線、関心、ちょっと乱暴だけど思いがけない(あくまでも自分への)優しさの発見、告白、そのひとつひとつに「きゅん」と乙女心が発動するシーンをつなげるところに特徴がある。そのいじらしさが、読者の好感と共感を呼ぶ。白馬の王子さまを待つシンデレラや白雪姫というのが、少女漫画の王道である。(最近の少女漫画は、多様性に富んでいるので一概に言えないかもしれないが)
ところが、のだめは千秋さまに惚れているが、決して受身ではない。ラブラブを公言しているほど、実際の行動は恋に積極的というのでもない。彼女には、とってもとっても大好きな千秋さまと同じくらい、本人はあまり意識していないがのめりこんでいる音楽というもうひとつの世界があるからだ。どんなに男性に夢中になっても、彼は彼女にとって人生のほんの一部。決して、彼こそすべてにはならない。この点が、天才ピアニストを主人公としたこの漫画の、大人の男性も評価する漫画というポイントではないだろうか。「のだめカンタビーレ」は、実は恋バナという測面は主軸ではない。あくまでも物語の中心は、ひとりの人間の成長物語である。天才医師、天才シェフという設定でもよかった。発表の場が、「Kiss」という乙女を読者層にもつ雑誌だから、女の子を主人公として、まだ鮮度の高いピニストの卵になったのである。(そういう意味では、『ガラスの仮面』に近い。ただ、あのようなスポ根風の根性ものは今時ハヤラナイ。)
千秋が、のだめの初リサイタルをモーツァルト、リスト、ラベル、シューベルトと聴きながら「オレはいろいろなことを覚悟しておいたほうがいい」と胸に刻むのは、この漫画の要になると思われる。
音楽家どうしの恋愛、結婚はなかなか難しい。お互いの才能への嫉妬、コンプレックス、音楽観の違いによる衝突、そもそも常識の欠落している部分が表現上の武器になるという職業のふたりがうまくやっていけるのかっ。
確かに、のだめの自由奔放さはromaniさまのご指摘どおりマルタ・アルゲリッチに似ている。こんな怪物のような女性と恋をするには、男も器が大きくなければとても勤まるものではない。はたまた完璧に主夫として裏方の人生を生きるか。また千秋は、シャルル・デュトワほど浮気症ではないが、指揮者らしく気難しいところもある。千秋のこの”覚悟”を考えると、このクラシック音楽漫画としての最大の魅力にふれたような気がする。
モーツァルトを弾く時に、千秋がオレもこどもの頃言われた、
「簡潔に、有限の美に 無限の美を刻むように 美しく」
と。小林秀雄のようなこの言葉には、モーツァルトが凝縮されている。