千の天使がバスケットボールする

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「日本の科学/技術はどこへいくのか」中島秀人著

2006-06-06 23:00:55 | Book
今朝のニュースは、どこも村上ファンド代表・村上世彰氏の逮捕劇の模様でにぎわっている。
「聞いちゃったから・・・」その銘柄を買うことは、プロとしてありえない。資産運用にたずわさる機関投資家はバックオフィスのものまで、一般人よりも高いレベルのコンプライアンスを求められる。お粗末な結末は、独立系の機関投資家の厳しい事情も感じる。次は、ぐっちーさん予測のT投資顧問会社であろうか・・・。

さて、中島秀人氏の「日本の科学/技術はどこへいくのか」は、東京電力発行「イリューム」で連載されていた内容をまとめた本である。ひとつのテーマーにおける数冊の科学書の書評という体裁をこえて、メッセージ性のある小論文に近い。そこでも近代では、マネー(経済活動)と科学の世界が切り離させない関係になっているという示唆がある。大学及び国立研究団体の独立行政法人化、人事採用の任期制の広まり、競争的資金の獲得が困難な分野もあることから、学術行政の動きは評判が芳しくない。筆者は、関連分野の科学技術政策研究で海外の任期付き研究者と共同プロジェクトをすると、金の話ばかりになってしまうと言う。金のきれめは縁のきれめ。
この科学者と研究成果の構図は、短期間に運用益をあげなければならなかった「村上ファンド」を彷彿させる。運用会社は儲けることが至上の命、科学研究も成果をださなければ、やはり意味もないと思いがちだが、白川英樹氏のようにノーベル賞受賞まで33年という歳月がかかるケースもある。(ノーベル賞をとるためには、まず長生き)
「文化としての科学」を育成するには、金に目がいくことでなく大きなスケール感が求められる。

またかっての金融系の会社資産の政策株と違った、純投資にみる株式運用のゲーム感覚だ。市場主義経済の発達につれあらわれたゲーム感覚も、科学技術分野のグローバルな市場主義化も同調する。生物の科学史でもっとも重要な発展は、ワトソン、クリック氏らによるDNAの構造解明だと私は考えている。この発見によって、分子生物学は飛躍的に発展した。しかしワトソンが著書『二重らせん』で語るDNA構造研究のストーリーは、競争相手を出し抜き蹴落とす”ゲーム”のようだった。村上陽一郎氏の『文化としての科学/技術』で述べられた「恥を知らない科学者」の登場である。まさにサイエンティストゲームだ。研究のゲーム化は、科学者をも変質させた。それでは、未来の科学者としてのありかたは。豪雨でゆれるキャンパスの緑の濃くなった桜の樹を眺めながら、著者はひとつの結論に導かれる。

科学史研究者である著者は、科学論者は科学と社会の媒介の専門家として社会に貢献すべきだと考える。そして、主体的に科学技術の構築に関与する必要もあると。何故ならば、現代の科学はもはやそれ自体として理想的な社会をうみだすものでなく、正しいガバナンスを通じて初めてあるべき姿になるからだ。それが実現できたら、「科学技術と民主主義は矛盾する」という逆説的な問題も解消されるのだろう。著者の論説に、科学論者の地位向上の願いも感じなくもない。しかし、科学技術と社会との関係の転換期を迎える現在、中島氏のように公平な目で、科学と社会の架橋になる存在が必要である。

第1部 科学書を読んで考える科学/技術の二一世紀(迷路の中の科学/技術
理科系を解体する―理学知・工学知・知識のモード
創造性豊かな社会を作るために―歴史からのアプローチ
危機に立つ科学史・科学哲学)
第2部 科学技術社会論の挑戦(科学者論は科学者論に留まれるか?
科学論再考 科学における平等と公正)

*書評としてとりあげられた本も某氏お薦めのアラン・ブルームの『アメリカン・マインドの終焉』から『分数のできない大学生』、名作『沈黙の春』等、専門書ではなくむしろ広範囲な一般書ともいえよう。拘置所にはいるかもしれない村上さんにお薦めしたい知的な刺激をうける教養書。

http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20060227bk0b.htm