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1473年ポーランドに生まれたコペルニクスは、伯父の計らいで司教座聖堂の参時会員になり、生涯経済的に困らない身分で政治的駆け引きから背を向けて研、究活動に没頭することができた。ボローニャで天文学教授の家に下宿したことを契機に、やがて天文学に興味をもつようになる。彼は早くから太陽でなく、この地球が回っている論文を「仮説」として書きつづけていたが、教会の反応への不安や納得いかない未完成の部分(当時は観測不可能だった)、非常識な説への人々の嘲笑や批判を考えると、とても出版するまでの気持ちはなかった。このコペルニクスの学説に注目し、出版を強く勧めたのが若きゲオルク・ヨアヒム・レティクスだ。彼は老いたコペルニクスを師と仰ぎ、戦略をたてて重い腰をたたいて数年に渡り熱心にくどき、とうとう原稿をニュルンベルグのペトレイウスの印刷所に届けることができた。ようやくできあがった本を携えて、師のもとに意気揚揚と戻るとなんと恩師は卒中を起こしていて、意識がまだら状態ではないか。自分の人生をかけた集大成を認めたのかどうかも不鮮明なまま、まもなく死の天使のむかえがくる。
やがて時はたち、1551年教授として人望を集めていたレティクスの人生も暗転する。酒に酔ったあげく、若い学生に対して同性愛行為に及んだというスキャンダルがたち、青年の父親から告訴される。そしてプラハに逃れ、三角法の数表作成に取り組み、正弦(サイン)、余弦(コサイン)を小数点第10位まで計算したり、医学に転じ急進的で画期的な新しい医学にも取り組んだ。再び三角法への情熱を取り戻すきっかけが、老いてから出あった共同研究者である若いヴァレンティン・オットーの存在だ。オットーの勧めに従い、今度は自分が『三画法総覧』を世におくることになるのである。まさに若き頃の自分とコペルニクスに重なるような不思議なめぐりあわせである。
そして初版500部、第二版500部程度と推測される革命的な著書『回転について』が、哲学者デカルトやティコ・ブラーエ、ガリレオ・ガリレイへと受け継がれ、ケプラーの法則まで、その時代に活躍した科学者に大きな影響を与えたことが、本の行間にある書き込みから浮かび上がる。そこにあるのは、また人間くさいドラマだ。
スウェーデンの女王の個人教授になったデカルトは、毎朝11時までベッドで瞑想する習慣を5時起きにされ、哀れ命を縮めたり、占星術の知識の豊富なガリレオが、トスカーナ大公にお世辞を並べて取り入ったり、プライドの高い貴族ブラーエが皮肉やでライバル心むきだしだったり、ケプラーが実は唯一天文学だけが-Aの成績だったりと、舞台を想像するだけで映画を楽しむような物語が続くのである。それを可能にしているのは、ラテン語という共通言語と、ニュルンベルグで開催さていた本の見本市、そして何よりも幅広い地域に網羅されていたネットワークが一種の「見えない大学」を形成していたことである。
そしてギンガリッチ氏自身も『回転について』を1冊ずつ調べながら、盗まれた本の証言のために法廷に出頭したり、道を誤って旧東ドイツ内に不法侵入して冷や汗をかいたり、同じ科学書のライバル書誌学者との競争もあり、それはそれでもうひとつの長い物語でもある。「科学革命をもたらした書誌学的冒険」という副題のとおり、この本とともに知的冒険に魅了されるのは、私だけではないだろう。
「幾何学に暗い者は入るなかれ」
表紙に、ギリシャ語でそっと警句が記されている『回転について』は、太陽を中心として惑星がその周りを回っている説を、きわめて説得力ある議論を展開しているという。その基盤にあるのは、単純さ、調和、そして美しさだとも。”コペルニクスが誰も読まなかった”というのは、途方もなく間違っていたのだった。
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