4-3. 目的の手段は、苦痛でなく、快のばあいもある
ひとは、苦痛を耐え忍ぶことを手段として、価値あるものを獲得する。労働は、その代表で、辛い労働を手段にして、その結果において価値あるものを作り出す。秋の実りを得るためには、炎天下での辛い農作業を耐えることが必要である。だが、その実り・価値あるものを獲得するための手段の営為は、かならずしも苦痛である必要はない。価値ある結果を導き出す手段の過程が苦痛・快どちらでも可能というのなら、それが価値ある同じ目的(結果)を産むのならば、むしろ、快を手段とすることであろう。わざわざに命を縮めるような辛苦を引き受けなくても、楽に成果が出せるのであれば、それを取る。ときに、そういう快の、楽な仕事も存在する。
絵を描くことを楽しみにしているひとは多い。できた絵は、他者にとって価値がなければ、その営為は、価値を生む営為ではなかったのであるが、それが市場で価値あるものとして売れるようになることもある。画家として生計を立てている人のうちには、描くことが楽しく快適なものになる人もいることであろう。音楽家も、できあがった作品がみんなにとって魅力的で価値あるものになるとしても、それを創作する過程は、かならずしも、苦痛である必要はない。創作が楽しいなら、その方がよい。創作が快なら、それは、持続しやすいし、多くの時間をそれにまわすことになって、より多くの価値ある作品を生み出すことが可能となる。芸術家のなかには、人生に苦悩していて、その作品創造をその苦悩解消の手段にするような人もいる。ここでは価値創造の過程は、苦痛どころか、反対に苦痛を癒す過程となっているのである。
一般的に仕事は、苦しいことのあるもので、その苦痛を耐えしのび、それを手段とし不可避のプロセスとして、結果として、価値あるものを創造する。歴史は、その苦難の労働をだんだんと楽なものにと改善してきた。苦難になる過程・部分は、道具や機械にやらせて、ひとは、それの制御・操作という楽な仕事にしてきた。農業というと田畑を耕作する重労働であったが、いまは、もう耕作等は農業用の各種の機械でもってすることで、ひとは、それを制御・操作することで済んでいて、かつてとは雲泥の差で楽なものとなってきている。
価値あるものを生み出すには、かならずしも、苦痛を介することはないのである。工夫をすることで、価値創造の手段の過程が快適な作業となり、楽なものにできるのなら、わざわざに苦痛を甘受するようなことはない。しかし、快であったり楽しみなものは、皆が自分ですることになり、わざわざ対価を払って買いたいようなものにはならなくなる。盆栽の水やりとか、プラモデル作成は、自身の楽しみであり、ひとには譲りたくない仕事であろう。だが、苦痛になるものなら、皆が回避しがちになる。それは、希少で、皆がその創造したものを欲しがるような活動となり、それに要する苦労には、これに報いるだけの対価を払ってもよいということになろう。創造的なことをする場合、その歩みを妨害し阻害するものがどこかに出てくるのが普通であり、そこに生じる苦痛を回避していたのでは、先には進めない。苦痛になると、これには必ず回避衝動がともない、苦痛からは逃げ出したくなる。逃げずその苦痛を甘受し忍耐することがないと先には進めなくなる。こういう場合は、苦痛を忍耐することをもってのみ、その先の価値あるものの創造は可能となるのである。
ひとは、苦痛を耐え忍ぶことを手段として、価値あるものを獲得する。労働は、その代表で、辛い労働を手段にして、その結果において価値あるものを作り出す。秋の実りを得るためには、炎天下での辛い農作業を耐えることが必要である。だが、その実り・価値あるものを獲得するための手段の営為は、かならずしも苦痛である必要はない。価値ある結果を導き出す手段の過程が苦痛・快どちらでも可能というのなら、それが価値ある同じ目的(結果)を産むのならば、むしろ、快を手段とすることであろう。わざわざに命を縮めるような辛苦を引き受けなくても、楽に成果が出せるのであれば、それを取る。ときに、そういう快の、楽な仕事も存在する。
絵を描くことを楽しみにしているひとは多い。できた絵は、他者にとって価値がなければ、その営為は、価値を生む営為ではなかったのであるが、それが市場で価値あるものとして売れるようになることもある。画家として生計を立てている人のうちには、描くことが楽しく快適なものになる人もいることであろう。音楽家も、できあがった作品がみんなにとって魅力的で価値あるものになるとしても、それを創作する過程は、かならずしも、苦痛である必要はない。創作が楽しいなら、その方がよい。創作が快なら、それは、持続しやすいし、多くの時間をそれにまわすことになって、より多くの価値ある作品を生み出すことが可能となる。芸術家のなかには、人生に苦悩していて、その作品創造をその苦悩解消の手段にするような人もいる。ここでは価値創造の過程は、苦痛どころか、反対に苦痛を癒す過程となっているのである。
一般的に仕事は、苦しいことのあるもので、その苦痛を耐えしのび、それを手段とし不可避のプロセスとして、結果として、価値あるものを創造する。歴史は、その苦難の労働をだんだんと楽なものにと改善してきた。苦難になる過程・部分は、道具や機械にやらせて、ひとは、それの制御・操作という楽な仕事にしてきた。農業というと田畑を耕作する重労働であったが、いまは、もう耕作等は農業用の各種の機械でもってすることで、ひとは、それを制御・操作することで済んでいて、かつてとは雲泥の差で楽なものとなってきている。
価値あるものを生み出すには、かならずしも、苦痛を介することはないのである。工夫をすることで、価値創造の手段の過程が快適な作業となり、楽なものにできるのなら、わざわざに苦痛を甘受するようなことはない。しかし、快であったり楽しみなものは、皆が自分ですることになり、わざわざ対価を払って買いたいようなものにはならなくなる。盆栽の水やりとか、プラモデル作成は、自身の楽しみであり、ひとには譲りたくない仕事であろう。だが、苦痛になるものなら、皆が回避しがちになる。それは、希少で、皆がその創造したものを欲しがるような活動となり、それに要する苦労には、これに報いるだけの対価を払ってもよいということになろう。創造的なことをする場合、その歩みを妨害し阻害するものがどこかに出てくるのが普通であり、そこに生じる苦痛を回避していたのでは、先には進めない。苦痛になると、これには必ず回避衝動がともない、苦痛からは逃げ出したくなる。逃げずその苦痛を甘受し忍耐することがないと先には進めなくなる。こういう場合は、苦痛を忍耐することをもってのみ、その先の価値あるものの創造は可能となるのである。