目的の手段は、苦痛でなく、快のばあいもある

2024年09月24日 | 苦痛の価値論
4-3. 目的の手段は、苦痛でなく、快のばあいもある
 ひとは、苦痛を耐え忍ぶことを手段として、価値あるものを獲得する。労働は、その代表で、辛い労働を手段にして、その結果において価値あるものを作り出す。秋の実りを得るためには、炎天下での辛い農作業を耐えることが必要である。だが、その実り・価値あるものを獲得するための手段の営為は、かならずしも苦痛である必要はない。価値ある結果を導き出す手段の過程が苦痛・快どちらでも可能というのなら、それが価値ある同じ目的(結果)を産むのならば、むしろ、快を手段とすることであろう。わざわざに命を縮めるような辛苦を引き受けなくても、楽に成果が出せるのであれば、それを取る。ときに、そういう快の、楽な仕事も存在する。
 絵を描くことを楽しみにしているひとは多い。できた絵は、他者にとって価値がなければ、その営為は、価値を生む営為ではなかったのであるが、それが市場で価値あるものとして売れるようになることもある。画家として生計を立てている人のうちには、描くことが楽しく快適なものになる人もいることであろう。音楽家も、できあがった作品がみんなにとって魅力的で価値あるものになるとしても、それを創作する過程は、かならずしも、苦痛である必要はない。創作が楽しいなら、その方がよい。創作が快なら、それは、持続しやすいし、多くの時間をそれにまわすことになって、より多くの価値ある作品を生み出すことが可能となる。芸術家のなかには、人生に苦悩していて、その作品創造をその苦悩解消の手段にするような人もいる。ここでは価値創造の過程は、苦痛どころか、反対に苦痛を癒す過程となっているのである。
 一般的に仕事は、苦しいことのあるもので、その苦痛を耐えしのび、それを手段とし不可避のプロセスとして、結果として、価値あるものを創造する。歴史は、その苦難の労働をだんだんと楽なものにと改善してきた。苦難になる過程・部分は、道具や機械にやらせて、ひとは、それの制御・操作という楽な仕事にしてきた。農業というと田畑を耕作する重労働であったが、いまは、もう耕作等は農業用の各種の機械でもってすることで、ひとは、それを制御・操作することで済んでいて、かつてとは雲泥の差で楽なものとなってきている。
 価値あるものを生み出すには、かならずしも、苦痛を介することはないのである。工夫をすることで、価値創造の手段の過程が快適な作業となり、楽なものにできるのなら、わざわざに苦痛を甘受するようなことはない。しかし、快であったり楽しみなものは、皆が自分ですることになり、わざわざ対価を払って買いたいようなものにはならなくなる。盆栽の水やりとか、プラモデル作成は、自身の楽しみであり、ひとには譲りたくない仕事であろう。だが、苦痛になるものなら、皆が回避しがちになる。それは、希少で、皆がその創造したものを欲しがるような活動となり、それに要する苦労には、これに報いるだけの対価を払ってもよいということになろう。創造的なことをする場合、その歩みを妨害し阻害するものがどこかに出てくるのが普通であり、そこに生じる苦痛を回避していたのでは、先には進めない。苦痛になると、これには必ず回避衝動がともない、苦痛からは逃げ出したくなる。逃げずその苦痛を甘受し忍耐することがないと先には進めなくなる。こういう場合は、苦痛を忍耐することをもってのみ、その先の価値あるものの創造は可能となるのである。

意志は、苦痛が創る

2024年09月17日 | 苦痛の価値論
4-2-3-3. 意志は、苦痛が創る    
 「三代目」が家をつぶすのは、跡継ぎだというので大事にして、苦労をさせず、結果、苦痛によって養われる強い意志の育たないことが一番の原因であろう。強い意志は、苦痛・苦労の中で創造される。強い身体が、身体を無理やりに使って鍛えて可能になるように、こころも、厳しい辛苦の体験をもって鍛えられる。
 ひとは、知恵をもって自然のもとで至高の存在となっているが、単なる知、理性だけではすぐれた生き方には、不足する。理性知は、ことにかかわって、深い洞察をもち、真実を見出すけれども、それだけでは、この世界を星の高みから傍観するにとどまる。深く洞察しても、単に観想するだけでは、自身と世界を動かすようなことはできない。自己自身と外的世界を動かしこれに実在的に関与していくには、実践が必要となる。理性は、観想する理性であるにとどまらず、実践的理性、つまりは意志とならねばならない。
 この意志は、苦難・苦痛に出会って動くものである。もし快の状態にあるとしたら、これを享受するだけでよく、そこには、その快への欲求は生じても、これをことさらに意志する必要はない。意志が求められるのは、そこで思うようにならないことがあって、つまり、障害があって不快・苦痛を生じているところである。仮に快であるところで意志が求められるとすると、それは、その快への欲求・衝動を抑止する場面である。その快楽享受を抑止する苦痛に際して、苦痛を耐えて快享受を抑止するその反自然の事態に、理性意志が登場する。あるいは、快享受がならない場面で、快獲得のために苦労・苦難に挑戦するとき、意志が登場するのである。酒など麻薬の快を享受するところには、意志はいらない。意志は、この快楽を拒否して(時には禁断症状の苦痛に耐え)苦闘するとき、求められる。意志は、思うようにならない苦難・苦痛に直面して、これを理性の思うようにと変革していくときに必要となる。この苦難の世界に挑戦する理性が、実践的理性、すなわち意志となるのである。
 意志が苦痛に挑戦することを通して成長し強化されるのは、身体の鍛錬と同じであろう。身体の強化は、これを使うこと、酷使することで可能になる。鉄棒で大車輪をするには、何回も失敗を繰り返しつつ、身体の使用の仕方に工夫をして、だんだんと巧みになって、これを実現するのである。おなじく、意志も苦難に出会って挑戦を繰り返す中で、心の使い方を訓練して、しだいに鍛錬され、意志強化となる。叱られてはじめは落ち込んでいても、しだいにこれを自身で内心において調整して乗り切っていくことがうまくなっていく。苦痛への挑戦を反復するなかで、意志は強化される。
逆境の中の若者は、これに耐えて屈することがなければ、強い意志を創り上げ、やがては大成していく。温室育ちの三代目は、逆に没落する。ただし、あまりに強烈な苦痛では、意志の強化にならず、打ちひしがれた負け犬となって、三代目以下になることもある。身体も鍛えるにあまりにも無謀なやり方では、身体を破壊してしまう。ほどほどの苦痛とこれへの挑戦が必要である。意志がかかわるものは、多くが精神的苦痛であろう。この苦痛は、絶望にせよ不安にせよ、当人の解釈しだいというようなところがある。身体の酷使とちがって、過度の苦痛であるかどうかは当人の心構え次第ということであれば、耐えられない苦痛はなくすることができる(受験や就職で絶望・憔悴しきっていても、海外へ移住でもすれば、リセットできる)。どんな場合も、生じている苦難の解釈を変えるなどして挑戦可能なものに作りなし、自らの意志強化、鍛錬へとつなげていくことが可能となるのではないか。
 なお、意志は苦痛によって創られるといったが、もう少しことを分けて見ると、狭義の苦痛自体は、ひとを痛めつけ、心身をくたびれさせ、しばしば挑戦精神・気力をも奪う嫌悪すべきもので、意志の強化を可能とするものは、その苦痛に駆り立てられて心身を総動員して挑戦する積極的な前向きの心構え(気力など)をもつところにあるというべきであろうか。身体損傷の苦痛の場合など、その痛み自体に対してみずからが意志して何かできることはほとんどない。痛みを前にして、なにくそと気力を奮い起こし、痛みを吹き飛ばそうと意気込み、創造的な活動へと自身を奮い立たせる過程に、堅忍不抜の意志が目覚めるのである。痛み自体は、意志を直接奮起させるとはいえないかも知れない。しかし、ことがスムースで快である場合は、これに魅され享受するだけで、積極的に意志を働かせるような場はない。苦痛は、直接的には人を痛めつけ意気消沈させるが、この苦痛を前にして、尊厳を有する人間は、苦痛(自然)に支配されるのでなく、これを支配下において、挑戦精神を奮い起こす姿勢をもてるのである。しつこい苦痛が、尊厳を有した人間にチャレンジ精神をもつことを強いる。挑戦する心構えや意志の喚起は、苦痛で踏みにじられてということであろうから、やはり、苦痛あっての意志の形成と解して良いであろうか。
 

時代によって快苦への対応は相当に異なってくる

2024年09月10日 | 苦痛の価値論
4-2-3-2. 時代によって快苦への対応は相当に異なってくる
 かつて、禁煙が大きな社会問題となったことがある。禁煙を求められても、中毒だからやめられないという者がけっこういたし、嫌煙権があるのなら、喫煙権があると息巻いていた。汽車に乗れば、もうもうとした煙の中にいて、皆平気であった。だが、いまは、喫煙者は日陰者である。あれほど中毒になっていたものを、皆やめた。その気になれば、中毒になっていても、やめることができる。やめることがしばらく続くと、余計な欲求であったから、喫煙欲自体が消滅もして、ほしくさえなくなることにまで進んだ。
快苦をひとは制御する。損傷を被る苦痛に耐えられる。ましてや、快楽は、価値あるものの獲得の感情であり、マイナス(苦痛・損傷)ではなくゼロにとどまるだけのことで、深刻なものではなく、苦痛に比して容易に耐えられる。とは思うが、現代社会において、各種の快楽への中毒では、砂糖中毒にしても、アルコール中毒にしても、個人の手には負えないというようなことを聞く。単に生理的なものにとどまらず、それに精神的要因が加わった場合、自分の意志だけでは、どうにもならないというようなこともある。意志の問題だというのは、最後は、ラディカルには、そうだとしても、歴史的にみれば贅沢三昧といってもいい生活に浸っている現代人を前にして、それだけで片づけようというのは乱暴な話になるのかも知れない(レイプを性欲に、戦争を闘争本能に帰すのと似た、短絡な間違った発想になるのかもと)。
 食べ物などにしても、美味の快楽に浸りきった毎日なので、節制せよ、抑制せよといっても簡単にはいかなくなっている。菓子はいうまでもなく、果物などでも、強い甘味のものだけが売られていて、過食を誘う。みかんは、かつては、酸っぱさが効いていて過食はさそわなかった。だが、いまは、どの店頭の柑橘も酸味ゼロで甘すぎて過食を誘う。ニュージーランドあたりからの輸入のリンゴは、酸味があって堅く適度に甘く、何より小さくて食べやすく過食にはなりにくい。だが、日本の最近のリンゴは、多くが甘すぎて大きすぎて過食させる。果物は、日本のはナシでもブドウでも同様である。糖度が高くて大きければ値段を高くしてよいという商売人のもとでそうなっているのであろうが、困ったものである。酸っぱいブドウなどこの世にないかのようである。酸味があってこその独特の美味さであり、過食を抑止するものになるが、日本では、もはや、求めることが困難な状態である。お菓子を絶ち飲み物から砂糖を除去しても、果物が、なかには野菜までが甘さを競っていて、快楽主義があらゆる方面に蔓延している現代社会では、みずからの意志でもって快に、苦痛・不快に耐えよといっても、そう簡単にはできない生活になっているのである。
 ひとは、常に時代の子である。戦前は、子供は、うちでもそとでも殴られて成長していた。自叙伝などを覗いてみると、父親のみでなく母親にすら何かあるとしばしば殴られていたようである(cf.大杉栄『自叙伝』)。小学校の先生は、鞭をもって教育していた。いまなら裁判になるような乱暴なことが普通であった。そんな時代と今は、自身の意志の使用についても、相当に異なっている。あの、「三代目は家をつぶす」を地でいった、忠臣蔵の、家臣のことなどまるで頭になく、ふしだらで、我慢・忍耐心ゼロの浅野内匠頭ですら、見事に切腹できたらしいではないか。皆がそういうことをする時代なら、軟弱な人間でも簡単に腹も切れるのである(浅野内匠頭、本当は、ぼんぼんゆえ往生際も悪かったかも知れない。だとしても、みっともないので押さえつけて即首を切って、発表は体裁を整えたことであろう)。『葉隠』などを見ると、随分短慮で乱暴で命知らずの、平時の話がたくさん出てくる。それがごく普通という時代もあったのである。根本的には意志が自身の感性・欲望を抑止して苦痛をしっかりと我慢・忍耐してしかるべきではある。が、甘え切った今の時代では、そう簡単にはいかない。生ぬるい時代には、生ぬるいやり方でないとうまくいかないのであろう。

ひとは、甘やかされれば、動物になりきる

2024年09月03日 | 苦痛の価値論
4-2-3-1. ひとは、甘やかされれば、動物になりきる  
 飲酒が過ぎてアルコール中毒になったとき、これは自分の意思では対処できない、入院、薬物療法が必要と言われることがある。アル中ではなく、精神的病が問題の場合は、後者の治療となり、自分だけで解決することが困難なこともあろう。だが、純粋に快楽に溺れるだけのアル中なら、かなりの場合、当人が理性意志を強く働かせれば、克服できるのではないか。それを、飲酒を続ける者は、幼児のように甘えた状態にとどまって、困難に挑戦する意志をもつことなく動物的自然状態のままに、なにかと理屈もつけて中毒に甘える。自身を甘やかせているから、甘えられるから、自身の意思では対処できないということにしているのである。周囲の誘惑があってこれに負けてしまうと言い訳をするが、それなら、山中の一軒家など誘惑のないところへ移ればいいのである。本気になれば、理性的な解決策はいくらでもあろう。同じ頃禁酒を誓った知人は、刑務所に入って即日禁酒をはじめて、アル中からとっくに抜け出しているのである。 
 ひとには動物的衝動が当然あり、これは自身を強くその方向へと向ける。だが、それを抑止できるのが人間である。理性をもって、快不快を制御して、苦痛に忍耐し、快楽を我慢して、ひとは、社会的にしっかりと秩序をもった生活を可能にしているのである。性と食の強い欲求、動物的な衝動をひとは、普通に制御している。日に三食とか二食に限定した食事も、制御してなりえていることである。おいしそうなものを見たら即ほしくなるが、食事時まで我慢できるのである。性欲も、ほしいままをする犬畜生と唾棄される者以外は、しっかりと抑制して一夫一婦制を守っている。畜生と言われるものでも、刑務所に入ったらしっかり我慢でき(させられ)、刺激がなければ、性欲は消滅さえする。薬物乱用者でも刑務所では何年でも禁欲できる。強い欲求でも、環境を整理しその気になれば、適切に抑制できる。
 ひとは、自然的には回避する苦痛も、回避せず甘受でき、我慢・忍耐ができる。そのことで自然を超越した存在となる。自然の衝動・欲求を抑制して、超自然の存在となるのである。快享受を制御するより、苦痛の甘受の方が厳しい意志の働きを要する。苦痛では、苦痛、損傷が現に生じているのを、逃げずに、耐えるのであり、強い意志を必要とするものが多い。これから逃げたとしても、「弱虫」と批判されるぐらいで済む。だが、快の方は、これを享受するのを抑止するのであり、その快はまだ現前していない、想像の段階である。その快の享受を控えて我慢するとしても、苦痛のように生が損傷を受けるという深刻なものではない。比較的に容易なのが快の抑止である。したがって、快享受について我慢できない者は、「人間に悖る」と嘲笑される。苦痛に負けるのは、弱い人間である。だが、快楽に負ける人間は、人間に悖るもの、動物である。