旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

基隆のフランス人墓地

2020-01-22 21:28:30 | 台湾
台湾にフランス人の墓地があるとは知らなかった。

英語を話すタクシードライバーが「フランス人の墓地がこのちかくだよ」と言うのですぐに止めてもらった。
大きなバスではとても止まれない。車寄せもない道端に門があった。

墓地といっても墓石はほとんどみあたらない。

藪蚊がちくちく刺してくる木陰に古い石碑が立っている↓

↓FORMOSAというのがアルファベット言語で一般的に台湾を指すことばになっている↓

「タイワン」と発音するとたいてい「え?タイ?」と言われるのだと台湾の友人が言っていた。
↓この石碑は日本支配時代に建てられたものだと↓この文字からもわかる

高雄から来てくれていた歴史に詳しい台湾人のガイドさんが、日清戦争のちょうど十年前に起きた清とフランスの戦いのことを話してくれた。
●清仏戦争1884-1885
インドシナ半島に進出していたフランスがベトナムの支配権をめぐって清と争いになった。
フランスは一進一退をくりかえしながらも台湾島北部の基隆へ上陸し、1885年6月22日に撤退するまで何度も戦闘が起きた。

現地の解説版によると、
この時の戦没者は清側とフランス側とにわけて地元の人々が埋葬してあったのだが、十年後、日清戦争1894-1895の折に上陸した日本軍と戦いとなりその時に二つの墓地はともに壊滅していた。
日本支配時代の1909年になってフランスの要請によりフランス人墓地が再び整備された。
墓石がほとんどない理由、日本語での献辞がある理由が、理解できた。
↓わずかにあるこれらの墓石は発掘して再び設置されたもの

↓膨湖島にあったフランス人墓地から1954年に移されたもの

台湾島は清朝にとってはたいして重要な島ではなかったのかもしれない。
しかし、アジア進出を企てるヨーロッパ勢にとっては足がかりとなる重要な立地であった。
16世紀以降、スペイン、オランダが堡類を築いていたことでもわかる。
大陸を追われた華人にとっても大事な避難場所だった。
鄭成功、そして蒋介石。

日本が支配権を握る以前にもフランスとの間でこんな紛争が起きていた場所だという事をはじめて認識した。



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