旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

台南に残るオランダの面影

2019-02-19 12:00:00 | 台湾
「徳記洋行」は19世紀に英国商館の倉庫だったとされる建物。

ガジュマルに覆われた姿が強い印象を与える。

↑今は「安平樹屋」という呼ばれている。
↓壁の外からはこんな感じ↓


この安平という場所は
オランダ東インド会社が17世紀に築いた砦があったエリアがルーツになっている。そのゼーランディア砦=安平古堡はこんな西洋風の城だった?↓

↑いや、現在はとってつけたような展望台が立っております(笑)観光地としては有効な施設なのかもしれないが
↓入場入口

↓内部展示で砦としての姿が模型で再現されていた↓

↓現在の地図に重ねてみると、となりにあった碁盤の目に区切られた居住地区が安平の住宅エリアに埋もれているのがわかる↓
↓掘ればいろんなものが出てくるわけだ

オリジナルのレンガ城壁が一部残っている↓

↓黒い実践が日本統治時代の調査でオリジナルが残っているとされた部分↓




↓台南の港からこんな風にみえていたのかも↓

↑いちばん上に「ゼーランディア・ウ・ドゥ・タイワン」と書かれている
↓港全体はこんな感じだった↓

↑砂州がのびてできた場所に港を守るゼーランディア砦があったわけだ

東インド会社のマークが復元された事務所・砦の建物↓

↓新しいエレベーターも設置されております↓


★↓展示されていた古い地図でこの場所の由来が理解できる↓
ポルトガル人がはじめてこの島を認識した時「Iフォルモサ」=美しい島と記録した↓
↓その名前が見える地図↓

台湾島は欧米人にはフォルモサということばの方が認識してもらいやすいそうだ。
「アイム・フロム・タイワン」と言っても「え?タイランド?」ときかれてしまうから
「アイム・フロム・フォルモサ」と言った方がよいです、とガイドさんが教えてくれた。
↑上の地図で台湾島が三つに分かれて描かれているのは、川を海峡と思ったからだとか。

中国と日本と東南アジアを結ぶ好立地。
欧米諸国が台湾島に貿易拠点をつくりたくなるはずだ。
↓展示に描かれた取引商品図

↑「大員」と表記されているのは、「タイワン」という地名がもともと原住民シラヤ族の呼んでいた地名「タイオワン」に中国人が漢字をあてたから。

当時は台南が主要な港だった。
前出の港の絵図でもわかるように、ここは港を囲うかたちで伸びた砂州の先になる↓

↑内陸部に円形の城郭のような建物が描かれている↑
あぁ、あれが、宿泊したホテルの近くにあった「赤崁楼(せきかんろう)」か。
港を守る砦がゼーランディア城であったのに対して、こちらは役所機能であったと理解した。
オランダ語ではProvintiaと呼ばれていた。

昨夜夕食の後にみんなで訪れました(^.^)

↓全体図

↑右下の緑の中に「鄭成功義和図」と書かれているのがわかるだろうか↑
↓明の再興を目指した日中ハーフの鄭成功がオランダからプロヴィンティア城を手に入れた時の図

※鄭成功についてはこちらに書きました

オランダがここ台南に拠点を持っていた時代は
ゼーランディア砦(安平古堡)が1624年から1661年までの38年間
プロヴィンティア(赤崁楼)が1653年から1661までの8年間
だったということになる。

★冒頭のイギリス商館は1858年の天津条約(「アロー号事件」の後)で安平が開港された後に開設された商館(当時「洋行」と表記)
この地区には他にも欧米の「洋行」がいくつもあったが、日本支配がはじまると多くは接収されていった

昨夜赤崁楼にて↓夜の9時まで見学できました





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