旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ドゥッガ遺跡~劇場

2019-03-14 09:17:30 | チュニジア
標高六百メートル程の斜面に広がる都市遺跡である

↑バスを止めた場所から百メートルでいきなり劇場跡

↓もともとはこんなだったのか

↓舞台中央から上手側を見る

↓舞台のそでにあるこれは何?

「これは、古代のプロンプターなんだよ」とガイドのシュクリさん
どういう意味???…あ、セリフを忘れた人にここから教えていた、ということか。なるほど~
★アフリカ原住民(ヌミディア人)からAD172年にローマ本国の元老院になったPublius.Marcius.Quadratusプブリウス・マルキウス・クワドラトゥスが祖国に華を飾る事業として建設した劇場。残されていた劇場の入口碑文に書かれていたそうだ

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劇場をあとにして、神殿へ向かう道↓轍がくっきり溝になっている

↓ふりむくと、ローマ遺跡には見かけない丸いドームがあった

予想通りモスクだった建物だった。
★なぜ、モスクがあるのだろう?
この町がもっとも栄えたのは帝政ローマ時代だが、七世紀以降アラブ・イスラムの支配になってもの村として人は住み続けていたのだ。19世紀から20世紀前半のフランス領だった時代に村を移転させて遺跡を掘り出したということ。
ギリシャのデルフィと同じようなことを、ここでもやっていたフランス。

神殿が見えてきた


が、シュクリさんはそこへ向かわず、先に市域を区切るアレクサンドル・セヴェルスの門へ我々を導いた↓

↓この門をくぐると…

↓巨大な貯水槽が姿を見せた

※この旅で見た水道橋はこちらに載せています
あとから資料を読んで知ったのだが、このドゥッガの街にはこういった貯水槽が七か所もあった。
最も古いものはもう少し斜面の上の方にありそこは近くの泉からの水を溜めるわりに単純な仕組みだったようだが、この貯水槽は紀元後二世紀後半に建設された最終形。直線距離で8.5キロ離れた水源から、12㎞を超える長さの水道管を建設してドゥッガまで水をひいた。
当時の人口は二万五千人と広場に誇らしげに刻まれていたのだから、そのぐらいの水が必要だったのだろう。あるいは、充分な水が供給できる都市だったからそれだけの人口が住むことが可能だったのだ。
↓THVGGES(ドゥッガの人々)XXVMII(二万五千人) 
↓メルキュール広場の碑文に残されているその部分

↑左下部分

↓天の神 カエレスティスの神殿は紀元後222年から225年にかけて建設されたと解説解説書に書かれていた

それはつまりアレクサンドル・セヴェルス帝の統治期間にあたる。
大叔父のセプティミス・セヴェルス帝からはじまる王朝は彼が部下の兵士たちによって暗殺されて終わった。

暗殺されたのは遥かドイツのマインツだが、このアフリカでも彼に捧げる神殿の建設が行われていたのか
↓神殿への捧げものを保管していたと思われる穴↓






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