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旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

クレルモン 十字軍発祥の街 ロマネスクめぐり①ノートルダム・デュ・ポール

2018-05-01 23:41:14 | フランス
↓これは13世紀半ばから建設がはじめられ19世紀にこの正面が完成した「昇天の聖母大聖堂」、まごうことなきゴシック様式↓

しかし、この場所には今見えている教会以前にロマネスクの聖堂があった。
ローマ法王ウルバヌス二世は1095年の11月、教会横の広場で「神がそれを求めておられるDeus lovult」という言葉でエルサレムを奪回することを鼓舞し、最初のひとりとしてル・ピュイのアデマール司教が法皇の前に跪いた。それを記念する銅像が置かれている↓

ローマでキャリアを積んだとはいえもともとフランス人の彼は、群衆にフランス語で語ったのか?ラテン語だったのか?


この丘には、実はウルバヌス二世が演説をした12世紀よりずっと以前に、古代にはギリシャ・ローマの神殿があったとされている。
教会正面からまっすぐ続く参道の先には温泉が湧きだす山があり、そこにもかつて神殿があった跡が発見されている↓

古代から参道だった道なのだ
**中世の面影が残る旧市街の細い道を丘の北側へおりてゆく
かつて市場や倉庫があったとされるエリアにその名前にちなんでle port=portus(ラテン語)と名付けられた聖母教会がある。
※現地解説リーフレットより

地下にウルバヌス二世の時代の姿を留めている教会がその「ノートルダム・デュ・ポール教会」↓
丘から北に降りてゆくと、表通りの無個性な壁の後ろに突然その姿が見えた↓

周囲が火山の黒い石ばかりでつくられた街並みで、この教会だけが明るい砂岩でできている↓

ガイドさんの解説によると、12世紀当時にはまだ黒い火山の石を建材に使っていなかったのだそうだ。
黄金の石と呼ばれる「アルコース」という石はクレルモンから30キロメートルほど離れたモンペイルーの石切り場から採掘された。
※現地案内リーフレットより

↓下の写真で左側の四角い塔だけは後代に付け加えられた部分なので火山性の石を使っている↓

近づくとはっきり違いがわかる↓

黒い火山性の石はしかし、12世紀当時にも装飾には利用されていた↓後陣部分の幾何学的な模様は真っ黒↓


真後ろから見上げる↓

↓横側に開いているメインの入口の彫刻↓かなり壊されていはいるが物語がよみとれる

かつては後代に付け加えられた建物や装飾があったのだが↓20世紀半ばにとりはずされ、修復された。
1841年のスケッチが下↓後づけの構造がロマネスク構造を埋もれさせていたのが分かる↓


内部は重厚で少し薄暗いロマネスク雰囲気。ただ、奥には窓が多く開けられていて入口から入った人が自然に主祭壇の方向へ導かれる気持ちになる↓

注目すべきはオリジナルの形を保っている柱頭彫刻群↓入り口はいったところの柱にはまだ閉じられた聖書が積まれている装飾↓



奥には聖書物語が展開されている↓
イブが左側の蛇から禁断の実を勧められ、アダムも食べております↓

↓エリザベツのマリア訪問↓


たくさんの人間性への警句も見られる↓この猿のような人物は何?↓

※こちらに解説しました
↓これは何をしている?

この人物は「怒り」そのものを擬人化したもの。自分自身を殺している。
「そうだよなぁ、怒りというのは結局自分自身をも殺してしまう感情だよね」
中世の人々も同じように感じて見ていたにちがいない。
↓すぐ横では、右側の獣じみた「強欲」が左側の正義の戦士「慈善」と戦っている↓

↓このように気前よく寄進した人物なのか?ステファノという名前が分かる人物がこの教会そのものを表すと思われる柱を捧げている様子↓




地下聖堂はもっと古い時代からのものだろう。ここはウルバヌス二世の時代にも同じような感じだったのかもしれない↓
↓安置された「黒い聖母」は18世紀にクルミ材でつくられもの。中世からあった「黒い聖母」はフランス革命の時に失われてしまった。

中央に今も泉が湧き出している↓「聖所」というのはどんな宗教においても自然の恵みを与えてくれていた場所につくられることが多い。「神」とは自然の別の名前なのかもしれない。


****
丘の上は水の供給が難しい。古代ローマ時代には上水道があったそうだが、中世にはなくなっていた。
「昇天の聖母教会」の近くには16世紀にひかれた上水の終点である噴水があった↓

さらに百年ほど後につくられたもうひとつの噴水↓

*****
「昇天の聖母大聖堂」の内部も少しみておこう↓

ロマネスク時代の痕跡はほとんど、ない。
↓フランス革命時代に壊されたゴシックの彫刻が行き場を失くしてこんなかたちで並んでいる↓

むしろ、ごく最近にデザインされたと明らかなこういうステンドグラスが美しかった↓


*****
夕飯はホテルのとなりのカフェにて、ワン・ディッシュの食事↓
タルタル・ステーキとは↓日本では出せない生肉ユッケのようなステーキ↓

これ、いろんなスパイスが混ぜ込んであって実においしいのです。
今日のはすこし表面が焼いてあった。

サーモンのタルタルステーキもありました↓


オーヴェルニュ地方らしくチーズとポテトを混ぜた地元料理↓「トリュファード」とにかく量が多いです↓



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クレルモン 火山岩の黒い街

2018-05-01 11:11:11 | フランス
リヨンからクレルモンまでは休憩しながらでも二時間あれば到着できる。

↑「ヴィシー」という街は、1940年ナチスドイツに敗れたフランスで樹立された傀儡政権の首都。
パリも失ったフランスは四年間こんな田舎町のヴィシーに首都をおいていたのか。

このあたりは古い火山地帯で黒い石が建築材料として使われてきた。
クレルモンの旧市街中心にひときわ高く聳えるゴシックの塔も真っ黒↓

この二本の塔「昇天の聖母教会」がそびえる小高い丘がクレルモンの中心で※街の名前も「丘」ですね
丘のふもとに十九世紀に整備されたジョード広場が位置している。
今日の宿泊ホテルはこの広場に面したところを選んだ↓


広場の中心に立つ騎馬像はヴェルチェンジトリクス↓紀元前52年、ガリア戦役七年目のカエサルとの戦闘に勝った地元オーヴェルニュ族の長

19世紀、ドイツに敗れた後、民族意識の高まった時代のフランスによって建てられた。
カエサルをやぶった戦場はクレルモンの南六キロだったとされる。

★★クレルモンの街は現在「クレルモンーフェラン」と呼ばれている。1120年にオーヴェルニュ伯爵が建設したフェランはもともと別の町だった。
ルイ14世の治世に地方貴族の力をそぐために都市統合が進められ、フェランの要人は無理やりクレルモンの旧市街に移住させられたのだそうだ※現地ガイドさん談
フランス革命後、フェランは何度も分離を求めたけれど認められなかったそうな。観光的にもフェランの中心部には中世の街並みが残されているそうな★★

今日は午後二時から地元ガイドさんと観光予定。まだ二時間ほどある。天気がよくなってきたので、観光の時にはいかないだろう公園を散歩した↓


近くにあった修道院の薬草園が紀元になっていて、19世紀に植物園として世界のいろいろな植物が植えられた場所と理解した↓

↑セコイアの木も大きくそだっております

↓これは紋章?・・・よく見ると「ミニオン」でした(笑)↓


公園を出て旧市街へ向かう途中にあった美術館


公園の角にたっていたこのオベリスクは?
あとからガイドさんに写真を見せておしえてもらって理解した。これはナポレオン配下のドゼー将軍を記念したものだった↓彼はクレルモン近郊の名門貴族出身。王政の元でも優秀な軍人だったが、革命後立場を変えた。

↑頂上に置かれたのは遺灰の壺をイメージしているのだろう
↓ホテルの前のジョード広場にも彼の立像があった↓

ドゼー将軍はナポレオンが皇帝になる以前に戦場での窮地を救ってきた。
カイロ郊外ピラミッドの戦いと、彼の軍団の参戦によってオーストリアに勝利したマレンゴの戦いなどが刻まれている。
マレンゴで勝利の代価のように戦死したのだったが。

後から観光でもいく「昇天の聖母大聖堂」の近くまで行ってみる。同じ場所へ足を運んでも時間によって雰囲気は違うからよいのです。
見ればみるほど真っ黒な石↓

周辺の建物も多くは黒い黒い


足元にこんなメダルが埋め込まれている↓これは、クレルモンゆかりの三人の人物めぐりのルートを示しているのだ↓
いちばん古い時代の人物が前出の●紀元前一世紀ベルチェンジトリクス↓

二人目は十字軍の提唱者●紀元後12世紀末のローマ法王ウルバヌス二世↓

三人目は●17世紀の科学者・思想家、パスカル↓


昼食はトルコ人のやっているケバブにしました

けっこうおいしいのです。

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