旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

カフェでひと休みしてからアルベルティーナ美術館へ

2018-01-18 22:55:40 | オーストリア
ウィーンはパリに負けないカフェめぐりが楽しい街だ。美術史美術館を出て、カフェ・セントラルでひと休み↓

最初は1876年に開店した店。日本なら西南戦争の前の年。第二次大戦末期に一度は閉店。爆撃に遭ったのかしらん。1975年同じビルの別の場所で再オープン。1986年に完全に昔の姿をとりもどして現在に至↓

「セントラル」は英語風に「C」からの綴り?
この天井の高さは今のカフェにはのぞめない場所↓

魅惑的なケーキもたくさんあるが↓

いちごのパンケーキにて↓

**
近くにあるミノリーテン教会に、ミラノの「最後の晩餐」の19世紀の完全コピータイル画があるので行ってみたのだが…コンサートの準備か何かで仲へ入れてもらえず↓


地下鉄にちょっと乗ってみよう↓24時間チケットを買ったけ元がとれるかしらん

この切符を自分で箱に差し込んで日時を打刻する↓





***

アルベルティーナ美術館はオペラ座のすぐ横。デューラーの素描「ウサギ」を所蔵していることで有名↓

今日はしかし、名前の由来になったアルベルト公(マリア・テレジアのお気に入りだった四女(?)マリア・クリスティーナの夫)のストーリーをちょっと見てみたい。若い頃の彼の肖像がこれ↓
ザクセン大公国の六男として生まれ、26歳の時に四歳年下のマリア・クリスティーナと出会った。

ドレスデンで軍人として訓練をうけ、1764年にMaxenで起こったプロイセンとの戦いで陸軍大佐として軍功をあげた。
ちょうどマリア・クリスティーナは知り合って翌年。想い人の活躍に彼女は心ときめかせたかしらん。
翌年、母のマリア・テレジアは娘たちの中で唯一の恋愛結婚を認め、二人は当時プレスブルグと呼ばれた現在のブラティスラヴァの城に住んだ。

顎が長いのはハプスブルグの血がはいっているのかしらん?ザクセンの家系にもそういう傾向があるのか?
いくつも肖像を見たが、たいていは実際よりも良い見かけで描いている筈。なかなか彼の実像らしさが感じられない。そんななかでいちばん「あ、ホンモノらしいのでは?」と思って見たのが↓この胸像。顎の感じ、容赦ないです↓

こちらはオーストリア軍の司令官になってからのアルベルト↓

彼は結婚後に妻の口添えでオーストリア軍のトップになったが、その後軍人としての軍功には恵まれず1795年に引退。
プライベート・ライフを楽しんでいたが、四年後の1798年に妻のマリア・クリスティーナは没した。

アルベルト公は当時最高の彫刻家だったヴェネチアのアントニオ・カノーヴァに墓碑を依頼。
二年後の1800年にやっと製作がはじまり、1805年になって完成した↓それが、これ↓

アルベルティーナ美術館の解説に「キリスト教的なシンボルを廃してフリーメイソンのシンボルが織り込まれている」とある。言われてみると確かに十字架などが描かれていない。
カノーヴァはよほどこのデザインが気に入ったのだろう、自分自身の墓碑にも同じスタイルを採用している↓ヴェネチアにあるカノーヴァの墓がこれ↓

基本デザインは、同じです(^.^)

アルベルティーナ公は1822年に没した。フランス革命の動乱からナポレオンの侵攻・失脚、ウィーン会議、ナポレオンの復活、流刑地での死までをみとどけたことになる。

**
●デューラーの「ウサギ」↓はもちろんもう一度見ていこう

デューラーの描写力は、本物のウサギ以上にウサギらしいウサギを出現させている↑
これだけを見にアルベルティーナへ来る価値がある・・・でも・・・アルベルティーナで常設展示してあるのはデジタルコピーなのですが。
ホンモノの素描はすぐに劣化するのでごくまれにしか公開されないのです。
「なぁんだコピーなのか」と言うなかれ。実によくできている。

同じくデジタルコピーだが・・・
●ルーベンスが子供たち二人を描いた素描もある↓

小松はこれを見てはじめてルーベンスはほんとうにすごい画家だったのだと納得した。
完成された油絵よりもよっぽど筆力が感じられます。

●31歳のレンブラントが描いた「ゾウ」↓

描かれてはいないゾウの頭の毛のごわごわ感まで伝わってきそう

アルベルティーナのミュージアム・ショップ↓


***夕食の待ち合わせまで少し時間があるのでコンツェルトハウスすぐ近くのホテルで二時間休憩。

再びアルベルティーナ広場まで歩く。
ここは旧市街のど真ん中なのに不自然な広場になっている。
戦前ここにはアパートがあり、それが爆撃で破壊された。意図的に再建せずに、戦禍を記憶しようとしている場所なのだ。
そこに、なんの説明書きもないこんな不思議な像がある↓

★1938年、ドイツに併合されたオーストリアではさらにユダヤ人迫害がはげしくなり、11月9日にはドイツと同じく「水晶の夜」事件が起きる。
ユダヤ人の商店などが襲撃され、割られたガラスが水晶のように散乱したことからこの名前で呼ばれるようになった。
はいつくばった老人の姿は、事件後に「後始末」として地面を磨かされるユダヤ人たちの姿を象徴していた。
背中に巻かれた有刺鉄線は後の強制収容所のものである。

****
四人でカフェ・シュヴァルツェンベルグで軽く夕食↓

ここも雰囲気のあるクラシックなカフェ↓

注文したグヤーシュはパプリカの味が効いていておいしかった。

ホテルへもどる道、コンツェルトハウスが見えた↓「今夜はすばらしいパーカッショニストのコンサートなんですよ」と、ガイドさんがお話になっていたっけ。


明日は、雨の予報です↓


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ウィーン美術史美術館

2018-01-18 14:47:41 | オーストリア
朝、シェーンブルン宮殿を見学。ずいぶん久しぶりに訪れた↓



地上階の床も木製なのが良い↓オリジナル?分かりません

お庭もちらり ここには動物園もあり、パンダが人気者

今日ご一緒した方々は全員シェーンブルン宮殿は以前に来たことがあった。なので「美術史美術館」のほうに時間をもっとかけようということになった↓

ルーベンスの展覧会をやっている↓この建物は19世紀に最初から美術館として建設された。入ったところのこの豪華な空間はヨーロッパのどの美術館にもないものだと思う↓階段を登ったところに見えるカノーヴァ作の「ケンタウロスを倒すテセウス」は、この場所にぴったりの演出↓

天井画はミヒャエル・ムンカーチ(ハンガリー人なのでハンガリー語ので「ムンカーチ・ミハーイ」というほうが良いか)の作↓

↑ルネサンスへのオマージュをあらわす。左下に立つ二人はレオナルド・ダ・ヴィンチとラファエロ↑

この場所の壁にはクリムトが手掛けた印象的な人物が並んでいる↓その前に足場が組まれているのは工事中?↓

実は2018年2月は彼の没後百年にあたるので、それに合わせた展覧会が企画されているのだそうだ。その展示の一環で、いつもは遠くから見上げるしかないこれらの人物像を間近に見てもらえるようにというアイデアなのである。ううむ、見てみたい・・・来月か、残念



●ブリューゲルの代表作がならぶ部屋↓「バベルの塔」は何作か描かれているが、これはかなりサイズが大きなほう↓

実に実に細かく描きこまれていて、その中にブリューゲルの悪趣味というか、モーツァルト的な?「お下劣趣味」も垣間見える↓どの部分か?川のほとりをよっくごらんください↓


有名な「村の結婚式」↓

の右端に描かれた酔っ払いが実にリアル↓自画像と言われている↓


個人的にいちばん好きなブリューゲルの絵をあげろと言われたら、小松はこの「冬の狩人たち」を選ぶ↓
個人的に、二十数年前にオーストリアからイタリアへ向かう列車の窓から見たアルプスの雪景色がここで見たこの絵そっくりだったから↓

↑絵の子細な解説はここではしないが、細部に煙突から火が出ている家をあわてて消火する人々をおしえていただいた↓

↑あわてて屋根に上ったけれど、もってきた梯子がとどかなくてあたふたしている。近所の人が長い梯子をもって駆けつける。
そんな雰囲気まで細かく細かく描いているのか。
ブリューゲルの絵には謎解きがいっぱい。今では誰も何を表しているのか不明になってしまった表現もあるが、火事に向き合う人々の表情は時代に左右されない。

●ヴェラスケスの描いた「マルゲリータ」の肖像画↓
それぞれ、三歳、五歳、八歳、とされる↓まるで「七五三」に合わせて、オーストリアに輿入れする予定の姫の成長ぶりを知らせているのだ↓

予定通り十五歳で輿入れした彼女は六度の出産をしたが二十一歳で没した。子供たちのうち生き延びて結婚したのは娘一人だけ。その子供(孫)も早世すると、スペイン王位を継ぐべき直径ハプスブルグの血は途絶えて、フランスのルイ14世との間にスペイン継承戦争がひきおこされることになる…。
ヴェラスケスはそんなことになるとはもちろん全く知らず、三枚目・八歳のマルゲリータを描いた翌年1660年に没した。

ヴェラスケスが亡くなった後、宮廷画家の称号を得たのはヴェラスケスの娘と結婚した弟子のマソ。彼が描いたこんな絵を紹介していただいた↓

ひと目で、師匠の代表作「ラス・メニーナス」へのオマージュが感じられる。よく見ると、カンバスに向かっている義父の背中が描かれているではないか↑ カンバスの左側にかたまっている四人がヴェラスケス師匠の娘との間に生まれた四人の子供たち。
右側には再婚した妻とその間に生まれた子供たち。なるほど。

調べてみると、マルゲリータが15歳になるまでの肖像画をマソが描いているのが分かった↓下は15歳のマルゲリータ。プラド美術館に展示されているようだ↓つまり、遠くオーストリアへ嫁入ってしまう最愛の娘(フェリペ四世にとっては最初の子供でとっても可愛がっていたのだそうだ)の最後の姿を手元に留めるための肖像画だったにちがいない↓

今度、プラド美術館へ行ったらぜひ探してみよう(^.^)

●カナレットの作品は今回の旅で何度も見ることになった↓これはウィーンの「歴史的景観」の基準になった絵なのだそうだ↓

カナレットの画歴のはじめは、ヴェネチアの風景を描いて訪れる人々に売って生計をたてていた。その絵はけして誇張はしないが、かといってホンモノをそのままに描いているのでもないように見える。つまり、見る人が「こうだったにちがいない、たしかに美しい」と思い出を・記憶を美しくしてくれる絵だったのではないだろうか。

●パルメジャニーノ二十歳ごろの自画像↓

小さな作品だが、こんな絵は他に見たことがない。二十歳の若者が自分の技量を誇示するために描いた小憎らしいぐらい秀逸な自画像である。パルミジャニーノは美しいモデルも描いたが、本人もとても美男だったとされている。その美しい自分の顔と共に、美しい絵を描くことが出来る右腕を大きく描いた。これはローマ法王クレメンス七世に献上した品だとされている。
1527年にカール五世がローマを略奪したが、その時にクレメンス七世のもとからカール五世(ハプスブルグ家)へ移ったものだろうか?

***絵画、いくらとりあげていっても、きりがありません・・・
ガイドさんにお願いして、彫刻や造形でひとつ、「ぜひこれを見て」というものを紹介していただいた↓それが、
●チェッリーにの「サリエラ」↓これは何?


作者のチェッリーニはフィレンツェの人。ベッキオ橋の真ん中に今でも胸像が置かれていると言えばぴんっとくる人もおおいだろうか。
フィレンツェのシニョーリア広場のロッジャに置かれている「メドゥーサの首を持つペルセウス像」は実に超絶技巧のブロンズ彫刻である。
ここに置かれた金色の品は食卓の「サリエラ(塩入れ)」ということになっているが、いったい何でできているのだろう?
後から調べていただいて、また、美術史美術館の解説本から「一枚の金の板から形なしで打ち出された」ものであると知った。
台座は黒檀の木。そこに七宝でいろとりどりの装飾を加えている。

一枚の金の板を打ち出したということは、製法としてはむかしのヤカンと同じである。エジプトのツタンカーメンの黄金のマスクも、同様の方法でつくられたのだときいたことがある。ヤカンとちがうのはもちろん材料。そして、型がないから同じものを二つとつくれないということ。
2003年に一度盗難に遭ったそうだが、溶かされなくてほんとうによかった。
2006年に犯人が自首し、森の中に埋められているが見つかったのだそうです。

近くで見ると、おや?ゾウがいた↓

海を表す男性像と陸をあらわす女性像が足を交差している構図。もともとはフランス王フランソワ一世が注文しフランス宮廷が持っていた。
フランソワ一世の孫にあたるシャルル九世が1570年に結婚する際、父親(アンリ二世)の代役を務めたチロル大公に贈られたのだそうだ。チロルはオーストリアとイタリアにまたがる地域である。

「サリエラ」の近くにあったこの木彫、通り過ぎることができなかった↓
●「時のアレゴリー」15世紀前半におそらくMichel Erhartミカエル・エアハルトの製作したものと思われる木彫↓

成年・中年・老年の女性像が三体背中を合わせているが、すべてが一本の木材から彫りだされている。
歳月は人を待たず
かつては大きな時計の飾りになっていた彫刻かもしれない。
15世紀から16世紀前半にかけてのドイツの彫刻作品には、南ドイツのリーメンシュナイダーの作品からはじまって印象的なものが多い。
これもまたその一つとなりました。

ウィーン美術史美術館は主要なものだけでも全部見ることは旅行者には不可能。
ルーブルや大英博物館などと同じく、いわば辞書の様な場所。
辞書を全部読もうとする意味はありますまい。
興味のある部分を選んで、じっくり考えるのがふさわしい。






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