ウィーンはパリに負けないカフェめぐりが楽しい街だ。美術史美術館を出て、カフェ・セントラルでひと休み↓
最初は1876年に開店した店。日本なら西南戦争の前の年。第二次大戦末期に一度は閉店。爆撃に遭ったのかしらん。1975年同じビルの別の場所で再オープン。1986年に完全に昔の姿をとりもどして現在に至↓
「セントラル」は英語風に「C」からの綴り?
この天井の高さは今のカフェにはのぞめない場所↓
魅惑的なケーキもたくさんあるが↓
いちごのパンケーキにて↓
**
近くにあるミノリーテン教会に、ミラノの「最後の晩餐」の19世紀の完全コピータイル画があるので行ってみたのだが…コンサートの準備か何かで仲へ入れてもらえず↓
地下鉄にちょっと乗ってみよう↓24時間チケットを買ったけ元がとれるかしらん
この切符を自分で箱に差し込んで日時を打刻する↓
***
アルベルティーナ美術館はオペラ座のすぐ横。デューラーの素描「ウサギ」を所蔵していることで有名↓
今日はしかし、名前の由来になったアルベルト公(マリア・テレジアのお気に入りだった四女(?)マリア・クリスティーナの夫)のストーリーをちょっと見てみたい。若い頃の彼の肖像がこれ↓
ザクセン大公国の六男として生まれ、26歳の時に四歳年下のマリア・クリスティーナと出会った。
ドレスデンで軍人として訓練をうけ、1764年にMaxenで起こったプロイセンとの戦いで陸軍大佐として軍功をあげた。
ちょうどマリア・クリスティーナは知り合って翌年。想い人の活躍に彼女は心ときめかせたかしらん。
翌年、母のマリア・テレジアは娘たちの中で唯一の恋愛結婚を認め、二人は当時プレスブルグと呼ばれた現在のブラティスラヴァの城に住んだ。
顎が長いのはハプスブルグの血がはいっているのかしらん?ザクセンの家系にもそういう傾向があるのか?
いくつも肖像を見たが、たいていは実際よりも良い見かけで描いている筈。なかなか彼の実像らしさが感じられない。そんななかでいちばん「あ、ホンモノらしいのでは?」と思って見たのが↓この胸像。顎の感じ、容赦ないです↓
こちらはオーストリア軍の司令官になってからのアルベルト↓
彼は結婚後に妻の口添えでオーストリア軍のトップになったが、その後軍人としての軍功には恵まれず1795年に引退。
プライベート・ライフを楽しんでいたが、四年後の1798年に妻のマリア・クリスティーナは没した。
アルベルト公は当時最高の彫刻家だったヴェネチアのアントニオ・カノーヴァに墓碑を依頼。
二年後の1800年にやっと製作がはじまり、1805年になって完成した↓それが、これ↓
アルベルティーナ美術館の解説に「キリスト教的なシンボルを廃してフリーメイソンのシンボルが織り込まれている」とある。言われてみると確かに十字架などが描かれていない。
カノーヴァはよほどこのデザインが気に入ったのだろう、自分自身の墓碑にも同じスタイルを採用している↓ヴェネチアにあるカノーヴァの墓がこれ↓
基本デザインは、同じです(^.^)
アルベルティーナ公は1822年に没した。フランス革命の動乱からナポレオンの侵攻・失脚、ウィーン会議、ナポレオンの復活、流刑地での死までをみとどけたことになる。
**
●デューラーの「ウサギ」↓はもちろんもう一度見ていこう
デューラーの描写力は、本物のウサギ以上にウサギらしいウサギを出現させている↑
これだけを見にアルベルティーナへ来る価値がある・・・でも・・・アルベルティーナで常設展示してあるのはデジタルコピーなのですが。
ホンモノの素描はすぐに劣化するのでごくまれにしか公開されないのです。
「なぁんだコピーなのか」と言うなかれ。実によくできている。
同じくデジタルコピーだが・・・
●ルーベンスが子供たち二人を描いた素描もある↓
小松はこれを見てはじめてルーベンスはほんとうにすごい画家だったのだと納得した。
完成された油絵よりもよっぽど筆力が感じられます。
●31歳のレンブラントが描いた「ゾウ」↓
描かれてはいないゾウの頭の毛のごわごわ感まで伝わってきそう
アルベルティーナのミュージアム・ショップ↓
***夕食の待ち合わせまで少し時間があるのでコンツェルトハウスすぐ近くのホテルで二時間休憩。
再びアルベルティーナ広場まで歩く。
ここは旧市街のど真ん中なのに不自然な広場になっている。
戦前ここにはアパートがあり、それが爆撃で破壊された。意図的に再建せずに、戦禍を記憶しようとしている場所なのだ。
そこに、なんの説明書きもないこんな不思議な像がある↓
★1938年、ドイツに併合されたオーストリアではさらにユダヤ人迫害がはげしくなり、11月9日にはドイツと同じく「水晶の夜」事件が起きる。
ユダヤ人の商店などが襲撃され、割られたガラスが水晶のように散乱したことからこの名前で呼ばれるようになった。
はいつくばった老人の姿は、事件後に「後始末」として地面を磨かされるユダヤ人たちの姿を象徴していた。
背中に巻かれた有刺鉄線は後の強制収容所のものである。
****
四人でカフェ・シュヴァルツェンベルグで軽く夕食↓
ここも雰囲気のあるクラシックなカフェ↓
注文したグヤーシュはパプリカの味が効いていておいしかった。
ホテルへもどる道、コンツェルトハウスが見えた↓「今夜はすばらしいパーカッショニストのコンサートなんですよ」と、ガイドさんがお話になっていたっけ。
明日は、雨の予報です↓
最初は1876年に開店した店。日本なら西南戦争の前の年。第二次大戦末期に一度は閉店。爆撃に遭ったのかしらん。1975年同じビルの別の場所で再オープン。1986年に完全に昔の姿をとりもどして現在に至↓
「セントラル」は英語風に「C」からの綴り?
この天井の高さは今のカフェにはのぞめない場所↓
魅惑的なケーキもたくさんあるが↓
いちごのパンケーキにて↓
**
近くにあるミノリーテン教会に、ミラノの「最後の晩餐」の19世紀の完全コピータイル画があるので行ってみたのだが…コンサートの準備か何かで仲へ入れてもらえず↓
地下鉄にちょっと乗ってみよう↓24時間チケットを買ったけ元がとれるかしらん
この切符を自分で箱に差し込んで日時を打刻する↓
***
アルベルティーナ美術館はオペラ座のすぐ横。デューラーの素描「ウサギ」を所蔵していることで有名↓
今日はしかし、名前の由来になったアルベルト公(マリア・テレジアのお気に入りだった四女(?)マリア・クリスティーナの夫)のストーリーをちょっと見てみたい。若い頃の彼の肖像がこれ↓
ザクセン大公国の六男として生まれ、26歳の時に四歳年下のマリア・クリスティーナと出会った。
ドレスデンで軍人として訓練をうけ、1764年にMaxenで起こったプロイセンとの戦いで陸軍大佐として軍功をあげた。
ちょうどマリア・クリスティーナは知り合って翌年。想い人の活躍に彼女は心ときめかせたかしらん。
翌年、母のマリア・テレジアは娘たちの中で唯一の恋愛結婚を認め、二人は当時プレスブルグと呼ばれた現在のブラティスラヴァの城に住んだ。
顎が長いのはハプスブルグの血がはいっているのかしらん?ザクセンの家系にもそういう傾向があるのか?
いくつも肖像を見たが、たいていは実際よりも良い見かけで描いている筈。なかなか彼の実像らしさが感じられない。そんななかでいちばん「あ、ホンモノらしいのでは?」と思って見たのが↓この胸像。顎の感じ、容赦ないです↓
こちらはオーストリア軍の司令官になってからのアルベルト↓
彼は結婚後に妻の口添えでオーストリア軍のトップになったが、その後軍人としての軍功には恵まれず1795年に引退。
プライベート・ライフを楽しんでいたが、四年後の1798年に妻のマリア・クリスティーナは没した。
アルベルト公は当時最高の彫刻家だったヴェネチアのアントニオ・カノーヴァに墓碑を依頼。
二年後の1800年にやっと製作がはじまり、1805年になって完成した↓それが、これ↓
アルベルティーナ美術館の解説に「キリスト教的なシンボルを廃してフリーメイソンのシンボルが織り込まれている」とある。言われてみると確かに十字架などが描かれていない。
カノーヴァはよほどこのデザインが気に入ったのだろう、自分自身の墓碑にも同じスタイルを採用している↓ヴェネチアにあるカノーヴァの墓がこれ↓
基本デザインは、同じです(^.^)
アルベルティーナ公は1822年に没した。フランス革命の動乱からナポレオンの侵攻・失脚、ウィーン会議、ナポレオンの復活、流刑地での死までをみとどけたことになる。
**
●デューラーの「ウサギ」↓はもちろんもう一度見ていこう
デューラーの描写力は、本物のウサギ以上にウサギらしいウサギを出現させている↑
これだけを見にアルベルティーナへ来る価値がある・・・でも・・・アルベルティーナで常設展示してあるのはデジタルコピーなのですが。
ホンモノの素描はすぐに劣化するのでごくまれにしか公開されないのです。
「なぁんだコピーなのか」と言うなかれ。実によくできている。
同じくデジタルコピーだが・・・
●ルーベンスが子供たち二人を描いた素描もある↓
小松はこれを見てはじめてルーベンスはほんとうにすごい画家だったのだと納得した。
完成された油絵よりもよっぽど筆力が感じられます。
●31歳のレンブラントが描いた「ゾウ」↓
描かれてはいないゾウの頭の毛のごわごわ感まで伝わってきそう
アルベルティーナのミュージアム・ショップ↓
***夕食の待ち合わせまで少し時間があるのでコンツェルトハウスすぐ近くのホテルで二時間休憩。
再びアルベルティーナ広場まで歩く。
ここは旧市街のど真ん中なのに不自然な広場になっている。
戦前ここにはアパートがあり、それが爆撃で破壊された。意図的に再建せずに、戦禍を記憶しようとしている場所なのだ。
そこに、なんの説明書きもないこんな不思議な像がある↓
★1938年、ドイツに併合されたオーストリアではさらにユダヤ人迫害がはげしくなり、11月9日にはドイツと同じく「水晶の夜」事件が起きる。
ユダヤ人の商店などが襲撃され、割られたガラスが水晶のように散乱したことからこの名前で呼ばれるようになった。
はいつくばった老人の姿は、事件後に「後始末」として地面を磨かされるユダヤ人たちの姿を象徴していた。
背中に巻かれた有刺鉄線は後の強制収容所のものである。
****
四人でカフェ・シュヴァルツェンベルグで軽く夕食↓
ここも雰囲気のあるクラシックなカフェ↓
注文したグヤーシュはパプリカの味が効いていておいしかった。
ホテルへもどる道、コンツェルトハウスが見えた↓「今夜はすばらしいパーカッショニストのコンサートなんですよ」と、ガイドさんがお話になっていたっけ。
明日は、雨の予報です↓