旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ゲバラの街、サンタクララ

2015-12-12 19:04:17 | キューバ

さとうきび列車を下りたマナカイスナガから一時間ちょっと走って、サンタクララに到着 キューバの伝統建築を模した建物がならぶリゾートホテルで昼食 庭は動物が飼われていてワニもいた⇒ キューバにきてはじめて知ったのは米が主食になっているということ。どこのバッフェにも米は必須。小豆のはいった「コングリ」をはじめ、種類も豊富 


★サンタクララはキューバ中部・交通の要衝ではあるが、ありふれた中規模都市 1958年12月29日に、最後の戦闘がゲバラによって行われたことによって有名になった。


東から進軍してくる革命派を食い止めるために派遣した援軍が、人数的には劣勢なゲリラに敗北したのを知って、ハバナのバチスタ大統領は三日後の1959年1月1日に亡命。キューバ革命が成就したとされているのだ。


バチスタ政権の援軍を載せた列車が爆破された跡は、今でもそのままに記念博物館になっている⇒「これってホンモノですか?」と誰かが訊ねたほどに、リアルで新しすぎて、かえって実感がわかなくなる。


ゲバラ廟=記念館は町の端、少し高台になった広場にひろびろとつくられていた。 


1967年にボリビアで政府軍に捕まり、銃殺されたゲバラの遺体は、どこに埋葬されたのかずっと不明だった。二十八年後の1995年になって、当時現場に居たボリビア軍司令官が告白し、その二年後の1997年の6/28に現場が掘られ、両手を切り取られたうつぶせの遺体が発見された。 同年7/12骨は小さな木箱に入れられキューバに帰国。カストロはじめ、かつての同志が勢ぞろいして迎えた。⇒式典で使われたちいさな棺は、現在ハバナの「第一邸宅博物館」にある


カストロは式典でこう述べた「ここに来たのはチェに別れを告げるためではありません。彼を迎えるために来たのです。我々を力づけるために、もどってきてくれてありがとう。我々は今もまだ、君があんなにも求めていたものを実現するために戦いつづけています。」


1991年のソ連崩壊後、キューバは砂糖の買い手と石油の供給者の両方を失い、最大の危機を迎えていた時だった。カストロはゲ、バラというもう色褪せる事のないアイコンが戻ってきてくれて、ほんとうにうれしかったにちがいない。


ハバナでの式典のあと、サンタクララへの二百七十キロをパレードして、この廟に納められた。


★注意したいのは、現在見るモニュメントはゲバラの遺骨が納められた時にはまだ存在しなかった、ということ。1982年に設計され1988年に完成したものである。


***あまり知られていないが、この町の共産党本部前には、ちょっと面白いゲバラの立像がある。↴ 



●この像は細部にゲバラの生涯に関連する事柄が忍ばせてある。「わかる人にしか、わからない」という類の、いわばマニアックな遊び。子供は「キューバの将来」を象徴する。


①バイクで旅するゲバラ⇒二十代のはじめに友人とバイク二人乗りで南米縦断の大旅行をしたことが、ゲバラの人生を決定した。この旅で南米の人々が置かれている現実、誇るべき歴史にも触れ、革命の必要性を認識していった。ロバート・レッドフォードは彼自身の旅と重ねて、「モーターサイクル・ダイアリーズ」という映画を製作している。


②登山するゲバラ⇒生来の喘息持ちだったゲバラは、それを克服すべくあらゆるスポーツにうちこんだ。登山もそのひとつで、メキシコのポポカテペドル5,426 mにも何度も登ろうとした。登山というのは軍事訓練にも最適だったから。


③ゲバラの目安箱⇒背中に開けられたこの穴の意味は、ゲバラが内務省トップに就任した際に、誰でも直接ゲバラに投書できるように置かれた箱をあらわしている。


★後ろの建物には「チェ」という彼のサインを拡大したもの。アルゼンチンで気安く仲間に呼びかけるときに使われる方言を、キューバの仲間たちは彼のニックネームにし、ゲバラ自身もそれを自分のサインに使った。国立銀行総裁となったゲバラが発行した紙幣にさえ、このサインが使われている。下は1960年に発行されたキューバ紙幣。表面左下の方に「チェ」のサインが見える。※この紙幣に描かれているのは、19世紀後半にキューバ独立を目指して戦ったカルロス・マヌエル・デ・セスペデス。⇒ハバナのアルマス広場で銅像をみたっけ



そして、現在。3ペソ札にはゲバラ自身が描かれている。 この札は観光客にたいへん人気で、特に人民ペソの方は実質の価値は15円ほどでも、US1ドルと等価の1兌換ペソで売ってくれたりする。それでも、まとまった数はなかなか手に入らない。サンタクララの小さなお土産やにて、まとめて持っていたものを売ってもらったところ⇒


ハバナへ戻ったのは夜六時すぎ。街灯のほぼまったくないキューバのハイウェイは真っ暗。ハバナ市内へ入ってやっと明るくなった⇒


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マナカ・イスナガへのさとうきび列車

2015-12-12 13:33:36 | キューバ

トリニダー郊外、カリブの朝なんと気持ちの良い風の吹く場所なのか。太陽の光が満ちてくる廊下海岸を歩いてみる

海につきだした細長い回廊のような場所に出来たホテル

オールインクルーシブ制(いろんなサービスが全部含まれている)で、滞在客はこの腕バンドをつける「なんだか入院患者みたい」と言われればそうかも(笑)

お土産物屋は比較的モノがあるが、レジはいちいち手書きで売れたモノを書き留めているのだから時間がかかる

ホテルを出て十五分ほどでかつての蒸気機関車の駅へ到着。元の立派な駅がこれだが⇒現在は学校になっていて、我々がこれから乗るさとうきび列車のプラットホームはこんなんです⇒

二十メートルほど離れた場所には蒸気機関車がごろごろいちおう動くように整備されているようす。

我々ののるジーゼル車がやってきた二両ほど自由席。さぁ、出発!とおもったら・・・「もう一グループが遅れてくるので待ってます」とのこと。結局三十分以上も乗ったまま待ちぼうけでした。やってきたアメリカ人客はパルティクラル(民宿)に分宿していたので、集合が遅くなったんだそうな。やれやれ。

列車はもとはいちめんのさとうきび畑だった場所をはしってゆく。のどかな景色である⇒

単線で何と行き違うわけでもないので、こうして三十分も待てたのだ。水のパイプが壊れたとかで、途中停車が二度ほど 乗車時間もおおはばに超過して、一時間ほども走ったあと、ようやくマナカ・イスナガの塔が見えてきた⇒

●マナカ・イスナガとは、イスナガ家が所有したマナカという土地のサトウキビ工場の場所をさしている。この塔もかの一族が建設させたもの↴

上の写真、手前の錆びたボウルはかつてサトウキビ汁を煮沸していた釜。後ろではためく白い布は洗濯ではなく地元の人たちが売りに来ているテーブルクロスなど。こうやって、彼らにとって大きな金額を外国人から得る。このスタイルが公式に許可されるようになってきたのは、ラウル・カストロになって改革がはじまってからのこと。

●伝説がある。 イスナガ家の二人の息子が同じ女性に恋をし、どちらが結婚するかを決めるために、一人は塔を建て、もうひとりは井戸を掘った。塔の高さと井戸の深さを比べると、この塔の方が一メートルだけ高かったので、こちらが勝者になったのだそうな。女性本人の意志は関係ない時代であります。 ※たしかに、すぐ近くには確かに埋められてしまった深い井戸がある。

有料1CUC、登ってみる 

眼下に、イスナガ家の邸宅=今はレストラン、が見える⇒ハバナ初日に訪れたラム酒博物館で見たこのサトウキビ農園の絵を思い出す↴

かつてここにはアメリカ資本のサトウキビ工場がずらりと並び、多くの黒人奴隷が重労働に駆り立てられていたのか。今、見えているのんびりとした光景だけで、その場所を知ったことにはならない。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする