旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ビニャーレス渓谷と葉巻づくりの家

2015-12-13 15:07:13 | キューバ

キューバ島西部、ピニャーレス渓谷はハバナから百キロほど

ピニャール・デル・リオ州に入る。


国道のサービスエリア(というほどの場所でもないのですが)は、この地方らしく、葉巻農家の家をイメージしている


サービスエリアでこんな事をやっている人を発見

ガイドさんによると、これコーヒーを収穫した後の作業をしているのだそうな。
外国人が出入りする場所だから、お土産になるような品々を置いている。
蜂蜜⇒ コーヒー⇒


国道を離れて北上してゆくと、周辺にホンモノの葉巻農家が見えてきた


ピニャーレス渓谷を見晴らす展望台に到着


 




★葉巻農家「Casa dek Vegueroベゲロの家」を訪問

たばこ畑の事を、キューバではVEGASベガスと呼ぶ。
もともとのスペイン語では「平原」ぐらいの意味だが、キューバに来て別の意味が付加された。
そして、そこで働く人々をベゲロと呼ぶようになったので、これは「ベゲロの家」なのである。


タバコの葉っぱをはじめてさわった。厚みがあってべとべとした印象。毒素が含まれているのだそうだ。

最初に天日で乾かした後、さらに屋内でこんなふうに吊るして乾かす

日本では火を炊くそうだが、ここではそれは必要ない。
それでもけっこう湿り気は残っていて、ゆびで広げることが出来る。↓



これを、目の前で巻く実演をしてくれた

実は、中に巻き込む葉と、外側を巻いている葉は別の種類。外側のものは、育てるときにもネットをかけて、傷がつかないように大事にそだてるのだそうだ。そういえば、その畑を見かけた


完成品を「格安で売る」と言ってくれたんですが⇒ 「・・・・」具体的に葉巻をお土産にする人が思い浮かぶのでなければ、近頃の日本人はなかなか買う気にならないかもしれません。


おどろいたのは、その種の小さい事!
↓ゴマ粒より小さいこれがタバコの種なんだぁ~

四週間苗床で育ててから畑に植え替えるそうな。 


***渓谷を見晴らすランチは、ラ・エルミータという高原のリゾートホテルにて


なかなか良い場所でした。


****カルスト地形なので鍾乳洞もたくさんある


 いりぐちで先住民スタイルで鷹匠をやっている 鍾乳洞を百メートルほど歩いていくと、川があらわれ、そこでボートに乗る


鍾乳石にいろんな名前を付けるのはどこのくにもいっしょ。その名前によって、お国柄が現れると言えるだろう。これはつりさげられた豚とワニだそうです⇒ こちらはコロンブスが最初の航海で乗っていた三隻の船「ピンタ」「ニーニャ」「サンタマリア」⇒


十五分ほどで出口が見えてくる⇒長すぎなくてよい。


こんなの売ってました⇒


最後に「先史時代の壁画」を訪れる⇒これは、しかし、そんなに古いものではなく1959年革命成就の年からつくりはじめられたもの⇒こちらにもう少し書きました


***ハバナまで長いドライブになるので、バスで映画「老人と海」を上映してくれた あ、コヒマールの城は1950年代にも同じようにあったんだ(あたりまえですが)アメリカ人観光客が我が物顔に歩いていた時代だったのか。さてさて、来年からアメリカからの直行便が復活するキューバ、かつてのようなアメリカ人が闊歩する状況がまた出現するのやもしれませぬ。


****ハバナへ戻ってそのままレストラン「トコロロ」へ

これはキューバの国鳥の名前であります。


 


 


 


 

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日本人・竹内憲治のつくった蘭園

2015-12-13 10:58:07 | キューバ

ハバナから西へ七十キロほど走ったソロアの街に、日本人がつくった蘭園がいまも大切に受け継がれている。



造られたのは第二次大戦後すぐの時期。 
戦前に神戸で花屋をやっていた竹内憲治という人物の手になる。
彼は1931年に日本を出発、ニューヨークへ留学する途中、
「熱帯の植物を見たい」とキューバへ立ち寄った。
ところが思いがけず大病にかかり、その間に仕送りも途絶えて無一文になって、
結果キューバから動けなくなった。
路頭に迷いかけた彼をキューバの農業試験場のアクーニア氏が
住むところと仕事を与え救ってくれた。
能力を発揮できる仕事を与えられ、彼の庭づくりの成果があらわれてくると、
当時キューバにたくさんいたアメリカ人大富豪から庭園造りを任されるようになった。
破格の待遇で人気の庭師となる。

十年後、第二次大戦が起こる。
三百人ほどの日系人と共に敵国人収容所に連行され、あしかけ四年を過ごす。
終戦後、解放され、ようやく元の生活をとりもどしたと思ったら、
今度はキューバ革命が起こった。

アメリカ人富豪のパトロンはキューバを去り、
社会主義政府は蓄えていた財産を没収する。
それでも彼はキューバを去らず、やがてフィデル・カストロも彼の仕事を認め・信頼を得るまでになった。
1977年に亡くなるまでキューバ激動の時代を生き抜いたのだった。
偶然の滞在は、四十六年に及んだ。
**
彼は物書きではない。
七十歳を過ぎたころ、彼のたどってきた人生を書き記していた原稿が遺されただけである。
この一冊の本「花と革命」がなければ、小松が今日ここへ来ることはなかった。⇒その本についてこちらに書きました

★この蘭園のオーナーは、トマス・フェリペ・カマチョというカナリア諸島出身のスペイン人⇒ポートレートがリビングに掛けられている 1959年キューバ革命以前の人物である。
キューバで砂糖工場を営んでいた父の要請で二十一才の時キューバへ移住。
法律を学び、大統領の顧問にまでなったインテリ。
順調な荘園領主の暮らしをおくっていたのだが、
娘のピラールが出産時に亡くなった。
父は、娘の好きだった蘭が一年咲いている庭をつくりたいと思った。

1943年から9年の歳月をかけてつくられた三ヘクタールの敷地を持つ庭は傾斜地につくられている。
キューバはほおっておけばすぐに植物が生い茂る。
周辺もこのような地形。

⇔この写真に写っている赤い花がこれ

この庭園の中だけは実にきちんと植物が配置されている。

チャイニーズ・ランタン

「タコの足」と通称されるキューバ固有の蘭だとか



傾斜地につくられているが歩きやすい坂道や階段がめぐらされている。
この坂を上っていった、眺めの良い場所にカマチョ氏の邸宅がある。

かつての邸宅では、南国の果実を絞ったいろいろなジュースが売られていた。
そのなかで見た事のなかったのが、これ。

英語名はSOURSOP

日本語でもそのままサワーソップと呼ぶ方がとおりがよさそう。
中はこんなふう

食べてみると、なんだか記憶にある味だった。
後日調べてみると、チリモーヤの仲間と出た。
そうか、今年五月にペルーで食べた、あれだったのか(^^)
こちらの日記の中ほどすぎにチリモーヤ載せております。あちらはアイスクリームのような味で、高く売れるのだそうだが、サワーソップはそれほどでもなさそうな。 

こちらは定番の椰子の実ジュース


****
今日のお昼、世界遺産ピニャーレス渓谷のホテルへ向かいます。

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