旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

水道橋の街セゴビアで遅い昼食を

2015-04-17 17:28:14 | スペイン
《手造の旅》中部スペイン小都市めぐり二日目。
古代の水道橋がこれほど美しく街と調和している例は他にない。セゴビアの旧市街が近づき、この優雅なアーチがみえてくると、いつもわくわくする。

町に到着したのは15時半、水道橋すぐちかくのホテルにチェックインしてから、遅い昼食へ。スペインでは午後一時から四時ぐらいが昼食時間なのです。日本と同じ感覚で三食食べるのは決して快適な旅にならないと思い、こんな時間の食事にした。

予約なしで、水道橋真下の老舗レストランを訪ねる。一階のカウンターに話をすると、二階の席へ案内してくれた。十数人だからこういう食事も可能になる。きまったコースではなく、みんなでいろんな料理を注文。塩辛すぎないハム頭からかりかり食べられるエビの網焼き、ミソの味もしっかりしてます アスパラと鳥肉炒め
いちばん印象に残ったのは★キノコのセゴビア風煮込み

土鍋にぐつぐつアツアツで登場。キノコの風味がオリーブオイルやにんにくに負けていません。ソースまできれいにいただきました。
デザートメニューに「驚きのデザート」とあったので注文してみたら、巨大なスフレにつつまれたブランデー?風味たっぷりのアイスクリームがでてきました オーナーのカンディドさんがお店カードにサインして手渡してくださる。女性限定

食べるのに夢中だったが、いつのまにか外は雨になっていた。しばらく雨宿りしてから、少し街を歩くこの水道橋さえ見えていればセゴビアは特別な風景だ

★ロマネスク教会
セゴビアにはたくさんのロマネスク様式の教会がある。
短い観光時間ではなかなか訪れることができなくて、これまで横目でみて残念に思っていた。
今回はひとつでもふたつでも、じっくり見ることが出来るようにしたい。

夕食の後、外観だけだったが、サン・ミジャーンの美しい後陣を見る
そして、だいぶ以前に手に入れていた現地ガイドブックで読んで気になっていたサン・フスト・イ・パストゥール教会へ。

ホテルのすぐ裏手、旧市街の外に位置する丘にある。簡単な解説にはセゴビアでも最も古い教会のひとつと考えられているそうな。

たしかにこの鐘楼の層になった石積みをみていくだけでも、すくなくとも五回以上は建築・修復が行われているのだが分かる。半ばにはアル・カサールの壁と全く同じデザインの箇所も見える。現在の建物は11世紀ごろからのものらしいが、それ以前、もしかするとイスラム支配以前にもさかのぼる歴史があるのではないか。

入口の解説写真に、アプスを飾るロマネスクのフレスコ画が紹介されていた。
今の時間は閉まっているが、よし、明日はここを訪れて見ることにしよう。きっと、皆さんが予期していないセゴビアの楽しみになるはずだ(^^)

****
疲れて9時ごろには寝てしまったが、時差で真夜中に目が覚めた。
窓から見える水道橋がライトアップしているのが見えて、写真を撮りに出ることにした。セゴビアの水道橋夜景、ここに泊まったからこそ楽しめまする(^^)


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エル・エスコリアル、フランコ将軍の墓

2015-04-17 16:09:38 | スペイン
《手造の旅》スペイン中部小都市めぐり、第二日目。

日本からパリを経由して朝九時半過ぎにマドリッドの空港に到着。すぐに北西方向に走り出す。
空港の近郊にはまたおもしろい建物が増えている

マドリッド郊外でもこのあたりは貴族が広大な邸宅を構えていた(いる)地域。
「バルドの森」には、現在の国王も広大な敷地に邸宅を建てて住んでいる。

「あれは、フランコ将軍の別荘だった建物ですよ」

なんだかヒッチコックの映画に出てきそうな雰囲気。
1975年に亡くなるまで、スペインの実質独裁者だったフランコ将軍はこんなところに住んでいたのか。

しばらくすると、山並みの間に巨大な十字架が見えてくる。この距離から見てあれだけの大きさに見えるのだから、実際どれほど巨大な建造物かのか。

あそこは「ヴァジェス・ロス・カイドス=戦没者の谷」と名付けられ、スペイン市民戦争の犠牲者を敵味方の区別なく弔う場所とされている。フランコ将軍も葬られている。

二十年以上前、スペイン市民戦争のなんたるかも知らない頃に、この十字架を見てびっくり仰天したのが、今回のコースを企画するひとつの動機である。


あの十字架のふもとへは後で行くとして、今日、最初に訪れるのは、歴代スペイン王家の墓所にもなっている、16世紀にフェリペ二世が建設した巨大な修道院エル・エスコリアル。
こちらもまた巨大な建築であります。

バスを降りて歩く町並みは、16世紀以降にいっきに拡大した地区。この建物は18世紀のもの ヴィクトリア女王通りという名前スペイン国王アルフォンソ13世の妃がヴィクトリア女王の孫だった=前国王ファン・カルロスの祖母にあたるヴィクトリア・エウヘニア

この町は避暑地で、二万の人口が夏場には六万に増えるのだそうだ。たしかにこの時期は人の気配のしない別荘風の建物がたくさんある。

山は花崗岩で出来ており、巨大な建物を建てるには便利な立地だった。

巨大な修道院建築が見えてきた。



大航海時代のスペイン・ハプスブルグ家の王フェリペ二世が1563年から建造させ、1598年には、自身が71才で没した場所。
巨大な建物の全体の形は聖ロレンツォが殉教した焼き網の形を模している。ガイドさんが手にしている全体図入口にも同じ形がデザインされている

ネット辞典より写真を拝借
国王になったばかりの頃、若きフェリペ二世がはじめての戦勝をあげたのが「聖ロレンツォの日」であった事を記念しているのだそうな。

中央に教会を挟んで、右が今も修道院、左には学校。子供たちが「ニーハォ~」と声かけてきた 中庭・教会前
ここから先は撮影禁止。
巨大ではあるが、全体としては簡素なつくりで、まさに修道院。
「神の為の宮殿をつくり、そこに私の場所が小さくあればよい」王は建築家にそんな風に注文したのだとか。

強大な帝国を支配し何でも思うままに出来ただろうフェリペ二世だが、晩年は修道僧の様に暮らし、最期の床から教会の主祭壇が見られるように寝室の壁を動かさせたのが最後の贅沢だった。

祭壇を挟んで向かい側の部屋には最期を看取る事になる長女のイサベル・クララが住み、小さな窓越しに父の様子を伺える造りになっている。

宮殿の地下は、フェリペ二世の父カルロス一世以降のスペイン王家の墓所になっている。王と世継ぎを産んだ妃が眠る棺がぐるりと囲む八角形の部屋がある。退位した前国王の父は「王の息子であり、王の父であったが、王ではなかった」という人物だが、例外的に場所が与えられていた。

***
エル・エスコリアルを一時間半ほど見学して、今度はさっき見えていた巨大な十字架へ。
ほんの十五分ほどの距離だが、たくさん居た観光バスもここには全く寄らない。

第二次大戦の前から1975年の死去にいたるまでスペインの独裁者だったフランコ将軍・総統にたいしては、国民は複雑な思いがあるだろう。

また、敷地入口で高い入場料を取られるのも足を遠ざける原因か門を入ってしばらく走ると、巨大な十字架がより近づいて見えてくる。

ふもとの駐車場から見上げる。高さは150mに達する。ケーブルカーの線路があって、さらに十字架の腕木の部分までエレベーターが通っているそうだが、今日は動いていない

正面は何千人も入れる広場になっている。そこから見上げる十字架の巨大さといったら…小さく映っている人物と比較してみてください。

正面入り口から十字架の真下まで、岩山をくりぬいた身廊になっている。高さは10メートル、奥行きは120m以上。奥へ至る左右にはキリストの生涯を描いたタピスリーの他に、さしたる装飾はみあたらない。

この岩山は市民戦争に負けた共和派の捕虜たちが強制労働によって掘らされたものなのだそうだ。そんな場所を「敵味方の区別なく犠牲者を弔う」とは言えないだろう。

いちばん奥、巨大なモザイク画のあるドームの下に、フランコ総統自身の墓がぽつんとあった 彼自身は、ほんとうにこんな場所に葬られたかったのだろうか? 直前に見たフェリペ二世のエル・エスコリアルとはあまりに違う雰囲気だ。あそこは簡素ではあるが、本人の愛情・執着があって建設されたなのだと感じられたが、ここはそうではない。

二十世紀にたくさん存在した社会主義国家や全体主義国家、現代でも生き延びている国もあるが、それらの国で見かける巨大モニュメントが持っているのと同じ雰囲気を感じさせる。

戦勝者として、独裁者として、なんらかの記念碑を必要としていたのかもしれないが、フランコ総統がひとりの人間としてこんな場所を選んだようには思えなかった。

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