《手造の旅》スペイン中部小都市めぐり、第二日目。
日本からパリを経由して朝九時半過ぎにマドリッドの空港に到着。すぐに北西方向に走り出す。
空港の近郊にはまたおもしろい建物が増えている
マドリッド郊外でもこのあたりは貴族が広大な邸宅を構えていた(いる)地域。
「バルドの森」には、現在の国王も広大な敷地に邸宅を建てて住んでいる。
「あれは、フランコ将軍の別荘だった建物ですよ」

なんだかヒッチコックの映画に出てきそうな雰囲気。
1975年に亡くなるまで、スペインの実質独裁者だったフランコ将軍はこんなところに住んでいたのか。
しばらくすると、山並みの間に巨大な十字架が見えてくる。この距離から見てあれだけの大きさに見えるのだから、実際どれほど巨大な建造物かのか。

あそこは「ヴァジェス・ロス・カイドス=戦没者の谷」と名付けられ、スペイン市民戦争の犠牲者を敵味方の区別なく弔う場所とされている。フランコ将軍も葬られている。
二十年以上前、スペイン市民戦争のなんたるかも知らない頃に、この十字架を見てびっくり仰天したのが、今回のコースを企画するひとつの動機である。
あの十字架のふもとへは後で行くとして、今日、最初に訪れるのは、歴代スペイン王家の墓所にもなっている、16世紀にフェリペ二世が建設した巨大な修道院エル・エスコリアル。
こちらもまた巨大な建築であります。
バスを降りて歩く町並みは、16世紀以降にいっきに拡大した地区。この建物は18世紀のもの
ヴィクトリア女王通りという名前
スペイン国王アルフォンソ13世の妃がヴィクトリア女王の孫だった=前国王ファン・カルロスの祖母にあたるヴィクトリア・エウヘニア
この町は避暑地で、二万の人口が夏場には六万に増えるのだそうだ。たしかにこの時期は人の気配のしない別荘風の建物がたくさんある。
山は花崗岩で出来ており、巨大な建物を建てるには便利な立地だった。
巨大な修道院建築が見えてきた。


大航海時代のスペイン・ハプスブルグ家の王フェリペ二世が1563年から建造させ、1598年には、自身が71才で没した場所。
巨大な建物の全体の形は聖ロレンツォが殉教した焼き網の形を模している。ガイドさんが手にしている全体図
入口にも同じ形がデザインされている
ネット辞典より写真を拝借
国王になったばかりの頃、若きフェリペ二世がはじめての戦勝をあげたのが「聖ロレンツォの日」であった事を記念しているのだそうな。
中央に教会を挟んで、右が今も修道院、左には学校。子供たちが「ニーハォ~」と声かけてきた
中庭・教会前
ここから先は撮影禁止。
巨大ではあるが、全体としては簡素なつくりで、まさに修道院。
「神の為の宮殿をつくり、そこに私の場所が小さくあればよい」王は建築家にそんな風に注文したのだとか。
強大な帝国を支配し何でも思うままに出来ただろうフェリペ二世だが、晩年は修道僧の様に暮らし、最期の床から教会の主祭壇が見られるように寝室の壁を動かさせたのが最後の贅沢だった。
祭壇を挟んで向かい側の部屋には最期を看取る事になる長女のイサベル・クララが住み、小さな窓越しに父の様子を伺える造りになっている。
宮殿の地下は、フェリペ二世の父カルロス一世以降のスペイン王家の墓所になっている。王と世継ぎを産んだ妃が眠る棺がぐるりと囲む八角形の部屋がある。退位した前国王の父は「王の息子であり、王の父であったが、王ではなかった」という人物だが、例外的に場所が与えられていた。
***
エル・エスコリアルを一時間半ほど見学して、今度はさっき見えていた巨大な十字架へ。
ほんの十五分ほどの距離だが、たくさん居た観光バスもここには全く寄らない。
第二次大戦の前から1975年の死去にいたるまでスペインの独裁者だったフランコ将軍・総統にたいしては、国民は複雑な思いがあるだろう。
また、敷地入口で高い入場料を取られるのも足を遠ざける原因か
門を入ってしばらく走ると、巨大な十字架がより近づいて見えてくる。

ふもとの駐車場から見上げる。高さは150mに達する。ケーブルカーの線路があって、さらに十字架の腕木の部分までエレベーターが通っているそうだが、今日は動いていない
正面は何千人も入れる広場になっている。そこから見上げる十字架の巨大さといったら…小さく映っている人物と比較してみてください。

正面入り口から十字架の真下まで、岩山をくりぬいた身廊になっている。高さは10メートル、奥行きは120m以上。奥へ至る左右にはキリストの生涯を描いたタピスリーの他に、さしたる装飾はみあたらない。
この岩山は市民戦争に負けた共和派の捕虜たちが強制労働によって掘らされたものなのだそうだ。そんな場所を「敵味方の区別なく犠牲者を弔う」とは言えないだろう。
いちばん奥、巨大なモザイク画のあるドームの下に、フランコ総統自身の墓がぽつんとあった
彼自身は、ほんとうにこんな場所に葬られたかったのだろうか? 直前に見たフェリペ二世のエル・エスコリアルとはあまりに違う雰囲気だ。あそこは簡素ではあるが、本人の愛情・執着があって建設されたなのだと感じられたが、ここはそうではない。
二十世紀にたくさん存在した社会主義国家や全体主義国家、現代でも生き延びている国もあるが、それらの国で見かける巨大モニュメントが持っているのと同じ雰囲気を感じさせる。
戦勝者として、独裁者として、なんらかの記念碑を必要としていたのかもしれないが、フランコ総統がひとりの人間としてこんな場所を選んだようには思えなかった。
日本からパリを経由して朝九時半過ぎにマドリッドの空港に到着。すぐに北西方向に走り出す。
空港の近郊にはまたおもしろい建物が増えている

マドリッド郊外でもこのあたりは貴族が広大な邸宅を構えていた(いる)地域。
「バルドの森」には、現在の国王も広大な敷地に邸宅を建てて住んでいる。
「あれは、フランコ将軍の別荘だった建物ですよ」

なんだかヒッチコックの映画に出てきそうな雰囲気。
1975年に亡くなるまで、スペインの実質独裁者だったフランコ将軍はこんなところに住んでいたのか。
しばらくすると、山並みの間に巨大な十字架が見えてくる。この距離から見てあれだけの大きさに見えるのだから、実際どれほど巨大な建造物かのか。

あそこは「ヴァジェス・ロス・カイドス=戦没者の谷」と名付けられ、スペイン市民戦争の犠牲者を敵味方の区別なく弔う場所とされている。フランコ将軍も葬られている。
二十年以上前、スペイン市民戦争のなんたるかも知らない頃に、この十字架を見てびっくり仰天したのが、今回のコースを企画するひとつの動機である。
あの十字架のふもとへは後で行くとして、今日、最初に訪れるのは、歴代スペイン王家の墓所にもなっている、16世紀にフェリペ二世が建設した巨大な修道院エル・エスコリアル。
こちらもまた巨大な建築であります。
バスを降りて歩く町並みは、16世紀以降にいっきに拡大した地区。この建物は18世紀のもの



この町は避暑地で、二万の人口が夏場には六万に増えるのだそうだ。たしかにこの時期は人の気配のしない別荘風の建物がたくさんある。
山は花崗岩で出来ており、巨大な建物を建てるには便利な立地だった。
巨大な修道院建築が見えてきた。


大航海時代のスペイン・ハプスブルグ家の王フェリペ二世が1563年から建造させ、1598年には、自身が71才で没した場所。
巨大な建物の全体の形は聖ロレンツォが殉教した焼き網の形を模している。ガイドさんが手にしている全体図


ネット辞典より写真を拝借

国王になったばかりの頃、若きフェリペ二世がはじめての戦勝をあげたのが「聖ロレンツォの日」であった事を記念しているのだそうな。
中央に教会を挟んで、右が今も修道院、左には学校。子供たちが「ニーハォ~」と声かけてきた


ここから先は撮影禁止。
巨大ではあるが、全体としては簡素なつくりで、まさに修道院。
「神の為の宮殿をつくり、そこに私の場所が小さくあればよい」王は建築家にそんな風に注文したのだとか。
強大な帝国を支配し何でも思うままに出来ただろうフェリペ二世だが、晩年は修道僧の様に暮らし、最期の床から教会の主祭壇が見られるように寝室の壁を動かさせたのが最後の贅沢だった。
祭壇を挟んで向かい側の部屋には最期を看取る事になる長女のイサベル・クララが住み、小さな窓越しに父の様子を伺える造りになっている。
宮殿の地下は、フェリペ二世の父カルロス一世以降のスペイン王家の墓所になっている。王と世継ぎを産んだ妃が眠る棺がぐるりと囲む八角形の部屋がある。退位した前国王の父は「王の息子であり、王の父であったが、王ではなかった」という人物だが、例外的に場所が与えられていた。
***
エル・エスコリアルを一時間半ほど見学して、今度はさっき見えていた巨大な十字架へ。
ほんの十五分ほどの距離だが、たくさん居た観光バスもここには全く寄らない。
第二次大戦の前から1975年の死去にいたるまでスペインの独裁者だったフランコ将軍・総統にたいしては、国民は複雑な思いがあるだろう。
また、敷地入口で高い入場料を取られるのも足を遠ざける原因か


ふもとの駐車場から見上げる。高さは150mに達する。ケーブルカーの線路があって、さらに十字架の腕木の部分までエレベーターが通っているそうだが、今日は動いていない

正面は何千人も入れる広場になっている。そこから見上げる十字架の巨大さといったら…小さく映っている人物と比較してみてください。

正面入り口から十字架の真下まで、岩山をくりぬいた身廊になっている。高さは10メートル、奥行きは120m以上。奥へ至る左右にはキリストの生涯を描いたタピスリーの他に、さしたる装飾はみあたらない。
この岩山は市民戦争に負けた共和派の捕虜たちが強制労働によって掘らされたものなのだそうだ。そんな場所を「敵味方の区別なく犠牲者を弔う」とは言えないだろう。
いちばん奥、巨大なモザイク画のあるドームの下に、フランコ総統自身の墓がぽつんとあった

二十世紀にたくさん存在した社会主義国家や全体主義国家、現代でも生き延びている国もあるが、それらの国で見かける巨大モニュメントが持っているのと同じ雰囲気を感じさせる。
戦勝者として、独裁者として、なんらかの記念碑を必要としていたのかもしれないが、フランコ総統がひとりの人間としてこんな場所を選んだようには思えなかった。