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近代革命の社会力学(連載第309回)

2021-10-11 | 〆近代革命の社会力学

四十四 エチオピア社会主義革命

(5)廃皇帝「処刑」から権力闘争へ
 1974年10月の「血の土曜日」の後、臨時軍政評議会デルグは旧体制側の当面の政敵を排除して権力を確立するが、政体は不明確なままであったところ、デルグは明けて75年3月、正式な帝政廃止と共和制移行を宣言する。
 同時にマルクス‐レーニン主義国家となることも宣言されたが、これはデルグの実質的な指導者であるメンギストゥ副議長のイデオロギー路線に沿ったものであることは明らかであった。
 しかし、この時点で、拘束されたハイレ・セラシエ廃皇帝は廃位に同意しないまま存命中であったところ、1975年8月になって突如、皇帝の死去がデルグ当局から発表された。死因は前立腺手術の合併症による呼吸不全とされた。
 しかし、遠く1990年代にメンギストゥ独裁政権が崩壊した後の捜査により、廃皇帝はデルグが送り込んだ要員の手で絞殺されていたことが判明する。それがデルグ上層部の指令に基づくものであったことも明らかにされており、一種の超法規的処刑、実態としては限りなく暗殺に近いものであった。
 こうして、エチオピア革命は、廃位された君主が「処刑」されるという古典的な共和革命のプロセスを久方ぶりに辿ることとなると同時に、そのようなプロセスを辿った革命としては20世紀最後にして、現時点においても最後のものとなっている。
 もっとも、デルグが正式に廃皇帝を裁判にかけることなく、ロシア10月革命時のボリシェヴィキのように、暗殺に近い措置を取った理由は不明であるが、裁判にかけることでかえって強力な王党派が形成される反作用を恐れたということも考えられる。
 一方、廃皇帝側にとっては、あらゆる政党活動を禁止していた自身の政策があだとなり、王党派の保守的な政党も存在しなかったため、皇帝を強力に擁護する勢力も現れることなく、孤立無援状態であったことが、その最期を悲惨なものとした。
 実際、80歳を越えながらかなり壮健だった廃皇帝の「病死」発表は当初から強く疑われていたが、ロシア革命後のように王党派が結集して反革命蜂起するという動きも出なかったことが、エチオピア革命の特徴となっている。
 その代わりに、デルグ内部の不協和音と権力闘争が表面化する。デルグのテフェリ議長は当初、名目的なトップ職に過ぎないと思われていたが、皇帝「処刑」後、メンギストゥの非公式な権力を抑制することを企て、1976年末には、彼の支持者を地方に左遷するなど、デルグの構造再編に乗り出したのである。
 他方で、ここまでの革命過程では完全に蚊帳の外にあった在野のエチオピア人民革命党(EPRP)が軍政を続けるデルグに対して公然と批判的な活動を開始するようになり、76年9月にはEPRPメンバーによるメンギストゥ暗殺未遂事件が発生した。
 この一件は、メンギストゥにとって逆手利用する価値の高いものであった。彼はテフェリらデルグの反メンギストゥ派がEPRPと結託しているという構図を作り出し、彼らの排除に乗り出したのである。その結果、77年2月のデルグ会議にメンギストゥ派部隊が乱入、銃撃戦の末、テフェリ議長ら反メンギストゥ派メンバーを殺害した。
 計58人の死者を出したこの粛清事件は、「血の土曜日」に続く大規模な流血事態であったが、これを機にメンギストゥはデルグ議長兼国家元首としての権力を名実ともに手にし、同年10月には同輩のアトナフ・アバテ副議長をも処刑し、独裁への道を歩み始める。

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