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近代革命の社会力学(連載第310回)

2021-10-12 | 〆近代革命の社会力学

四十四 エチオピア社会主義革命

(6)「赤色内戦」から独裁権力の確立まで
 エチオピア革命の大きな特徴は、共和革命と社会主義革命が同時的に惹起し、かつマルクス‐レーニン主義国家の宣言まで、すべて軍の急進派将校グループが―中東における自由将校団のように―十分に組織化されないままに主導し、―ロシア革命当時のボリシェヴィキのような―民間の政党組織は関与しなかったことである。
 しかし、以前の項で見たとおり、当時、エチオピアには全エチオピア社会主義者運動(MEISON)とエチオピア人民革命党(EPRP)という二系統のマルクス主義政党が創設されていた。このうち、MEISONはデルグを基本的に支持していたが、EPRPはデルグの軍政に否定的で、より純粋な人民民主主義を求めていた。
 そうしたデルグとの関係性をめぐる対立から、MEISONとEPRPは相互に武力衝突するようになり、EPRPはメンギストゥ支持者の暗殺に及び、ついにはEPRPが1976年9月にメンギストゥ暗殺未遂事件を引き起こしたことで、一種の内戦に発展する。
 この内戦は、ロシア革命後におけるような共産党勢力(赤軍)と王党派勢力(白軍)との間での典型的な紅白革命戦争ではなく、共にマルクス主義を奉じる軍政勢力と事実上の共産党であるEPRPとの間での「赤色内戦」と呼ぶべき奇妙な内戦であった。
 ただ、これは戦争というよりは、メンギストゥらデルグによるテロ手法によるEPRP殲滅作戦であり、エチオピア現代史上は「赤色テロ」と呼ばれているが、王党派または反革命保守派に対するテロ作戦ではなく、同じマルクス主義勢力の同士討ちに近い事象であり、かつEPRP側も武装行動に出ていたことから、ここでは「赤色内戦」と呼ぶことにする。
 このような「赤色内戦」が本格化するのは、前回見た1977年2月におけるデルグ内部での反メンギストゥ派に対する粛清の後、同年3月からである。おそらく、メンギストゥとしては、デルグ内部の反対派を葬った勢いで、今度は外部の反対勢力であるEPRPを殲滅しようとする計画であった。
 赤色内戦の初期段階では親デルグのMEISONがデルグに全面協力し、政府にポストを得てもいたが、最大の末端協力組織は、デルグが各地に設置したケベレと呼ばれる一種の自治的な隣保組織である。ケベレには武器が配布され、EPRP関係者に対する戸別捜索と摘発の権限が与えられた。
 このように一種の民兵組織を臨時動員したことで、内戦は無法と残酷さに満ちたものとなり、恣意的な摘発や殺戮が絶えなかった。もっとも、ケベレは必ずしも常にデルグに忠実ではなかったとされるが、この制度は後々まで独裁体制の末端組織として機能することになる。
 内戦はデルグ優位に進み、1977年8月までにEPRP主力は都市部から退避して山岳地帯へ逃走することになり、最終的に78年には終結する。その間の推定犠牲者数は最少3万人から最大75万人までと不確定であるが、万単位での犠牲者を出したことに変わりない。EPRPの限定的な規模から見て、犠牲者の多くはEPRPと無関係であり、その中には子供も含まれていた。
 赤色内戦に実質的に勝利したメンギストゥであったが、猜疑心の強い彼は今度は協力政党であったMEISONの裏切りを疑うようになり、MEISON系の政府高官を罷免するとともに、幹部の逮捕・処刑、さらにはMEISONメンバーへの弾圧作戦を展開し、MEISONも切り捨てた。
 こうして流血の「赤色内戦」は完了し、デルグ内外の潜在的な脅威を除去したメンギストゥは独裁体制を固めていくことになるが、体制崩壊した後、新政権はジェノサイドを認定、亡命中のメンギストゥを訴追し、欠席裁判で死刑判決を下すとともに、「赤色テロ犠牲者記銘博物館」を首都アディスアベバに建立した。

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