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近代革命の社会力学(連載第307回)

2021-10-07 | 〆近代革命の社会力学

四十四 エチオピア社会主義革命

(3)民衆騒乱から軍事革命の始動まで
 盤石に見えたエチオピア帝政が急激に崩壊に向かったのは、1970年代前半の社会情勢の悪化に要因があった。それには、自然災害と海外情勢、国内情勢とが複雑に絡み合っていた。
 自然災害という点では、エチオピアが歴史上たびたび直面してきた干ばつによる飢饉の発生である。自然災害の性質上、その正確な発生時点は特定しにくいが、1970年頃には発生し、72年から73年にかけて飢饉に進展したと見られる。
 この飢饉は北部諸州に限局されたものであったが、帝政政府の無策と地主階層による農産物の蔵匿という人災要素の複合により、最終的に最大20万人が餓死したと推計される。しかし、政府の情報隠蔽のため、正確な犠牲者数は不明である。
 それに加えて、1967年の第三次中東戦争以来、スエズ運河が長期間封鎖されたことによる原油価格の高騰、73年の第四次中東戦争に起因するオイルショックは、戦争当事国ではないエチオピアの経済にも打撃を加え、深刻なインフレーションを惹起した。
 さらに、1960年代から、紅海沿岸部の当時エチオピア領であったエリトリア(州)の分離独立勢力が武装蜂起し、エチオピア軍との内戦に発展、70年代には独立勢力同士の内々戦も激化していた。
 このような複合的な社会経済危機は革命前年度の1973年に頂点に達し、各地で労働者のストライキや学生の抗議デモが頻発する。特にハイレ・セラシエ皇帝自身の近代化政策の象徴でもあるメディアの発達により、皇帝が豪華な宮殿で飼育する猛獣に肉を与えている写真が暴露されたことが食糧難に苦しむ国民の怒りに火をつけたことは、皮肉であった。
 ただ、民衆騒乱は、それを束ねる政治組織が帝政の政治活動抑圧策のゆえに未発達であったため、民衆革命に進むことがなかった。そのため、政治的に先鋭化していた軍部の動向が鍵を握ることとなる。
 当時、軍内でも糧食の不足に対して不満が高まっており、陸軍や空軍の一部の部隊が1974年2月以降、散発的に反乱を起こした。そうした不穏な情勢を見て、ようやく皇帝は同年3月、貴族出自のエンデルカチュ・マコンネンを首相に任命し、改革に当たらせた。彼は、議会に責任を負う民主的な内閣制度の導入など、憲法改正を通じ、より民主的な立憲君主制への移行を構想していた。
 一方、軍部側でも、中堅将校を中心に、改革政府を支援する軍部調整委員会(以下、旧調整委員会という)が74年3月に設置されていた。しかし、同年6月、軍内の急進派将校は、これとは別途、軍に警察を加えたより下級の代表者から成る陸海空軍・近衛軍・州軍・警察調整委員会(以下、新調整委員会という)を設置した。
 新調整委員会のメンバーは各地の反乱とは無関係であったが、軍と警察の広範な部門を代表し、当初は各部隊・部署の苦情を聴取し、上官による権力乱用を調査し、軍内の腐敗を一掃する粛軍機関のような位置づけであった。
 しかし、新調整委員会は間もなく政治性を強めて旧調整委員会を事実上解体、74年7月には、皇帝に圧力をかけ、軍人のみならず、あらゆるレベルの政府公務員を拘束できる特命粛正機関としての権限を得ることに成功した。これにより、新調整委員会は公式政府と並行する対抗権力に近い性格を持つに至る。
 新調整委員会は、勅許に基づくスーパー権限をさっそく行使し、閣僚、州知事らを汚職の容疑で次々と検挙していった。こうして新調整委員会がなし崩しに公式政府の解体に着手した段階で、革命過程は開始されたと言える。

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