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近代革命の社会力学(連載第319回)

2021-10-28 | 〆近代革命の社会力学

四十六 ポルトガル民主化革命:リスボンの春

(3)植民地戦争と国軍運動の形成
 1974年のポルトガル民主化革命を主導したのは国軍の中堅・若手将校たちであったが、元来、ポルトガル国軍は総体としてサラザール独裁体制の支持基盤に組み込まれていた。といっても、いささか微妙な位置においてである。
 そもそもサラザールは1910年共和革命後の混乱期に政治的な実力をつけていた軍部によって首相に擁立された軍部傀儡のような立場からスタートしており、軍部に恩があったが、文民(学者)出身であるため、軍部は直接的な権力基盤とはなり得なかった。
 そこで、サラザールは軍部をつなぎとめるため、儀礼的な存在の共和国大統領に職業軍人出身者を充てる慣例を確立し、軍部には実権を与えず、敬して遠ざけるという手法で、自身の支持基盤に取り込んでいたのである。この点で、自身が軍人で、軍部を直接の権力基盤としたスペインのフランコ総統とは大きく異なっていた。
 歴史的にポルトガル軍は君主制時代の保守的な上流貴族階級が幹部士官を務める組織構造であったが、共和革命後の大衆化の進展により、またサラザールのエシュタド・ノヴォ体制がある種の大衆的ファシズム体制であったことから、とりわけ第二次大戦後は一般階層出自の士官も増加していた。
 そうした中、1960年代、アフリカ植民地で同時多発的に独立戦争が勃発すると、徴兵の増員によって軍部はいっそう大衆化されていった。とはいえ、軍部は植民地戦争初期にはサラザール体制を支持しており、政治的な動きはほとんど見られなかった。
 もっとも、植民地戦争勃発前夜の1961年、小規模な反政府グループを率いてポルトガル豪華客船サンタ・マリア号シージャック事件を起こした退役軍人エンリケ・ガルヴァオンのような人物も存在したが、これは個人的なレベルでの反抗であった。
 また、1958年の大統領選挙に反サラザールの独立系候補者として立候補し敗北したウンベルト・デルガド将軍は61年末から62年初頭にクーデターを実行するも失敗、さらに亡命先のローマで64年に反政府組織ポルトガル国民解放戦線を組織したが、デルガドは翌年、秘密警察要員の手で暗殺された。
 こうした個人的ないし部分的な反抗を越えた組織としての軍部にどこで反体制的な変化が生じたかを正確に見極めることは難しいが、サラザール没後の1970年代、中でもギニア‐ビサウにおける敗北が分水嶺となったように見える。最初の兆しは、1973年にオテロ・デ・カルヴァーリョ大尉を中心として結成された「大尉運動」である。
 この運動は名称どおり大尉級の若手士官を中心とする国軍内の反体制グループであり、指導者のカルヴァーリョ大尉はアンゴラやギニア‐ビサウで植民地戦争に従事した士官であった。彼は共産党員ではなかったが、キューバ革命に触発され、影響を受けていた。
 カルヴァーリョはギニア‐ビサウ配属時に、当地の総督兼軍司令官だったスピノラ将軍の部下でもあったが、そのスピノラ将軍は大尉運動とは距離を置きつつ、リスボン帰任後に著書『ポルトガルとその将来』を公刊し、植民地戦争の停止を主唱していた。
 カルヴァーリョは組織力に優れており、大尉運動はやがて74年3月、より階級横断的な軍内運動・国軍運動(MFA)に拡大された。MFAは党派的な組織であり、独立戦争の即時停戦とポルトガルからの撤退、自由選挙の実施、秘密警察の廃止を要求政策として掲げていた。
 MFAメンバーの多くは共産党と結びついていたが、発足時点では社会主義的な政策綱領を掲げていたわけではなかった。しかし、手法としては、暗殺されたデルガド将軍が独裁を終わらせる唯一の手段として提唱していたクーデターの決行に乗り出す。

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