ザ・コミュニスト

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近代革命の社会力学(連載第308回)

2021-10-08 | 〆近代革命の社会力学

四十四 エチオピア社会主義革命

(4)臨時軍政評議会の成立と初動
 軍部の新調整委員会が政治化していく過程で台頭してきた人物が、後年独裁者となるメンギストゥ・ハイレ・マリアム少佐である。彼は下層階級の生まれで、兵卒として陸軍に入隊した後、エリトリア出身の有力な軍人であったアマン・アンドム将軍の知己を得て下士官から昇進を重ね、アメリカ留学も経験する若手エリート将校に引き立てられていた。
 メンギストゥは政権を掌握した後、マルクス‐レーニン主義国家を宣言するわけであるが、マルクス‐レーニン主義系政党に入党した履歴もなく、どこで感化されたかは不明である。おそらくは、当時エチオピア青年層の間で風靡していた思潮に耳学問的に染まり、青年層の支持を得るうえでも政治的に標榜することが有利と打算したのかもしれない。
 いずれにせよ、メンギストゥは新調整委員会の議長に選出されると、前回見たように、委員会の権限を拡大して、公式政府の解体を進めていった。1974年7月の二週間ほどの間に、150人以上が拘束され、エンデルカチュ首相も拘束された。
 同年8月には新憲法案が皇帝に提出されたが、新調整委員会はこれを認めず、9月には、ついにハイレ・セラシエ皇帝も拘束し、廃位した。その直後、新調整委員会は臨時軍政評議会(略称デルグ:以下、略称で表記)と改称し、全権を掌握した。これは事実上の革命政権であった。
 デルグの初代議長には、前出アマン将軍が就任した。彼はメンギストゥの後ろ盾であるばかりでなく、この時期、若手将校のメンター的存在でもあったため、権威付けのためにもまとめ役として議長職に就いたと見られるが、その立場は1952年エジプト共和革命当時のナギーブ将軍にも似て、多分にして名誉職に近かった。
 アマン将軍は立憲君主論者であったと見られ、当時海外に滞在していたアスファ皇太子の帰国を待って立憲君主として推戴する意図があったが、これは帝政廃止を一気に目指すメンギストゥらデルグのメンバーの考えと対立的であった。
 アマンは、その他、出身でもあるエリトリアで進行中の内戦への対処をめぐっても、和平交渉を模索し、強硬鎮圧策を主張するデルグのメンバーとは対立するなど、デルグの中で孤立していき、74年10月、わずか一か月で議長を辞任した。その後、アマンは逮捕のため自宅に差し向けられたデルグ部隊との戦闘で殺害された。
 アマンが死亡した当日、デルグはすでに拘束していた旧帝国政府高官ら60人を裁判なしで超法規的に処刑した。その中には、エンデルカチュ前首相も含まれていた。こうして、デルグは、メンター役だったアマンを含め、革命の障害となり得る有力者を早期に除去したことになる。
 この件は処刑日の1974年10月23日にちなんでエチオピア現代史上「血の土曜日」として記憶されているが、それまでは無血のうちに推移していた革命が初めて血に染まる画期点となった。これを契機に、エチオピア革命は流血の度を高めていくことになる。
 この後、意外なことに、デルグ議長職には、ここまでの革命プロセスの背後にあったメンギストゥではなく、彼よりも先輩格に当たるテフェリ・バンテ准将が就任し、中佐に昇進したメンギストゥはもう一人の同輩とともに、副議長職に就いた。
 この段階でデルグは名実ともに革命政権として立ち上がったと言えるが、政体としては、ハイレ・セラシエ皇帝廃位後、アスファ皇太子が海外滞在のまま「国王」として君臨する形となっていた。しかし、皇帝は廃位に同意しておらず、皇太子も新国王としての自身の立場を承認しないという宙摺りの君主政体をいかに整理するかが次の課題であった。

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近代革命の社会力学(連載第307回)

2021-10-07 | 〆近代革命の社会力学

四十四 エチオピア社会主義革命

(3)民衆騒乱から軍事革命の始動まで
 盤石に見えたエチオピア帝政が急激に崩壊に向かったのは、1970年代前半の社会情勢の悪化に要因があった。それには、自然災害と海外情勢、国内情勢とが複雑に絡み合っていた。
 自然災害という点では、エチオピアが歴史上たびたび直面してきた干ばつによる飢饉の発生である。自然災害の性質上、その正確な発生時点は特定しにくいが、1970年頃には発生し、72年から73年にかけて飢饉に進展したと見られる。
 この飢饉は北部諸州に限局されたものであったが、帝政政府の無策と地主階層による農産物の蔵匿という人災要素の複合により、最終的に最大20万人が餓死したと推計される。しかし、政府の情報隠蔽のため、正確な犠牲者数は不明である。
 それに加えて、1967年の第三次中東戦争以来、スエズ運河が長期間封鎖されたことによる原油価格の高騰、73年の第四次中東戦争に起因するオイルショックは、戦争当事国ではないエチオピアの経済にも打撃を加え、深刻なインフレーションを惹起した。
 さらに、1960年代から、紅海沿岸部の当時エチオピア領であったエリトリア(州)の分離独立勢力が武装蜂起し、エチオピア軍との内戦に発展、70年代には独立勢力同士の内々戦も激化していた。
 このような複合的な社会経済危機は革命前年度の1973年に頂点に達し、各地で労働者のストライキや学生の抗議デモが頻発する。特にハイレ・セラシエ皇帝自身の近代化政策の象徴でもあるメディアの発達により、皇帝が豪華な宮殿で飼育する猛獣に肉を与えている写真が暴露されたことが食糧難に苦しむ国民の怒りに火をつけたことは、皮肉であった。
 ただ、民衆騒乱は、それを束ねる政治組織が帝政の政治活動抑圧策のゆえに未発達であったため、民衆革命に進むことがなかった。そのため、政治的に先鋭化していた軍部の動向が鍵を握ることとなる。
 当時、軍内でも糧食の不足に対して不満が高まっており、陸軍や空軍の一部の部隊が1974年2月以降、散発的に反乱を起こした。そうした不穏な情勢を見て、ようやく皇帝は同年3月、貴族出自のエンデルカチュ・マコンネンを首相に任命し、改革に当たらせた。彼は、議会に責任を負う民主的な内閣制度の導入など、憲法改正を通じ、より民主的な立憲君主制への移行を構想していた。
 一方、軍部側でも、中堅将校を中心に、改革政府を支援する軍部調整委員会(以下、旧調整委員会という)が74年3月に設置されていた。しかし、同年6月、軍内の急進派将校は、これとは別途、軍に警察を加えたより下級の代表者から成る陸海空軍・近衛軍・州軍・警察調整委員会(以下、新調整委員会という)を設置した。
 新調整委員会のメンバーは各地の反乱とは無関係であったが、軍と警察の広範な部門を代表し、当初は各部隊・部署の苦情を聴取し、上官による権力乱用を調査し、軍内の腐敗を一掃する粛軍機関のような位置づけであった。
 しかし、新調整委員会は間もなく政治性を強めて旧調整委員会を事実上解体、74年7月には、皇帝に圧力をかけ、軍人のみならず、あらゆるレベルの政府公務員を拘束できる特命粛正機関としての権限を得ることに成功した。これにより、新調整委員会は公式政府と並行する対抗権力に近い性格を持つに至る。
 新調整委員会は、勅許に基づくスーパー権限をさっそく行使し、閣僚、州知事らを汚職の容疑で次々と検挙していった。こうして新調整委員会がなし崩しに公式政府の解体に着手した段階で、革命過程は開始されたと言える。

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近代革命の社会力学(連載第306回)

2021-10-05 | 〆近代革命の社会力学

四十四 エチオピア社会主義革命

(2)帝政晩期のエチオピア社会
 帝政エチオピア(ソロモン朝)はトルコのオスマン帝国と同時期の13世紀後半に成立して以来、単一の皇室が直系で継承していったわけではないものの、20世紀後半まで、絶対帝政としてはオスマン帝国を越えて世界最長を維持した古国であるが、それだけにその体制は古色蒼然としていた。
 とはいえ、最後の皇帝となるハイレ・セラシエ1世は皇室の縁戚貴族から抜擢され、皇太子・摂政を経て皇帝に即位した人物で、ある程度の改革志向性を持っていた。その表れとして、即位翌年の1931年には初の近代憲法を制定、立憲帝政の形式を整備した。
 ただし、この憲法は大日本帝国憲法(明治憲法)を範とした欽定憲法であり、古代イスラエル王ソロモンの子孫を標榜する伝承に基づき、皇帝を神聖不可侵な存在と規定しつつ、明治憲法以上に皇帝に大権を認める絶対主義的な志向性を持った憲法であった。従って、権力分立は存在せず、政党の結成も認められなかった。
 1936年にはイタリアのファシスト政権による侵略に屈し、占領されるも、41年にイギリス軍の手で解放、復旧された。戦後のハイレ・セラシエは、東西冷戦下にあって、東西両陣営と結ぶ巧みな非同盟中立外交を展開したため、その体制はかえって対外的に盤石なものとなった。
 摂政時代からの長い治世の間、ハイレ・セラシエは帝政の根幹を揺るがさない限度で社会の近代化を推進はしたが、戦後も半封建的な隷属的小作制度に基づく下部構造は基本的に維持されたままであり、国民の多くが貧農である社会編制は不変であった。そのため、帝政末期の1960年代に達しても、世界最貧状態にあった。
 そうした中で、最初の反体制的な動きは軍内から生じた。他のアフリカ諸国でも見られたように、軍は近代化が最も進んだ部門であったこともあり、将校の政治意識も先鋭化していた。
 その最初の表れとして、1960年、まさに皇帝膝元の近衛軍がクーデターを起こし、アスファ皇太子を新帝に擁立して改革派政権の樹立を試みたが、全軍を掌握できず、わずか数日で鎮圧された。
 一方、1955年の修正憲法で民選議会の制度は導入されたが、政党の結成は依然禁じられていたところ、1968年には主として欧州亡命中の学生を中心に、マルクス‐レーニン主義の政治団体・全エチオピア社会主義者運動(MEISON)が結成された。しかし、当然国内では活動できず、国内政党としての活動は革命後のこととなる。
 一方、これとは別に、1972年には当時の西ドイツで、やはり亡命中の学生を中心に、マルクス‐レーニン主義のエチオピア人民革命党(EPRP)が結党される。これは、MEISONよりも明確に政党として組織化されたエチオピア初の近代政党とも目されるものであった。
 EPRPは明確に帝政の廃止と封建諸制度の解体、そして社会主義国家の樹立を求める革命政党であったが、これも当然ながら、革命前の国内では地下活動に徹する以外にない状況であった。
 このように、帝政末期のエチオピアでは、亡命学生を中心にマルクス‐レーニン主義の政治運動が蠕動を始めていたが、厳しい政治的統制下で、国内的な活動はできず、到底革命など望める状況ではなかった。
 一方で、オスマン帝国やロシア帝国の晩期に見られたように、帝政の枠内での立憲革命を志向する保守的進歩政党が台頭することも許さず、帝政は対内的にも盤石に見えた。
 そうした革命不能状態とも言えるような重度の閉塞状況が1970年代半ばになって突如として大規模な革命へと急転するに当たっては、帝政最末期に当たる1970年代前半期の深刻な社会経済情勢が大きく寄与しているが、これについては次節に回すことにする。

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近代革命の社会力学(連載第305回)

2021-10-04 | 〆近代革命の社会力学

四十四 エチオピア社会主義革命

(1)概観
 1974年のエチオピア革命は、前章で見た1960年代末から70年代半ば過ぎにかけてのアフリカ諸国革命の第二次潮流に含まれる革命事象の一つではあるが、その発生力学や規模の点で特有のものがあるため、前章での予告どおり、別途扱われる。
 アフリカ諸国革命第二次潮流の中間期に勃発したエチオピア革命は、第二次大戦後に独立した新興アフリカ諸国とは異なり、第二次大戦中にイタリアの占領を受けた一時期を除き、西欧列強によるアフリカ分割の波を乗り越えて独立を維持した古い帝政国家での共和‐社会主義革命という大掛かりなものであった。
 エチオピア革命は、アフリカにおけるマルクス‐レーニン主義標榜の社会主義革命としては現在のところ最も大規模なものであるが、その余波はほとんどなく、周辺諸国への波及は見られなかった。その意味で、単独性の強い革命事象ではある。
 もっとも、軍部内のマルクス‐レーニン主義に傾斜した将校グループが主体となった軍人主導の革命という点では、先行した隣接のソマリア革命と類似する点があり、革命後のソマリアとは間もなく交戦する敵対関係に立つものの、ソマリア革命からの間接的な影響関係は認められるかもしれない。
 ただし、全軍規模のクーデターという形で始まったソマリア革命に対し、エチオピア革命は青年将校が主導した点では、他のアフリカ諸国革命でも見られた青年将校による下剋上的な革命の形態に近いものがあった。
 一方で、歴史的に長く続いてきた帝政を打倒し、マルクス‐レーニン主義国家に進んだという点においては、ロシア10月革命との類似点も大いに認められるが、文民の職業的革命家が主導したロシア革命に対し、エチオピア革命は職業軍人主導であったため、形式上民政へ移行した後も、軍事政権の性格を脱することができなかったという限界に直面することになる。
 さらに、エチオピアでは、ロシア革命後のように王党派の反攻による内戦は隆起しなかった代わりに、隣国の同類国家ソマリアとの領土紛争(オガデン戦争)が勃発し、冷戦期の世界情勢の中で、ソ連やキューバをはじめ東側陣営がエチオピア支援に回ったために、ソマリアが東側陣営から離反し、親米に転向するというねじれた関係を産み出したことも、大きな特徴である。
 オガデン戦争での勝利はエチオピア革命政権の権力を強化したが、それは軍人の革命指導者メンギストゥ・ハイレ・マリアムの独裁体制の強化にもつながった。以後のエチオピア体制は、スターリンばりの苛烈な独裁ぶりを発揮するメンギストゥを軸に展開されていく。
 メンギストゥと隣国ソマリアのバーレは、1970年代から80年代にかけてのアフリカ大陸における代表的な長期独裁者として共に悪名を残した点でも共通項があり、最終的には国を破綻に追いやり、1990年代初頭、反体制武装勢力の蜂起による救国革命で体制崩壊に追い込まれる点でも、エチオピアとソマリアは敵対しつつ平行する奇妙な関係にあった。
 ただし、救国革命後の命運は大きく分かれ、ソマリアがイスラーム急進派の台頭により国土分裂の無政府状態に向かったの対し、エチオピアでは別のマルクス‐レーニン主義勢力が連合した反体制武装組織が救国革命に成功し、ひとまず安定した体制の樹立を導いた。
 その件ははるか後に改めて扱うが、エチオピアにおけるマルクス主義の浸透は他のアフリカ諸国には見られないほど強力であり、先行のマルクス主義体制を別のマルクス主義勢力が新たな革命で打倒するという革命史上も稀有な事例を提供している。

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貨幣経済史黒書(連載第40回)

2021-10-03 | 〆貨幣経済史黒書

File39:パナマ文書/パラダイス文書流出事件

 貨幣経済下では、国家といえども貨幣収入を得て‘生活’しなければならないわけであるが、その最大の‘収入源’となるのが税収であることは言うまでもない。他方、徴税される側にとって、納税は強制献金に近い収益減をもたらすもので、とりわけ納税額が巨額に上る富豪層・法人大企業は租税回避への強い欲求に駆られやすい。
 そこで、古くから合法的に納税額を圧縮する租税回避の法的テクニックが開発され、租税回避に積極的に協力することで産業基盤の弱さを補ってきた小国群がある。中でも、中米の小国は外国企業や個人資産管理会社等を税制上特待するタックスヘイブンまたはパラダイス(税金天国)となって、租税回避行為の舞台を提供してきた。
 そうした長年の慣行とその実態が歴史的なスパンと規模とをもって発覚する事件が、2016年から17年にかけて相次いで起きた。通称パナマ文書(2016年)、パラダイス文書(2017年)と呼ばれる法律事務所等の内部文書が流出し、ドイツの南ドイツ新聞が入手、国際調査報道ジャーナリスト連合と連合加盟報道機関によって共同解析されたものである。
 中米パナマの法律事務所から流出したためパナマ文書と通称される内部文書は、1977年から2015年までに作成された1000万件を超える文書や電子メールなどおよそ2.6テラバイトに上る電子データで、現地で設立された約20万件の法人名や個人名も明記されていた。
 名前の挙がった個人は、世界の首脳級政治家や著名経済人、アスリート、芸能人やかれらの親族など多岐に及び、かれらがタックスヘイブンを利用して租税回避や資金洗浄を行っていた実態が明るみに出た。
 一方、パナマ文書と同様の経緯で解析されたパラダイス文書は、英領バミューダ諸島の法律事務所やシンガポールの法人設立サービス会社等から流出した内部文書で、電子データ容量の点ではパナマ文書より少ないものの、期間的には1950年から2016年というまさに歴史的な長期間に及び、かつ舞台となった国・地域も中米のほか欧州のマルタを含む19に及ぶ総合的な資料―というより史料―であった。
 ここでも、首脳級政治家や著名経済人、アスリート、芸能人やその親族のほか、アップルやナイキといった巨大多国籍企業の名も明記され、多国籍資本による租税回避行為の実態も明らかになった。
 この文書で暴露された手口のうち、資金洗浄は違法行為となる可能性があるが、タックスヘイブンに資産管理会社を設立して資産運用を行うオフショア投資は合法的な節税の手段であり、いわゆる脱税に当たらないということが重要である。
 もっとも、実質的に見れば、ペーパーカンパニーに近い在外会社に資産を移転するのは資産隠しも同然であり、こうした手法が「合法」とされるのは法の抜け穴にすぎないが、法の制定に関わる政治家もしばしば租税回避行為の実践者であるから、法の抜け穴封じに動くことはなく、むしろ内部文書の流出阻止の法的スキームの構築に動くだろう。
 そのため、こうした流出文書によって明るみに出たケースはまさに氷山の一角、ほんの一部でしかない。とはいえ、両文書によって、貨幣経済の極致とも言える現代資本主義社会における致富行為の技術的な手法が生々しい形で明らかにされたことも疑いない。
 とりわけ、多国籍資本は国という政治的な枠組みを超えて活動する経済的アクターであるから、一国での課税に縛られずに活動する。一方で、国際連合のような国際機関には徴税権がないため、多国籍資本全体に一律課税することは不可能である。
 一方、資本主義社会は身分より能力(=金を稼ぐ能力)に基づく社会と喧伝されているわけだが、金を稼ぐ能力に加え、稼いだ金を隠す能力が致富の秘訣であることも明確になった。同時に、名前の挙がった富豪層・大資本の資産額の天文学的数値、また富豪層の暮らしぶりは、まさに現代の貴族―大資本も法人貴族と言える―と呼ぶにふさわしいものである。
 しかも、両文書でしばしば著名人の親族の名が挙がるように、蓄積された資産は能力主義が強調される資本主義社会でも認められている贈与や相続といった能力によらない資産移転制度を通じて親族・子孫にも継承されていくのであるから、富豪層は貴族称号こそ保有しなくとも、経済的な面では世襲貴族も同然の存在である。
 ちなみに、当「黒書」にふさわしい付随的事件として、パナマ文書で名前の挙がった首相側近者を含むマルタの有力政治家の疑惑を拡大的に追及していた同国の女性調査報道ジャーナリスト、ダフネ・カルーアナ・ガリジアは2017年10月、車爆弾により暗殺された。報道に対する報復殺人と見られている。

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近代革命の社会力学(連載第304回)

2021-10-01 | 〆近代革命の社会力学

四十三 アフリカ諸国革命Ⅱ

(7)セーシェル革命
 今日、近隣のモーリシャスと並び、インド洋東アフリカ包摂圏のリゾート地として知られるセーシェルであるが、1970年代には、この楽園的島国も社会主義革命を経験している。
 セーシェルは18世紀にフランス領となったが、同世紀末にイギリスが占領して以来、モーリシャスと合併してイギリス領に転属されていたが、20世紀初頭にモーリシャスから分離され、単独植民地となった。
 第二次大戦後、自治が拡大されていく中、1960年代にフランス‐アルベール・ルネが率いる独立派の人民統一党とジェイムス・マンチャムが率いるイギリス残留派のセーシェル民主党の二大政党政が築かれた。この二大政党は、イギリス労働党をモデルとした社会主義志向の人民進歩党と保守主義のセーシェル民主党という形で、イデオロギー面でも明確な対立軸で分けられていた。
 そうした中、セーシェルが1976年6月に独立を果たすと、その直後は人民進歩党とセーシェル民主党の大連立政権の形を取り、マンチャム大統領‐ルネ首相という保革共存政権となった。これは、独立直後の暫定体制であり、両党の対立関係が止揚されないままの妥協の産物であった。
 その無理はすぐに明らかとなり、翌1977年6月、人民統一党員による革命が勃発した。これは当時、大陸アフリカにおいて革命の支援国となっていたタンザニアで訓練された最大200人程度の武装集団による武装革命であり、独立前後から準備されていたものと見られる。
 独立直後の小さな島国とあって、政府軍も未整備な中、革命は短時間で成功を収め、集団はセーシェルの主島マヘの要所を制圧した。この際、人民統一党党首のルネ首相は革命を事前に知らされていなかったと主張したが、革命成功後、直ちに大統領に就任した。
 党首が党員による革命計画を知らなかったという主張はにわかに信じ難いが、ルネは革命集団から大統領就任の要請を受けるに当たり、政治的人物の安全確保、国際合意の維持(特に米空軍衛星制御施設の維持)、翌年の選挙の実施の三条件を確約させたとしている。
 ルネとしては、武装革命のイメージを除去し、平和的な政権移行を演出しようとしたのであろうが、結局のところ、長年の政敵・マンチャムは政治亡命し、人民統一党はセーシェル人民進歩戦線(SPPF)と改称し、一党支配体制に移行した迅速な革命過程からすると、ルネ自身も革命プロセスに深く関与していたように見える。
 ちなみに、時を経てSPPF一党支配体制が終焉した後、革命当時の真相を究明するため、2018年に設置された真実和解と国民統一委員会(以下、真実委員会)では、ルネが事前に革命を把握し、関与していたことを当時の革命参加者が証言している。
 ともあれ、独立直後の空隙を利用した革命という点ではコモロ革命に類似していたが、その後の展開は大きく相違し、SPPFは1977年から91年まで一党支配による社会主義体制を維持した。この間はルネ大統領の実質的な独裁体制でもあった。
 ルネは、白人優越主義の人種差別体制を敷いていた当時の南アフリカを除けば、アフリカ圏諸国の指導者としては珍しく白人(フランス系)であったが、白人至上主義者ではなく、インド洋社会主義者・汎アフリカ社会主義者を公称した。
 むしろルネは南アフリカと敵対関係にあり、1981年には亡命中のマンチャムがアイルランド出身の著名な白人傭兵マイク・ホアーに依頼し、南アフリカの支援の下に大規模な侵略的反革命クーデターを敢行したが、ルネ政権はこれを阻止した。
 ルネはまた、ソ連流の共産主義者ではないとも公言したが、SPPFの一党支配体制はソ連の一党支配体制に類似した構制であり、この時期のセーシェルは東側陣営に属した。ただし、前出米空軍施設は維持され、西側とも断絶は回避した。
 経済的にも産業の国有化などソ連にならった定番の社会主義政策がいちおうは採用されたが、元来産業基盤の乏しい小島国であり、ソ連式計画経済の大展開は無理であった。
 一方で、ルネは同時代のコモロ革命指導者ソイリのような極端な教条性と急進性は示さなかったものの、全体主義的な傾向は持っていた。その象徴が、中等教育の年齢に達した若者に全寮制で自給自足的な生活をさせ、ある種のイデオロギー教化を実施するという文化大革命当時の中国の青少年農村下放制度にも似た国家青少年制度である。
 それ以外の点では比較的穏健と見られていたSPPF体制であるが、近年の真実委員会では政治犯に対する拷問や強制失踪、暗殺など、ルネの長期支配の元で長年隠されてきた人権侵害事例が明らかにされ、その評価が修正されつつある。
 そうした裏面の一方、革命後のルネの功績としては、1991年に自ら一党支配体制を放棄、複数政党制を復活させた後も、民選大統領として2004年の引退まで務め、一党支配体制終焉後にありがちな混乱を防いで民主化過程を見届けたことがある。
 なお、SPPFはルネの引退後も二度の党名変更を経て政権与党の座にあったが(2018年に統一セーシェルに改称)、2020年に新興の中道政党・セーシェル民主連盟/連合に政権交代した。

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