ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第317回)

2021-10-25 | 〆近代革命の社会力学

四十六 ポルトガル民主化革命:リスボンの春

(1)概観
 1974年のポルトガル革命は、西欧諸国で最後までアフリカ植民地政策に固執した当時のファシズム体制に対するポルトガル本国での内爆的な事象として発生した革命である。その担い手となったのは、まさにアフリカで同時発生していた植民地独立戦争の前線にあった将兵たちであった。
 当初は植民地護持の大義を信じてアフリカで戦っていた彼らは次第に戦争の意味について疑念を抱くようになり、政治的にも覚醒していった。そして、単に反戦思想にとどまらず、彼らの雇い主でもある旧態化した体制そのものの在り方に反感を強めていったのであった。
 他方、ポルトガルが最も苦戦した西アフリカのギニア植民地(ギニア‐ビサウ)で総督を務めたアントニオ・デ・スピノラ将軍のように、軍幹部の中からも、ポルトガルの将来を案じ、植民地戦争の停止を訴える者も現れた。
 そうした覚醒した将兵たちによって革命集団が形成され、クーデターの形で革命が隆起した点では、同時代のアフリカ諸国における革命と類似した傾向が見られる。ギニア‐ビサウ独立革命の成功をも契機としていたことを含めて、アフリカ諸国革命の影響あるいは余波として西欧における革命が刺激されたという点において、稀有の革命であった。
 しかも、革命集団の中核を形成した若手・中堅将校の多くは社会主義に傾斜しており、革命成功後、初期には社会主義的な政策が施行されたという点においても、同時代アフリカ諸国の革命との共通項があることは注目すべきことである。
 しかし、さらなる社会主義の深化を求める急進派将校グループのクーデターが未遂に終わったことを契機に、革命は中道派によって中和化され、より穏健な路線で収束し、現在のポルトガルにつながる西欧標準モデルのブルジョワ議会政に収斂されたため、社会主義革命としては未完成に終わり、全体としてブルジョワ民主化革命の線で収束したことから、本章表題は「社会主義革命」ではなく、「民主化革命」とした。
 そうした点では、革命成功後、民主主義の樹立に失敗し、暗黒の独裁体制へ転化した多くのアフリカ諸国の革命とは対照的な経過を辿っており、革命の中心地ともなった首都にちなんで「リスボンの春」と美称されることもある革命事象である。
 また、もう一点、アフリカ諸国の革命と異なる点は、有志将校によって開始された革命を民衆が支持し、中途からはファシズム体制下で禁圧されていた社会党や共産党といった左派政党も参加し、軍民連合体制が現出した点である。
 その点で、「リスボンの春」は軍人主体の軍事革命として始まったが、最終的には民衆や政党も合流した社会総体での民主化革命に進展していったと言える。そうした意味でも、本章表題は「民主化革命」とした。
 ちなみに、隣国スペインでも戦前から40年近くにわたるフランコ総統の独裁によるファシズム体制が並行していたが、「リスボンの春」はスペインに直接波及することはなかった。スペインでは、1975年のフランコの死を契機に、フランコの遺言により国王として即位したフアン・カルロス1世が主導する形で、平和裏に民主化プロセスが開始された。
 このように隣接する同類体制で民主化経緯が対照的に分かれた理由も興味深いところであるが、その問題に関しては、続く第2節で見ることにする。いずれにせよ、「リスボンの春」は、ほとんどの諸国でブルジョワ民主化が一段落していた西欧にあって、現時点では最後の革命事象となった。

コメント