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近代革命の社会力学(連載第312回)

2021-10-15 | 〆近代革命の社会力学

四十四 エチオピア社会主義革命

(8)一党支配体制の後発的樹立と大飢饉
 国内のマルクス‐レーニン主義政党との内戦及び隣接のマルクス‐レーニン主義国家との戦争という二つの危機を乗り越えたメンギストゥ体制は強化されたが、問題は政体が不確定であることであった。1974年の革命からデルグによる軍政は変わらず、後ろ盾のソ連から民政移管の圧力がかかり始めていた。
 しかし、軍を基盤とするメンギストゥにとって、文民政党の設立はリスクであり、自身の権力が削がれる不安があったため、ソ連からの圧力に対して抵抗を示していたが、1979年に至り、ついにエチオピア労働者党設立準備委員会(COPWE)を設置した。
 COPWEはその名称どおり、政党そのものではなく、政党の前段階の組織であり、デルグとは併存する関係にあった。すぐに政党を立ち上げなかったのは、メンギストゥとしても、ソ連の圧力に答える姿勢を見せつつ、将来の政党を自身の権力基盤とするための準備段階を設ける時間稼ぎの狙いがあったと見られる。
 結局のところ、メンギストゥは5年もの期間をかけ、COPWEを通じて入念に結党を準備し、その間に反対派へのさらなる粛清を進めたうえで、ようやく1984年に正式に労働者党を結党した。
 この党は共産党こそ名乗らなかったものの、ソ連共産党をモデルとした独裁政党であり、イデオロギーや組織構造はソ連共産党の相似形であったが、幹部の半数以上はトップの書記長に就任したメンギストゥを含め、デルグからの横滑りであり、デルグの後継組織に等しいものであった
 社会主義に基づく新憲法の制定はさらに1987年までずれ込み、デルグもようやくこの年に正式廃止、メンギストゥを初代大統領として、国名もエチオピア人民民主共和国に定められた。革命から13年の年月を経ての一党支配国家の正式な立ち上げであった。
 このように、メンギストゥが自身の権力基盤となる政党の形成に注力している間、国内では1983年から、干ばつによる新たな飢饉が進行していた。飢饉の発生地域は北部(特にティグライ州)が中心であり、85年まで続いた飢饉の犠牲者数は最大推計で120万人という20世紀史に残る大飢饉となった。
 このような事態を招いた原因として、干ばつという自然現象に加え、メンギストゥ政権の政策的な誤りによる失政飢饉、さらには意図的に惹起された計画飢饉というジェノサイドの性格を持つかどうかが議論されてきた。
 政策としては、メンギストゥ政権が革命後に推進してきたソ連式農業集団化政策の欠陥である。これは、まさにモデルのソ連でもロシア革命後に発生したのと同じ構造欠陥である。デルグ政権は、集団化の関連政策として、人口が増加した北部から南部への農民の大量的な強制移住を推進していたが、飢饉対策としては逆効果となった。
 意図的な計画飢饉という点では、大飢饉の中心地ティグライ州は革命前から少数民族ティグライ族が人口割合では二番手民族であるアムハラ族を主体とする中央政府に対して抵抗してきたところであり、この関係は革命後も不変であった。そのため、デルグ政権は反乱対策として、意図的にティグライ州における飢饉に積極対応しなかった疑いも持たれる。
 その点で比較対照例となるのは、1930年代当時、ソ連領だったウクライナを中心に発生した大飢饉(ホロドモール)である。これは当時のスターリン政権による強制移住を伴う農業集団化の結果、最大推計で1000万人超の犠牲が生じた大飢饉であり、これをジェノサイドと認定している諸国もある。
 メンギストゥはその統治手法の点でスターリンとの類似点が多く、1980年代の大飢饉もそうしたスターリン主義的な一面を象徴するものと言えるかもしれない。いずれにせよ、大飢饉はメンギストゥ政権への世界の批判的な関心を高めるとともに、国内ではティグライ族を中心とした反政府活動を刺激することとなった。
 その点、従来、エリトリアを除けば、民族紛争が比較的抑制されてきたエチオピアであるが、実際のところ、帝政時代の征服活動の結果、エチオピアは単独で人口過半を超える民族のない複雑な多民族国家となっていた。
 皮肉にも統一的な一党支配国家が遅れて樹立されたことで、かえって多民族の自立を刺激し、多民族合同での反政府勢力の形成を促進して、最終的にメンギストゥ体制の崩壊を早める結果となった。その体制崩壊を導いた1990年代初頭の「救国革命」については、後の章で改めて見る。

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