ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

9条安全保障論(連載第5回)

2016-07-28 | 〆9条安全保障論

Ⅱ 未来的非武装世界

 前回の末尾で予告したように、9条の時間的に重層的な解釈の冒頭に来るのは、未来時間軸である。なぜ時制を未来からたどるかと言うと、9条の規範内容としては、この未来時間軸が究極の到達点であって、すべてはここを起点に解釈される必要があるからである。
 もしも、これを通常の時間的流れに沿って、過去→現在→未来とたどってしまうと、最終の未来時間軸はまさに遠い未来の話として、事実上棚上げされてしまう。実際、軍国主義者ですら、理念としての未来の非武装世界を正面からは否認しないだろう。

 ここでもう一度9条の文言に立ち返ってみよう。9条は二つの項に分かれるが、その中でも未来時間軸に直接に関わるのは、第2項である。同項はこうであった。

 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 これほど端的に軍隊の不保持と交戦権の否認を規定している憲法を持つ国は珍しい。それゆえに、改憲論者はこれを「異形の憲法」とみなして目の敵にするのだろう。しかし、非武装化は未来において人類が実現すべき究極目標である。
 国家が武装して相互に牽制・威嚇し合うという世界の構造が戦争の根源であることは明らかであり、まして核兵器のような殲滅兵器の保有が公認された少数の大国が世界をリードするなど、いかに考えても正気ではない。
 9条はあくまでも日本国の憲法の一条文であるから、さしあたりそれは日本国の戦力不保持を規定しているだけだが、日本一国が非武装政策をとっても、世界の恒久平和は達成されない。それどころか、改憲論者がしばしば脅し文句に使うように、一国非武装政策ではそれに付け込んで侵略を企てる国が出現するかもしれない。
 日本一国を超え、全世界で戦力不保持・交戦権否認が実現されて初めて恒久平和が実現するというのは、たしかなことである。従って、9条はその法文の表面的な意味を越えて、世界全体の非武装化まで想定した規定であると読むべきである。その意味で、「未来的非武装世界」なのである。

 ここで言っておかなければならないのは、未来的非武装世界は決して単なる理念・理想ではなく、憲法が具体的に指示する規範内容だということである。つまり、現在時から未来の非武装化へ向けたプロセスを推進する義務を課しているということである。
 この義務は、所定の行為をしなくても直ちに違憲とはならない努力義務ではなく、所定の行為をしないことは少なくとも違憲状態となる法的義務である。だからこそ、第2項は、「・・・これを保持しない」「・・・これを認めない」と定め、「・・・保持しないよう努める」「・・・認めないよう努める」とは定めていないのである。

 まとめれば、9条は日本国民に対し、未来的非武装世界の実現へ向けた法的な義務を課している。
 それにしても、憲法が何ゆえにそのような重い義務を日本国民に課しているかと言えば、やはり唯一の被爆国という特異な歴史的経験を背負う国民だからであろう。そして、そのような無慈悲な攻撃が向けられたのは、かつての軍国主義体制に対してであったのだから、9条は過去時間軸としてそのような軍国主義体制の清算という規範内容をも帯びているのであるが、これについては稿を改める。

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9条安全保障論(連載第4回)

2016-07-23 | 〆9条安全保障論

Ⅰ 9条の重層的解釈

三 9条の時間的重層性

 法律の条文解釈において、一つの法文の時間軸が過去・現在・未来のすべてにまたがるということは通常なく、そのような時間的に重層化された解釈など、正規の法律解釈論からは非常識とみなされるだろう。しかし、こと9条に関しては、このような解釈が認められるべきものと思う。9条はそれだけ独特で、内容豊かな規定なのである。以下、その一端を示すが、詳細は次章以下で論じるとして、ここでは総説的に全体のアウトラインのみを記す。

 まずは、9条の過去時間軸として、9条の第1項が指示しているのは、軍国主義体制の清算である。過去の軍国主義体制とはすなわち、一世代前の明治憲法で規定されていたような富国強兵に基づく軍部優位の先軍的な体制の全体である。
 従って、単に戦争や武力行使をしなければよいというような政策的レベルにとどまらない体制変革が要求された。このことは、9条が第二章:戦争放棄に含まれる唯一の条文として、第四章以下の統治機構に関する章はもとより、基本的人権を定める第三章よりも前倒しで規定されているという独異な憲法構成からも裏付けられよう。
 こうしたことから、軍の不保持を定める第2項においても、旧日本軍の武装解除・全面解体がまずは要求されたと読める。このような軍国主義体制の清算は、すでに敗戦後の占領過程で実行済みである。

 次に、9条の現在時間軸としては、まず(1)清算された軍国主義体制の復活阻止である。軍国主義体制の清算は将来の復活を予定した一時的なものではなく、恒久的な要求である。この点は第1項で、国際紛争を解決する手段としての戦争と戦争に準じた軍事行動とを永久に放棄すると宣言されていることからも、明らかである。
 その一方で、現存国際社会が恒久平和を達成できる条件になく、依然として諸国が軍事力を保持し、軍事的な侵略の危険から解放されていない間においては、武力による自衛権を留保することを否定していないと理解される。こうした第二の現在時間軸としての(2)自衛力の留保に関しては9条の法文自体に明定されていないため、厳格解釈の立場からは逸脱した解釈だという批判もあり得るところである。
 しかし、国際慣習法及び国家の個別的自衛権を認める国際連合憲章の規定を援用することで、9条もこうした現在軸を一切否定するものではないという解釈は導けるだろう。ただし、第2項で軍の不保持は譲れないから、9条の下で保持できる自衛のための国家武力は軍隊組織や軍隊に転用可能な組織であってはならないという制約は付く。また交戦権も放棄されているから、自衛権の行使として発動できる武力は、侵略排除的・防御的な行動に限られる。
 9条の現在時間軸は、さらに(3)絶え間ない軍縮の継続を要求する。すなわち、世界における恒久平和の達成に向けて、軍縮の指導性を発揮すべきことを日本国民に課しており、それとの関連において、(2)で留保される自衛力についても、絶えず縮小が要求される。

 最後に、9条の未来時間軸として、恒久平和の達成である。つまり、地上からおよそ兵器も国家武力も一掃された理想状態である。9条が目指しているのはそのような到達点であって、現在時間軸止まりでは決してない。従って、現在時間軸で認められる自衛力の保持は恒久的であるという解釈は正しくない。
 具体的には、自衛のための国家武力も未来に向かって廃止されるべきものであって、現在時間軸の(3)で要求される軍縮・防衛力縮小の義務もまた単なるスローガン的な平和政策ではなく、そうした9条の未来時間軸から導かれる要求なのである。

 以上の9条の重層的解釈から導かれる国家目標を順に並べると、過去時間軸→非軍国主義体制現在時間軸→過渡的安保体制未来時間軸→未来的非武装世界とまとめることができる。次回以降では、この順序をあえて崩して未来→過去→現在の順にたどってそれぞれの内容をさらに展開していくことにしたい。

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9条安全保障論(連載第3回)

2016-07-16 | 〆9条安全保障論

Ⅰ 9条の重層的解釈

二 絶対的解釈と相対的解釈

 9条の解釈に際しては、絶対的解釈と相対的解釈の対立があるが、私見はそのいずれに対しても批判的である。そこで、それぞれの解釈の内容とその問題点について、検証してみたい。

 まず絶対的解釈とは、9条の規範内容を絶対的に受け止め、完全非武装を要求する趣旨と解釈する立場。これによれば、現行自衛隊のような国家武力の保有は端的に9条に違反することになる。このような解釈によった場合、仮に日本が海外から侵略されたときにいかなる対応をするかについては、見解が分かれ得る。
 一つは、全面的な無抵抗主義である。これは倫理的に非暴力を徹底するもので、侵略者に対しても抵抗せず、服従することをよしとする。倫理的な首尾一貫性という点では崇高な思想に基づくが、現実政治において実践することが極めて難しい立場でもある。
 もう一つは、侵略に対しては国家武力ではなく市民的抵抗で臨むとする立場である。その場合、抵抗の内容として、占領軍に対する非協力・サボタージュといった非暴力手段に限るならば、第一の無抵抗主義に近づくことになる。
 そうではなく、民間義勇軍を組織して、占領軍に武装抵抗することをよしとするなら、民間義勇軍のような市民的武装組織の保持は9条に違反しないということになる。ただ、そのような組織をいかに制度化し、訓練・維持していくのか、また占領軍に対する戦略的実効性に関しても議論の余地があろう。
 さらにもう一つは、外国軍に防衛を委託するという立場である。これは現に一部の小国が採用している政策であり、自衛隊の前身たる警察予備隊が創設されるまで占領下の日本でも採用されていた立場だが、外国軍に全面的に依存するなら、それは事実上軍を外国と共有し合っているに等しくなり、9条との矛盾性も生じかねない。
 こうした絶対的解釈は、戦争の傷跡と記憶が生々しかった憲法制定初期には決して少数意見ではなかったはずだが、間もなく自衛隊が創設され、既成事実として国内的・国際的にも定着してくると、こうしたある種の理想主義的な解釈は退潮し、現在では少数意見にとどまっていよう。実際、平和運動関係者なども、「自衛隊違憲論」はほとんど口にしなくなっているのではないか。

 これに対して、相対的解釈は、9条の規範内容を相対化し、その要求水準を緩める解釈である。これは、前回指摘したように、本来は一続きにしてもよかった9条が条文を二項に書き分けたことに付け入って、技巧的な解釈を施そうとする企てである。
 その際、国際平和の希求を目的とする第1項は精神規定として読まれ、この条項は未来に向かって恒久平和を希求しているかもしれぬが、戦争の可能性が消え去ってはいない現実世界にあって、国家が保有する自衛権まで否定する趣旨ではないと解釈する。
 そうしたうえで、軍の不保持と交戦権放棄を定めた第2項にあっても、第1項が容認している自衛権行使に必要な国家武力の保持及びそれによる自衛権の発動は禁止されないと解釈するのである。これによれば、自衛隊の存在と自衛隊による自衛権の行使は9条に違反しないことになる。
 ただ、行使可能な自衛権の範囲に関しては議論が分かれ、かつては日本国単独での個別的自衛権に限られると理解するのが多数であった。しかし、同盟国にも応分の防衛負担を求める同盟主米国の意向や冷戦終結後の世界情勢の変化といった外部環境の変化に対応して、集団的自衛権を認めるべきとの意見も浮上してきた。そこから、「限定的な集団的自衛権」である限り、9条に違反しないとの解釈が現われ、昨年これに基づく立法化がなされたことは記憶に新しい。
 かねてより、こうした相対的解釈には解釈に名を借りた「解釈改憲」であるとの批判が向けられてきたが、蟻の一穴のたとえどおり、個別的自衛権を認めたところから9条の空洞化が進み、ついには集団的自衛権の解禁に至って、9条の規範内容はほぼ流失したと言える段階まで来たわけである。
 元来、相対的解釈は9条、中でも軍の不保持と交戦権の放棄を定める第2項を連合国占領軍によって強制された武装解除条項としてこれを排除したい衝動に根ざしているので、最終的には改憲による第2項の廃止が目指されている。

 以上の全く正反対方向の二様の解釈それぞれをひとことで批評するなら、絶対的解釈は思弁的、相対的解釈は作為的と言えるだろう。ただし、相対的解釈者の胸中に再軍備によって国家的尊厳を取り戻すといった思弁が働いているなら、相対的解釈にも思弁性が隠されていると言えるだろう。

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9条安全保障論(連載第2回)

2016-07-15 | 〆9条安全保障論

Ⅰ 9条の重層的解釈

一 9条の構成

 9条の時間的に重層的な解釈を示すに当たり、まず9条がどのような構成でできているか、はじめに再確認しておく。9条の法的な注釈・解説は憲法の教科書類でなされているので、あえて繰り返すまでもないように思えるが、以下では、本連載との関連で見落とせない点だけ簡潔に言及する。
  

第1項
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

第2項
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

  
 9条はこのように、二つの項から成るが、別々の内容を立てているのではなく、第1項と第2項は連続している。本来は一つの条文に一本化してもよかったのだが、長文化を避けるためか、二項に分けて規定された。
 第1項は目的条項であり、国際平和の希求及び戦争と武力による威嚇・武力行使の永久的放棄が宣言されている。ここで注意すべきは、「永久」という無限概念が使われていることである。もしこの文言が含まれておらず、単に「放棄する」であれば、将来の改憲によって放棄を撤回することもあり得るが、「永久に」とあることから、これは将来の改憲によっても撤回しないと宣言したことになる。
 このように、第1項で示された目的は、将来の憲法改正の方向性をも指示する強い拘束力を持っているのである。つまり、日本国民は永遠に戦争や戦争に準じる軍事力の行使をしないとの憲法的な誓いである。
 これを受けた第2項は、第1項の目的を達成するための手段として、戦力の不保持及び交戦権の否認が規定された手段条項となっている。本項で注意すべきは、前段で放棄する対象として「陸海空軍その他の戦力」と包括的に定めていることである。従って、名称は陸海空軍でなくとも、能力的に戦力として投入され得る国家武装組織の保有は禁じられることになるのである。
 もう一点、第2項後段ではあえて交戦権の否認を明記していることの意味である。前段で戦力の包括的放棄を規定しておけば、事実上交戦はできないから、あえて交戦権の否認を明記することもないはずだが、後段はダメ押し的に、法的にも国家としての交戦権を否認することで、事実上のみならず、法的にも交戦できないようにしているのである。

 かくして、9条は世界に稀なる徹底した非武装平和主義の法的な表現となっている次第である。それゆえ、これを文言どおり絶対化して解釈すれば、日本国は永遠に完全非武装でなければならないことになる。
 しかし、その一方で、先に少し触れたように、9条は本来一続きの文章を二項に分割規定したことから、1項と2項を分断したうえ、規定全体の趣意を相対化し、最終的には骨抜きにしてしまえるような相対的解釈の余地をも生んできたのである。次回は稿を改め、こうした絶対的解釈と相対的解釈とについて、批判的に対比検証する。

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9条安全保障論(連載第1回)

2016-07-07 | 〆9条安全保障論

序論

 昨年における集団的自衛権の「限定的な」解禁により、憲法9条の規範性はいよいよ損なわれ、憲法規定と政治的現実との乖離が現行憲法史上最大化した。その結果、9条は世界の憲法の中でも最も欺瞞的な条項と化することとなった。言わば「憲法詐欺」である。
 このような状況にまで立ち至ったのは、9条の意義を日本国民が深く究明することなく、片や連合国占領軍に強要された屈辱の完全武装解除条項にすぎないとして敵視し、片や9条をいかなる武装も武力行使も許容しない絶対平和主義条項として改憲策動に対抗するという形で、ともに教条主義的な護憲vs改憲の綱引きに終始してきたことによる。
 この綱引きは近年、右から引いていた改憲チームが優勢となって、勝利を収めつつある。集団的自衛権の解禁はその最初の勝利であり、次なる最終勝利は9条そのものの廃止ないし廃止に等しい全面改訂である。
 このような流れはもはや既定的と言える情勢にあるが、土俵際で護憲チームが逆転勝利する可能性が残されていないわけではない。そのためにも、護憲論は自己改革を遂げなくてはならない。この小連載は、そのような護憲論の自己改革の手がかりを探ることを目的とする。

 その基本的な視座をはじめに述べておくと、それは9条の重層的な解釈ということに尽きる。とりわけ時間的に重層的な解釈である。すなわち、9条は現時点で国が為すべきことを固定的に指示しているのではなく、過去の軍国主義体制を否定する一方で、未来における常備軍の廃止=完全非武装を展望しつつ、それへ向けての漸進的な軍縮を指示しているという解釈である。
 しかも、軍縮の過程では、その時々の国際情勢を考慮した合憲的な安全保障政策の経過的な定立を排除するものではなく、外国との安全保障同盟や非常的な場合における外国軍との共同武力行使の可能性も排除しないという柔軟な解釈である。
 この軍縮の中間的な過渡的段階における安全保障政策を、9条に基づく安全保障論という趣旨で、「9条安全保障論」(略して「9条安保論」)と名づける。これが本連載のタイトルであるが、それは9条の規範内容の一部を取り出したものにすぎない。あえてそのように一部を表題的に取り出したのは、この「9条安保論」こそが、9条を安保政策の桎梏とみなしてこれを除去しようとする9条廃止論への唯一の有効な対抗軸となると考えるからである。

 このように9条を現在・過去・未来の時間軸に応じて重層的に解釈していくという方法は、所与の法文の意味を現時点における固定的な規範内容に集約しなければならないとする法解釈の学術的な常道には反するであろう。さらに、人集め・オルグをしやすい平和のキャッチフレーズ化にもなじみにくい。そのため、憲法学者からも平和運動家からも白眼視されるかもしれない。
 しかし、実際のところ、教条的な9条護持論をいくら掲げても改憲の流れを押しとどめることはもはやできないであろう。とりわけ、議会政治の枠内で9条廃止へ向けた改憲を有効に阻止したい勢力は、「9条安保論」を一度は考慮する価値があると考えるものである。本連載はそのような意図を込めて送り出される。
 折りしも、本年7月の参議院選挙の結果、史上初めて、与野党に及ぶ改憲勢力が憲法上衆参両院で改憲発議が可能な三分の二に達することとなった。これにより、いよいよ「改憲ロケット」が発射台に置かれる準備が整うことになる。そういう微妙な情勢下で開始される当連載には、一定の意義があるかと思われる。

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