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9条安全保障論(連載第6回)

2016-07-29 | 〆9条安全保障論

Ⅲ 非軍国主義体制

 9条は、過去の軍国主義体制に対する無慈悲な原爆攻撃という日本国民の体験に基づき、未来的非武装世界の実現へ向けた義務を課しているのであった。そこで、9条は過去時間軸として、そうした過去の軍国主義体制の清算という義務をも日本国民に課している。このことは、9条でもとりわけ第1項が明示している。

 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 この法文前半の「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求(する)」とは、まさに国際平和を踏みにじって、自国の利益を暴走的に追求した富国強兵の軍国主義体制との決別宣言とも読めるものである。

 ここで、日中戦争から太平洋戦争までの戦時体制を特に「天皇制ファシズム」と規定しつつ、9条で清算が要求されているのは、この一時期のファシズムにとどまるのではないかという疑問もあり得る。すなわち、民主主義の下での再軍備、文民統制された軍の再構築は許されるのではないかというささやきが、近年ますます強くなっている。
 言い換えれば、9条は戦前の一時期の体制の誤りに対する反省条文であって、民主主義が定着して久しい現在、そろそろ反省から抜け出し、軍備を持つ「普通の国」になってもよいのではないか、ということである。
 しかし、すでに別論稿でも考察したように、いわゆる「天皇制ファシズム」の本質は総力戦のための臨戦体制を構築する中で、神格化された天皇の権威を利用する形で軍部が主導したファシズム様の体制、すなわち擬似ファシズムであって、ナチスドイツやファシストイタリアのような真正ファシズムではなかった。
 ナチスドイツやファシストイタリアでは、ファシスト政党の解体を中心とした脱ファッショ化が戦後処理の中心を成し、再軍備は認められたのに対し、日本の軍部主導の擬似ファシズムの清算に当たっては、天皇を脱神格化・象徴化させて存続させつつ、軍国主義の大元である軍の解体に焦点が置かれた。
 そのため、軍の廃止・武装解除がまず目指され、しかも恒久化された。それで、再軍備の恒久的禁止という厳しい制約が課せられたのである。従って、9条を改正して再軍備することも「違憲」となるという形で将来の憲法改正の方向性にも制約がかかることになる。

 このようないささか厳しすぎると言えなくもない制約はまた、前回見た未来時間軸からも根拠付けられる。たとえ民主主義の下で文民統制を受ける軍であっても、再軍備化は非武装世界の実現に向けた義務に反するからである。だからこそ、解釈の出発点を未来時間軸に取ったのである。


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