森毅著『数学の歴史』(講談社学芸文庫),1988年。
「なにゆえに、数学はギリシャに始まったといわれるのか」
「なにゆえに、中世の数学史を語ることは、困難なのか」
「いかなる時代が、新しい数学にふさわしかったのか」
「いかなる数学が、あたらしい時代にふさわしかったのか」
「なにを、資本主義は数学にもたらしたか」
「いかに、数学は現代につきささっているか」
これらの章の表題にみられるように、数学の歴史を人類の歴史のなかにくるんで叙述すことを狙った異色作です。
全体的に概略的すぎるし(粗雑と言う意味ではなく、相当の知識がすでに読者にあるもの前提して執筆している)、読者に数学の細かな内容を問わないで展開しているのでよく分からない箇所がたくさんありました。
たとえば、次のような記述があり、この調子で本全体が成り立っていると思ってもらえばよいです、「複素関数論の一般論としての成立は重要な事件であったわけだが、それが一方では、ガウスの超幾何関数に始まってリーマンからリーやピカールやポアンカレにいたる微分方程式の研究を背景に持っていたこと、そしてさらに一方で、ガウスやアーベルやヤコビ以来、19世紀の数学をリードし続けた楕円関数の研究の基礎としてつくられてことを、忘れてはならない。これらの果実を得るために耕された土壌として、複素数の世界はあったのである」p.172)。
よく分かりにくいが、著者は「はじめに」で、このことを想定しているかのように、「一般的な世界史と一般的な数学との理解を前提としたいのだが、それは読者にとって苛酷な要求だろう」(p.6)と言っています。
「この書から、なにかの結論をひき出されることをぼくは望まない。むしろ、読者にとっての嵐をひき出してほしい」のだそうです。
17年で25刷で大変に売れているようです。
おしまい。
「なにゆえに、中世の数学史を語ることは、困難なのか」
「いかなる時代が、新しい数学にふさわしかったのか」
「いかなる数学が、あたらしい時代にふさわしかったのか」
「なにを、資本主義は数学にもたらしたか」
「いかに、数学は現代につきささっているか」
これらの章の表題にみられるように、数学の歴史を人類の歴史のなかにくるんで叙述すことを狙った異色作です。
全体的に概略的すぎるし(粗雑と言う意味ではなく、相当の知識がすでに読者にあるもの前提して執筆している)、読者に数学の細かな内容を問わないで展開しているのでよく分からない箇所がたくさんありました。
たとえば、次のような記述があり、この調子で本全体が成り立っていると思ってもらえばよいです、「複素関数論の一般論としての成立は重要な事件であったわけだが、それが一方では、ガウスの超幾何関数に始まってリーマンからリーやピカールやポアンカレにいたる微分方程式の研究を背景に持っていたこと、そしてさらに一方で、ガウスやアーベルやヤコビ以来、19世紀の数学をリードし続けた楕円関数の研究の基礎としてつくられてことを、忘れてはならない。これらの果実を得るために耕された土壌として、複素数の世界はあったのである」p.172)。
よく分かりにくいが、著者は「はじめに」で、このことを想定しているかのように、「一般的な世界史と一般的な数学との理解を前提としたいのだが、それは読者にとって苛酷な要求だろう」(p.6)と言っています。
「この書から、なにかの結論をひき出されることをぼくは望まない。むしろ、読者にとっての嵐をひき出してほしい」のだそうです。
17年で25刷で大変に売れているようです。
おしまい。