【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

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吉村昭『三陸海岸大津波』文春文庫、2004年

2011-04-12 00:09:02 | ノンフィクション/ルポルタージュ

            三陸海岸大津波
 本書で吉村さんは次のように書いています。「海底地震の頻発する場所を沖にひかえ、しかも南米大陸の地震津波の余波を受ける位置にある三陸沿岸は、リアス式海岸という津波を受けるのに最も適した地形をしていて、本質的に津波の最大災害地としての条件を十分すぎるほど備えているといっていい。津波は、今後も三陸海岸を襲い、その都度災害をあたえるにちがいない」と(p.171)。
  1970年に書かれた本ですが、今回の大規模な津波を予測しているような記述です。著者は2006年7月、5年ほど前に亡くなっていますが、いま目の前にある東日本大震災を目撃していたらいったい何と言ったでしょうか?

 三陸海岸は明治29年(1896年)と昭和8年(1932年)、そして昭和35年(1970年)の3度大きな津波に襲われました。

 明治29年の津波は6月15日のことで、旧暦の端午の節句にあたっていました。死者数26,360名、流出家屋は9,879戸。著者は宮城県牡鹿郡女川村、雄勝村、本吉郡相川村、白浜村、唐桑村、岩手県南部の気仙郡(広田村)、上閉伊都郡、下閉伊都郡、北部の九戸郡の被害実態を詳細に記述しています。

 昭和8年の津波は3月3日の雛祭りの日で、死者数2,995名、流出家屋は4,885戸でした。昭和35年のそれは、チリ地震の余波とでもいうべきものです。この地震は昭和35年5月23日に南米チリの中部沖合で発生しました。その地震波が約22時間30分かかって三陸海岸、北海道、九州に達したというものです。これによる津波は気象庁も予知しえず、警報もださなかったため甚大な被害がでました。死者数105名、流出家屋は1,474戸でした。

 著者はこの3つの大津波がどのようなものであったのかを、資料調査と聞き取りによって再現しています。聞き取りと言っても、後者では2人の80歳を超える男性で、執筆当時ほとんど経験者は生存していませんでした
。後者では何人かの経験者に会うことができ、また当時、学校の生徒であった子どもたちの作文も役にたったようです。

 明治29年と昭和8年の津波では、その前兆に地震があり、魚の大漁があり、また井戸の水が干上がったり、濁ったりしたようです。

 この他にも三陸沿岸を襲った津波は、たくさんあり、著者はそれを列挙しています。古くは貞観11年5月26日(869年7月13日)で、これはいまから1150年ほど前です。明治29年津波前に18回の津波の記録があります(pp.60-62)。

 教訓的なのは田老町の経験で、津波の被害防止のために積極的な対策をたて(防波堤、避難訓練)、昭和43年5月16日の十勝沖地震のおりの津波襲来には適切な処置がとられ、被害を最小限にくいとめたとのことです。