【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

夢枕獏『大江戸釣客伝(下)』講談社、2011年

2012-08-16 00:38:32 | 歴史

            

   下巻は、上巻最後の個所で采女らが議論していた投竿翁が誰で、どのような人であったか、がわかる。釣りの名人、『釣秘伝百箇條』という指南書を著した人物。どうやらその人物は朝湖と其角が鉄砲州の沖で釣りをしているときに、釣り上げた土左衛門であったらしいことがわかる。さらに、投竿翁という謎の人物、その人が書いた指南書、この書をとある女性が大黒屋という古本屋にもちこんだのを朝湖が入手し、そのことをめぐってのやりとりが興味深く展開されてる。


   この巻では、有名な江戸城松の廊下での刃傷沙汰、赤穂浪士討ち入りの話がでてくる。というのも主人公の采女の義理の父親が吉良義央で、浅野内匠頭長矩に斬りつけられ、一命をとりとめ養生した義央を采女が見舞うという設定になっている。そして、采女は討ち入り後も現場まで行っている。

  家綱の生類憐みの令の執行は余程厳しかったようで、「本朝牛馬合戦記」で生類憐みの令を茶化し、吉原の女郎を将軍綱吉の生母桂昌院の甥にあたる本庄安芸守資俊に身請けさせたかどで捕縛された朝湖らが、次いで阿久沢弥太夫は釣りと関わって島流しにあっている。苦節数年を経て、家綱が急死し、時代が家宣の時代となり、憐みの令は実質的に廃止となる。朝湖(英一蝶と改名)も弥太夫も恩赦で江戸に戻ってくる。其角は既に亡くなっていた(アル中?)。

  采女らの仲間は、再び釣り三昧の生活に。采女は「何羨録」を著し、釣客人生を全うする。「結の巻」というのが巻末にあり、ここで采女の波乱万丈の人生が再び紹介される。驚きである。子ども、孫が次々亡くなっている。また、自宅の数度の火事に遭遇している。「何羨録」の意義も確認している。「たいへんな名著」とのことである。中国、日本の古今の釣り話から始まって、江戸のさまざまな情報が記されているとのこと。竿の作り方、鍼の作り方、江戸浦の天候の見方、各魚の釣れるポイント、餌の紹介。竿にしても、鍼にしても図解入りという。

  また、日本の鍼の種類の多さににも言及している。他の国にはないことだという。世界中をまたにかけ釣りを楽しんでいる著者が語っているのだから本当であろう


夢枕獏『大江戸釣客伝(上)』講談社、2011年

2012-08-14 00:09:50 | 歴史

               

  江戸時代、将軍が綱吉が家綱に代わり、生類憐みの令が次々と出た頃の話。「釣客伝」というように、釣り人のエピソード。主人公である釣り好きの津軽采女を筆頭に芭蕉の弟子、宝井基角、多賀朝湖、くわえて阿久沢弥太夫、松本理兵衛、岩崎長兵衛、伍大力仁兵衛などの面々。幕府御用達の材木問屋の主でひと財産をなした紀伊国屋文左衛門も登場する。

   かれらの生活と人生を描き、江戸の釣り人の世界がどういうものであったかが小説に仕立てられたのがこの作品である。

  江戸の海を臨む鉄砲州で竿をだし釣り糸を垂れ、釣り上げるのはキス、ハゼ、カレイ、鯛など。そこには「鉤勝負」もあり、賑わっていた。

  采女は津軽弘前藩の支家、津軽信敏の嫡男として江戸で生まれる。身分はなぜか小普請組の武士。生前に釣りの指南書「何羨録」を著している。この書には釣り場紹介から釣り道具、エサ、天候の読み方まで書かれている実用書。彼自身の人生は上杉弾正大弼綱憲の養女阿久里(吉良上野介義仲の実子)と結婚するも、すぐに死別。
  上野介義仲のひきがあって、綱吉の側小姓に登用されたが、綱吉の寝所番を担当中に狂気の最中にあった綱吉当人に斬りつけられお役御免となる。有名な綱吉の生類憐みの令は、当初は犬に関するものであったが、次第に生き物全般に及び、ついには釣りも魚をあやめるものと、釣り船禁止令が発令された。

  上巻では、釣り船禁止令ということになったを嘆く采女、長太夫、弥太夫、理兵衛ら4人が鉄砲州に集まり話をしている場面で終わる。投竿翁の消息、彼の数珠子掛けが話題になっている。それはいったいどういう技のだろうか?


半藤一利『指揮官と参謀-コンビの研究-』文藝春秋社、1998年

2012-06-01 00:25:58 | 歴史

            

 太平洋戦争で日本の国を滅ぼした軍人たちを「指揮官と参謀」の組合わせに焦点をあて,軍隊という組織の脆弱さを浮き彫りにした本です。

  13組の「指揮官と参謀」が登場するが,当然のことながら人間的に魅力ある人物はいないです。軍人がのさばっていたこの時代の異様さが伝わってきます。

  「勝てっこない戦争を奇襲による短期決戦に活路を見出し,和平交渉にもっていこうとしたのが太平洋戦争」「終戦直前に海軍と陸軍とを統合した国防省構想があったが前者がこれを蹴った」など昭和史についてのいくつかの知識を得られたのは収穫でした。

  最終章の「天皇と大元帥-同一人格のなかの二つの顔-」だけは異彩を放っていあす(ある時は仁慈に満ちた天皇として,ある時は大元帥として賞詞を述べるという二重人格)。

  愉快になれない本でしたが,それはもとより著者の責任ではなく,軍国主義日本に,あるいはそれを許した日本人の愚かしさに由来するものです。


乙川優三郎『逍遥の季節』新潮文庫、2012年

2012-05-24 00:01:33 | 歴史

          

  「竹夫人」「秋野」「三冬三春」「夏草雨」「秋草風」「細小群竹」「逍遥の季節」の7編。


  江戸の時代に、芸に身をよせい、芸を夢に見、芸によって現実と関わった人たちの生き方が、巧みな文章で、活写されています。
  その芸とは、三弦、蒔絵、茶道、画工、根付、糸染、雛細工、髪結、活花、舞踏などさまざまです。

  芸をとおして関わる男と女、市井の人々、作者は彼らの生活をいつくしみ、彼らの気持ちによりそって物語っています。際立つのはどうしても女性の生活と人生です。
  「竹夫人」の奈緒、「秋野」の千津、「三冬三春」のヒロインで阿仁(紅雨)、「夏草雨」のふさ、みなそれぞれの境遇のなかで精いっぱいに、自分の人生を引き受け、生きています。彼女たちの生きる姿勢がたくましく美しい。

  実在した人物が登場し(酒井抱一、谷文晁、原羊遊斎、小島漆壺斎、昇龍斎光玉など)、また「夏草雨」「秋草風」が東京国立博物館所蔵の酒井抱一の屏風の画題であるなど、小説でありながら現実味が醸し出されています。作者の巧みな工夫です。
  「解説」で島内景二さんは、さらに読み解いている、「俳句の季節感は、短編集『逍遥の季節』全編に浸潤し、そのみずみずしさの源泉ともなっている。「竹夫人」(夏)から始まって、「秋野」(秋)、「三冬三春」(冬、春)、「夏草雨」(夏)、「秋草風」(秋)、「細小群竹」(冬)、「逍遥の季節」(春)というように、四季が二巡する配列である。/抱一の画題に因んで構想された一対の「夏草雨」と「秋草風」を短編集の中心に配置するためと、再び巡り来た春の生命力をことほぐ『逍遥の季節』から季節の運行が始まったのだろう」と(p.265)。


 何度も読みなおして、味わいたい佳作の玉手箱です。


山本周五郎『五瓣の椿』講談社、2004年

2012-04-12 00:35:12 | 歴史

         

  山本周五郎の小説はこれまで読んだことがありませんでした。いい作品が多いとは聞いていましたが、縁がなかったのです。


 初めてこの「五瓣の椿」を読みました。周五郎作品には人情物、世話物が多いと聞きますが、この小説ではその要素とサスペンス的要素とが綯い交ぜになっています。

 ストーリーは、江戸時代、出生の秘密をしった娘おしのが、それと関わった男に近づき、酒杯を重ねて彼らを籠絡し次々と平打ちの銀の釵で殺します、殺人現場には養父の好きだった椿の瓣が置かれていたという事件のありさまです。

 町方与力の青木千之助がその若い女性に疑いをもつのですが、彼女は要領よく居場所を移し、証拠を掴まれることがありません。

 娘が負った不幸は、男狂いの薬種問屋「むさし屋」の母親おそのが別の男との間につくった子どもだということを、泥酔したおその自身から聞いたことでした。

 亀戸のむさし屋喜兵衛の寮である日、おそのは労咳(結核)で死んだ夫を前にして、菊太郎という若造と戯れていました。怒りにさいなまれ、失意のおしのは寮に火を放ちます。焼け跡からは3人の焼死体が見つかった。当主の喜兵衛、妻のおその、娘のおしのです。天保5年の正月のことでした。
 しかし、おしのは生きていました。その年の晩秋から、おそのと関係のあった浄瑠璃の蝶太夫、医者の海野徳石、肉体的快楽以外に関心事がない香屋の清一、「丸梅」の源次郎が次々と殺められていきます。
 みな「人でなし」の連中、蝶太夫はたて三味線を横取りする目的で兄弟子の利き腕を、やくざを使って折る、徳石はにわか覚えのあやしい治療法で金儲けに血眼になっている、清一と源次郎は情けのかけらもない女たらし。

 「御法定で罰せられない」、けれど到底許しがたい人でなしはどう裁かれなければならないのか。おしのがとった道はただひとつ。彼女の復讐が始まりました。  


保坂正康『昭和史の深層-15の争点から読み解く-』平凡社新書、2010年

2012-03-15 00:00:10 | 歴史

            

 「昭和」という時代が問い直されています。歴史の上では近い過去ですが、意外とよくわかっていないことが多いのです(資料が限られている)。くわえて過去と言っても、現在も生存している人が実際に関わったり、記憶にのこっていることが多いので、評価が難しく、それゆえ歴史的評価、位置づけ、具体的対応をめぐってしばしば論争のテーマとなり、今なお係争中であるものが少なくありません。


 本書では、15のテーマがとりあげられ、著者のコメント、見解が表明されています。
 順に示すと、満州事変前後の国家改造運動、2・26事件、日中戦争、南京事件、太平洋戦争とその歴史的本質、毒ガス・原爆殺戮兵器、北方領土問題と北海道占領、敗戦、東京裁判、占領期の宰相、占領の位置づけ、強制連行、沖縄戦、慰安婦問題、昭和天皇の歴史的役割、となります。
 
 どの問題にも異なる見解があり、一部は論争になってるほどのデリケートなテーマですが、著者は論争のどちらかに肩入れするのではなく、歴史的事象の本質を見極めようとしています。

 例えば、最初の「満州事変前後の国家改造運動」では、昭和5・6・7年の国家改造運動とは何だったのかと問い、この問いに対し、「当事者たちの意思がどのようにして培養されたのか」を示すことが答えになると指摘しています(p.31)。
 著者は個々の問題を考察するにあたって、議論がブレることのないよう複数の視点を提示しています。この点も本書の特徴です。

 いくつか例を示すと、日中戦争に関して重要なのは、(1)戦争終末点を考えていなかった、(2)国際社会の勢力を無視していた、(3)国民に向けての戦争説明がなさあれなかったこと、を挙げている。
 また東京裁判を歴史的に考察するさいの指針を7点列挙しています。(1)東京裁判を貫く一本の芯としての倫理、理念、(2)戦争犯罪人を裁くという法的行為の是非についての考察、(3)戦争責任とは具体的にどのような枠組みでどこまでの範囲で裁けるのか、(4)裁くという側の判事たちの普遍的価値観をどこにもとめるのか、(5)裁いた歯輪の責任はどのような形で問われるのか、(6)人類社会がひとつの地球的共同体に移行するときのバネになりうるのか、(7)思想や理念を裁くということはその全面的な否定を意味するのか(p.159)。問題の視角を定めることは、重要です。

 本書ではまた、そういうことだったのか、という記述にいくつか遭遇した。太平洋戦争の呼称が多様であること(大東亜戦争、アジア太平洋戦争、第二次世界大戦など、このような現象は他国では見られない)[p.86]、戦後、北海道の運命は朝鮮のように分割統治される可能性があり、その帰趨は紙一重だったこと、本土決戦は沖縄戦ですでに始まっていて、北海道出身の兵士が多く戦死し(一万余)、アイヌの人たちも数多く編入されていたこと(pp.220-223)、昭和天皇はA級戦犯が靖国神社に合祀されることに強い不満をもっていたこと(むしろその措置がとられたことを激怒し、以後参拝はやめた)[pp.258-260]などです。


クラウス・フィールハーバー他編/中井晶夫・佐藤健生訳『権力と良心』未来社、1973年

2012-03-10 00:22:04 | 歴史

             

 ドイツの大学人によって組織された反ナチ抵抗運動の象徴として、「白ばら」のそれが知られています。この「白ばら」の活動については、インゲ・アイヒャー=ショルの『白バラは散らず』未来社、C・ペトリの『白バラ抵抗運動の記録』未来社、H・ヤーンケの『鍵十字に反対する白バラ』などが詳しいです。


 本書は、この「白バラ」運動に関わったヴィリー・グラーフ(1918-1943)の手紙、関連した文献をクラウス・フィルハーバーが編集した資料集です。

 当のヴィリー・グラーフはザールブリュッケンの敬虔なカトリックの家庭に生まれ。上に姉のマチルデ、下に妹のアンネリーゼがいました。
 若くして医学を志し、同時に真のキリスト教徒になろうと決意、カトリックの青年集団「新ドイツ」に入りました。

 この組織は、ナチの迫害を受け解散させられましたが、その後「ドイツ騎士団青年会」、「灰色会」に入会。これらは宗教的色彩をもった、反ナチの秘密結社でした。「灰色会」に所属してから北欧ラップランド、ユーゴスラビアに旅行、くわえて文学、詩篇に親しみ、カトリックの進歩的な人々による典礼運動に参加しました。

 ヴィリーはこのように、ナチ体制に原則的な抵抗を示しつつ、青年らしい人生を歩んだのでした。

 そのヴィリーは1933年に、彼を含めた18人の「灰色会」メンバーがその頃禁止されていた反ナチの活動を行ったかどで逮捕されました(恩赦で不起訴)。
 1940年には、戦線に出動、ベルギー、バルカン、ポーランド、ロシアでの戦争を体験、42年春、ミュンヘンに戻って学生生活に復帰。それもつかの間、同年7月には、「白バラ」の仲間(ハンス・ショル、アレックス・シュモレルたち)とともに東部戦線に再動員されました。

 43年2月18日、ショル兄妹がミュンヘン大学の講堂でビラをまいたことがきっかけで、ヴィリーは妹アンネリーゼとともに逮捕されました。
 4月19日、国家社会主義的生活形式の倒壊をパンフレットで呼びかけ、敗戦思想を宣伝し、総統をののしるという反民族的大逆を犯し、利敵行為をとったかどでアレクサンダー・シュモレル、クルト・フーバーとともに死刑判決がくだされます(ヴィリーは10月12日、死刑執行)。

 本書はヴィリーの処刑20周年を記念して刊行されたもので、これを読みヴィリーの人物像、その人生を知ることができます。
 妹アンネリーゼによるヴィリーの小伝、履歴書からの抜粋、メモ、起訴状、手紙と日記からの抜粋、民族裁判所での公判の体験記(ミュンヘンの哲学博士シュデコップフ女史による)、判決と判決理由、刑務所からの手紙、母と妹に宛てた処刑直前の手紙の抜粋が収められています。


渡部房男『お金から見た幕末維新-財政破綻と円の誕生』祥伝社新書、2010年

2012-02-25 00:04:42 | 歴史

               

 日本の貨幣の単位は「円」であり、いまでは誰もが何の疑問もなくそれを受け入れています。貨幣制度はわたしたちの生活にあらかじめ確固として存在していたかのようであり、その設立に大いなる苦労があったと想像が及びにくいです。


 しかし、貨幣制度にしても、「円」にしてもその存立は、それほど昔のことでなく、容易に出来上がったわけでもなかったのです。「円」が貨幣単位として確定したのは明治に入ってから、明治4年(1871年)頃です。「円」の登場には紆余曲折があり、関連して江戸から維新を経て明治に貨幣制度が確立するまでにはドラマティックな展開がありました。

 貨幣制度の確立なしに、近代の国家体制は安定は望めません。本書は貨幣制度の確立に向けた為政者の艱難辛苦を跡づけ、「円」の歴史を詳細にフォローした好著です。

 話は幕末にまでさかのぼります。新政府は東征軍の資金調達に苦慮し、大両替商の後援によってかろうじて遂行されたのだが、それでも足りず、この問題を解消するために貨幣鋳造を行いました。

 確固たる貨幣制度のないなかでのこの対処療法は鋳貨の粗製乱造を引き起こし、ひいては贋金づくりを横行させました。以後、新政府による貨幣政策は太政官札の発行、貨幣制度統一のための銀目の廃止、藩札の処理(製造禁止)、新貨幣の発行へと進んでいきます。

 財政の再建、貨幣制度の全国統一の結果が、「円」の登場となります(国際基準にのっとった「円」という金貨の発行、円表示の「明治通宝札」の発行)。以後、信頼にたる紙幣を製造のために、外国の援助を仰ぎつつ、国内的には153もの国立銀行の誕生から日本銀行の設立に至る過程は、江戸幕府のもとでいわば藩の寄り合い所帯であった状態から、国際社会の一員として日本が成長していくために避けられない試練の道でした。

 この道の立役者としては大隈重信、井上馨、伊藤博文、渋沢栄一、松方正義などの経済官僚の名がまずあがりますが、紙幣作成にあたった得能良介、キヨソネ、トーマス・アンチセルなどの名前も忘れてはなりません。日本の通貨制度の確立に命をかけた人々の息づかいが伝わってきます。


乙川優三郎『麗しき花実』朝日新聞出版、2010年

2012-01-28 00:19:03 | 歴史

                
 江戸工芸の世界に生きた女性、理乃が主人公。原羊遊斎、酒井抱一、鈴木基一おおなどの実在の人物の間に、理乃という架空の女性を登場させ、女性の眼をとして蒔絵職人の虚実、この世界に生きる喜びと苦しみを描いた作品です。


 蒔絵師の家に育った理乃は西国(松江)から工芸職人を目指した兄(次男)の付添として江戸に上ってきましたが、その兄がほどなく急逝しました。彼女は故郷に帰ることなく神田にあった原羊遊斎の工房で働き、身をたてる道を選びます。

 羊遊斎と内縁関係にあった胡蝶が仕切る寮(根岸)に身を寄せ、工房では祐吉、金次郎などの職人が働き、何かと声をかけてくれ、理乃は江戸での生活に慣れ、少しづつ蒔絵の技量も身につけていきました。

 そうした日々が続くうちに、理乃は酒井抱一の下絵帖をもとに櫛をつくることを羊遊斎に依頼され、そこから理乃の苦悩が始まりました。数物を生産、販売しなければ工房の経営がなりたたないことは了解しながら、しかし他人が製作したものに名人の落款をおし、箱書して偽ることなどあってよいのでしょうか。工藝の創作(芸術家)と数物の製作(職人)との際はどこにあるのでしょうか。

 それは鈴木基一にとっても同じであり、自らの製作した屏風に酒井抱一の署名と朱印とがあり、それで満足しているのでした。酒井家の家臣であった基一の立場はこうした代筆を常に余儀なくされたことでし。

 本作品には過去の男とのわけありを背負いながら、基一に誘われることに懐かしさを覚え、祐吉に恋心を寄せ一夜をともにし、工芸の世界に身をおき、狭い世間を生きた女性の想いが生き生きと綴られています。理乃のこうした生き方を際立たせるのは、胡蝶、妙華尼、鶴夫人、きぬ女など男性を陰で支えた女性たちとの関わりの描写です。

 江戸で女蒔絵師として成功する見通しがない理乃は、帰郷を決意しますが、基一との別れの場面で精魂こめて作製した棗(根岸紅)と硯箱(闇椿)を見せる場面は秀逸です。

 朝日新聞朝刊に2009年2月26日から9月9日まで連載され、評判となりました。単行本化にあたり、巻頭には羊遊斎製作の櫛、香合、棗などの写真が色彩豊かに掲載され、眼を楽しませてくれます。

          ←原羊遊斎「狐嫁入り図蒔絵櫛」
  


友岡賛『会計の時代だ-会計と会計士との歴史-』ちくま新書、2006年

2012-01-24 00:34:39 | 歴史

          

 会計とは何か、会計士とは何か、が分り易く書かれています。分り易くと言っても、第4章の「近代会計の成立環境」の解説、第6章の「会計プロフェッションの生々」の説明、第7章の「近代会計制度の成立」の展開に関しては、細かな歴史的経過が叙述されていて、門外漢のわたしにとっては、ポイント以外のことは頭に入ってきません。

 ポイントというのは、次のようなことです。その第4章では企業形体(著者は「形態」ではなく「形体」という用語を使っています)の近代化プロセス、すなわち株式会社の形成プロセスが、ギルドから合本会社、東インド会社の成立[1602年](ただし本書では、1553年のロシア会社を株式会社の起源としている)、南海バブルの崩潰を経て、産業革命以降の企業形体の発展が論じられています。

 第6章「会計プロフェッション」では、会計士の職業が初めて登場したのはスコットランドで1854年のこと(エディンバラ会計士協会)、続いてイングランドに登場したことが書かれています。初期の仕事は、破産関係業務で、後に監査業務が加わったことが指摘されています。

 第7章「近代会計制度の成立」では、監査の仕事が会計士の仕事の中枢となっていく過程が解明されています。

 本書は冒頭で、会計とは何か(「accountは説明」の意味)から始まって、財産の管理との関わりで委託、受託の概念がキーワードとして示され、監査の重要性(その意義と目的は「納得」)、会計プロフェッションが登場する必然性、複式簿記の意味(資本と利益とを対象として体系的に行われる記録ないしそのジステム)などが解説され、以後、会計の歴史(15世紀イタリア[複式簿記]→16,17世紀ネーデルランド[期間計算]→18,19世紀イギリス[発生主義])をたどるという構成をとっています。

 著者によれば、近代会計制度は機能面と構造面とから捉えることができるとのこと。前者の側面でみると近代会計制度は委託、受託関係の近代化に他ならず、後者の側面でみると期間計算が発生主義で行われること、この発生主義は産業革命とそれによってもたらされた交通革命をもって完成するとされています。

 会計(学)はかつて一般にはあまり縁のない分野であり、またその分野に足を踏み込んでも無味乾燥の世界と受取られていましたが、近年事情が少し変わってきました。著者はその流れを敏感に掴んでいて、それならばということで本書を執筆し、内容を面白くするために歴史的な叙述の方法をとったようです。入門書として、よくできているように思いました。


ジャレド・ダイアモンド/楡井浩一訳『文明崩壊-滅亡と存続の命運を分けるもの-』草思社、2005年

2011-11-30 00:08:48 | 歴史

               文明崩壊(上巻)

 著者ジャレド・ダイアモンドは『銃・病原菌・鉄』を著し、1万3000年にわたる人類の歴史の形成過程を明らかにしました(本ブログでは、2009年12月11日付、2010年12月13日付)。本書は続編でありながら、その対極にある崩壊した人類社会のケーススタディーです。

 かつて繁栄をとげた社会が崩壊し、消滅したのはなぜか(あるいは崩壊の危機に瀕している社会はどうしてそうなってしまったのか)、その原因は何なのか、これが本書のテーマです。

 とりあげられた事例は、アメリカ合衆国領内に住んでいたアナサジ族、中央アメリカのマヤ文明の諸都市、太平洋に浮かぶイースター島などです。

 それらを崩壊に至らしめた環境要因としてその分析が欠かせないものは、著者によれば、森林乱伐、植生破壊、土地問題、水資源管理問題、鳥獣の乱獲、魚介類の乱獲、外来種による在来種の駆逐・圧迫、人口増大、一人当たり環境侵害量の増加、人為的に生み出された気候変動、環境に蓄積された有毒化学物質、エネルギー不足、地球の光合成能力の限界です。

 著者はさらに想定される全ての崩壊について理解を深めるには、環境被害、気候変動、近隣の敵対集団の存在、友好的な取引相手、環境問題への対応、についての考察が必要であると述べ、これら5つの要因が本書での著者の分析の基軸になっています。人類はそれらの一部を決定的要因として、あるいは複合的に絡み合った要因を背景に崩壊したという歴史的経験をもつ、という論旨です。

 第Ⅰ部「現代のモンタナ」では現代のモンタナの環境問題が論じられています。現在のモンタナの環境問題とは、有機廃棄物(鉱業残留物を発生源とする化学肥料、有機肥料、浄化槽内容物、除草剤などの流出)の影響、森林、土壌、水資源の深刻な被害、気候変動、生物多様性の低下、有害な外来種の問題のことを指し、世界中の社会を脅かしている問題が集中的に現れています。

 第Ⅱ部「過去の社会」では、崩壊した過去の社会に関する記述である。「純然たる」生態学的崩壊の例として(徹底的な森林破壊)イースター島の歴史が、近隣の友好集団からの支援の欠如で崩壊にいたった例としてピトケアン島とヘンダーソン島が、環境被害と人口増大に気候変動(旱魃)が絡んだ崩壊の例として、アメリカ合衆国南西部のアナサジ族とマヤ族(唯一解読可能な文字記録をもっていた)が取り上げられています。

 第6章から第8章で論じられているノルゥエー領クリーブランドは得られた情報量が比較的多く、また実験室内で行われた崩壊の実験のようでもあり、興味深いです。とはいえ、内容的には複雑で、それぞれが環境被害、気候変動、隣り合った社会との友好的な交流の喪失、敵対的な関係の発生が絡んでいます。また、この地での人類の経験は、致命的諸要因があっても崩壊が必ず到来するのではなく、社会の選択次第であるというメッセ―ジを伝えているという点で無視できない経験を伝えています。
 すなわち、同じ島をふたつの社会(ノルゥエー人とイヌイット)が分け合っていながら、互いの文化が違いすぎ、前者が死に絶え、後者が生き残ったという経験です。

 上巻はここまで。以下、下巻に続きます(第Ⅱ部の第9章から)。


斎藤治子『令嬢たちのロシア革命』岩波書店、2011年

2011-10-10 00:08:30 | 歴史

       
 本書はロシア革命に前後する政治の季節に革命運動に身を投じた5人の女性(いずれも特権階級に生まれ高い教養を有していた)の評伝を核に、当時の社会事情に焦点を絞って書かれた力作です。

 意義として指摘できるのは、ソ連崩壊後、以前は陽の目をみなかった歴史的資料が発掘され、それらが使われていることです。最初に取り上げられたアリアドゥナ・ティルコーワの評伝ではそうしたものが活用されていますし、レーニンとイネッサ・アルマンドの関係も公表された往復書簡にもとづいて叙述されています。
 第二の意義は、女性革命家の活動に重きがあるので、ロシア革命のこれまでにあまり知られなった側面が照射されていることです。
 アリアドゥナ・ティルコーワもそうですが、アレクサンドラ・コロンターイ、エレーナ・スターソワ、イネッサ・アルマンド、マリーヤ・スピリドーノワなど有能な女性が歴史の変革に大きな役割を果たしていたことがわかります。

 ロシア革命の歴史を扱った従前の書物には、その部分の展開が弱く、ともすると革命は男たちが遂行したかのように認識されがちでしたが、事実は全くそうでないことがわかりました。
 
 関連して女性革命家の肖像を描いたがゆえにクローズアップされた女性に固有の問題、すなわち愛、出産、子育てへの彼女たちの意識にも光があてられ、その叙述がなかなか興味深いです。

 レーニンとこれらの女性たちとの関わりも新鮮でした。レーニンと全く対等に論争したエスエル左派のコロンターイ、そのフランス語の能力にレーニンが頼りきっていたイネッサ・アルマンド、秘書的役割で片腕として活躍したスターソワ、等々。

 革命がスローガンに掲げていた「講和」「土地」「パン」で、「講和」に関してはコロンターイが、「土地」に関してはスピリドーノワが、「パン」に関しては一般の女性たちが牽引していたという指摘は、炯眼です(p.249)。
 また、ロシアにとって全く不利だったブレスト=リトフスク講和条約の締結を急務としたレーニンに対しイネッサ、コローンターイ、スターソワは締結に反対した(p.261)という記述は貴重です。
 当時、非常に規模の大きな女性会議(集会)が何度も開催されていた(1908年12月の全ロシア女性大会、1910年8月、1915年3月の国際社会主義女性会議、1934年8月の全世界反戦・反ファシズム女性会議など)ことは初めて知り、驚きました。

 レーニンがネップ(新経済政策)に舵をきったことを、これに反対したコロンターイとの対比で著者は「プラグマティズム」と書いていますが(p.275)、ここは「現実主義的対応」と書くべきだったのではないでしょうか。
 
 また、1936-37年あたりのスターリンの粛清、恐怖政治には改めて戦慄を覚えました。

 最後に、本書は構成が工夫されていることを強調しておきます。話の筋はまず二月革命直前までの5人の出生から娘時代まで、それから1917年の2つの革命(2月革命、10月革命)とそれ以後の彼女たちの人生、というように二段構えで劇的な効果をもつようになっています。


С.Л.ブトケヴィッチ/中山一郎訳『ゾルゲ=尾崎事件』青木書店、1970年

2011-08-26 00:24:06 | 歴史

 ゾルゲ=尾崎事件は、その真相究明に不可欠の文書が戦争中に焼失したり、意図的に破棄され、くわえて種々の事実を歪曲した宣伝が功をそうして、戦後なかなか真実がわからなかったようです。
 しかし、みすず書房が1962年に資料を『現代史資料・ゾルゲ事件(1-3巻))』として刊行し、客観的分析が可能になり、状況は好転しました。この資料には1933年から1941年まで、日本で活動したゾルゲ諜報団に加わった人々に対する捜査尋問、裁判に関係した資料がおさめられ、さらに尋問と裁判に関係した補足的資料が付け加えられている、といわれています。

 著者のブトケヴィッチは、この資料を丁寧に読み込み、ゾルゲ事件が全体としてでっちあげの冤罪であることをクリアにしました。

 起訴されたゾルゲ諜報団が極刑を受けたその罪状は、「治安維持法」「国防保安法」「軍機密保護法」「軍用資源秘密保護法」の4つの法律に違反したかどでした。とりわけ「治安維持法」「国防保安法」違反の罪が大きかったといわれていますが、ゾルゲ諜報団は国体を覆すような企てはおこなっていませんし、彼らが得た情報は大使館レベルで公的に入手可能なものに限られ、その他の情報も個人的見解にすぎないものでした(国際政治の諸問題、極東における国際関係の発展傾向ならびに日本の体内諸問題と対ソ政策)。

 少なくとも、コミンテルンの命を受けて、日本を共産化する活動を展開していたという事実はなかったにもかかわらず、ゾルゲ諜報団は理不尽な解釈のもとで逮捕され、予審という裁判の原理を無視した条件のもとで、予審判事の主観的判断が議論の余地のないものとして受容され、被告の運命が予審判事によって決定されたも同然の状況でした。

 本書は前半の7章(Ⅰ 特高との対決、Ⅱ 取り調べの舞台裏、Ⅲ 訊問調書はなにを物語っているか、Ⅳ 検事局と特高による訊問調書の偽造、Ⅴ 予審、Ⅵ 公判)を費やして、ゾルゲ事件、ゾルゲ裁判の実態、ゾルゲ、尾崎秀美の人柄、彼らがそこでどう闘った、当時日本の政治状況などを詳しく分析し、その成果を解説しています。

 「Ⅷ訊問調書の歴史」では、日独協定から日独同盟への展開経緯、アメリカの対ソ政策、軍部の対ソ戦略の確執、などが明らかにされています。

 ドイツがソ連に侵攻した事実が日本にとって寝耳に水だったかのように言う研究者がいますが、そんなことは全くなかったこと、当時、日ソ不可侵条約があったにもかかわらず軍部のなかにはそれをいつでも無視するつもりでいた人がいたことなどが指摘されています。

 最後の「Ⅸ ゾルゲ事件とイデオロギー闘争」では、ゾルゲ事件あるいはゾルゲその人をとりあげ、勝手な事実無根の反共宣伝をおこなった小説、怪文書に徹底的な批判をくわえています。

 全体を読了すると、ゾルゲ諜報団はコミュニズムが世界を救うイデオロギーだと信じた人々の集合体で、日本に潜入したさい(1934年)のミッションは日本がシベリアに軍事的進行するのかを当時の国際環境のなかで分析するための情報収集であり、デマ宣伝、テロ支援、国家転覆などを目的とした組織ではなかったのです。

 今から振り返ると、ゾルゲ諜報団は日本の軍部が当面シベリア侵攻しないという確かな情報を流したことで、ソ連極東軍をナチスドイツに対するモスクワ防衛にまわすことができ、結果的に大祖国戦争を勝ち抜き、ナチスの世界支配の野望の実現を阻んだともいえます。その歴史的意義は、大であったのではないでしょうか。


山下文夫『津波てんでんこ-近代日本津波史-』新日本出版社、2008年

2011-04-30 00:32:48 | 歴史

              津波てんでんこ
 「てんでん」というのは「てんでんに」「てんでんばらばらに」という意味で、「てんでんこ」と「こ」が付いているのは、岩手の方言で、可愛らしく表現するときのやり方です。

 「津波てんでんこ」は、津波がきたら、「てんでんばらばらに、他人のことをかまってないで(場合によっては家族も)、一目散に逃げろ」ということです。

 本書で民間の地震研究者である著者は、日本に起きた8つの津波の実態を紹介し、そこから教訓をひきだしています。8つの津波とは、明治三陸大津波(1896年6月15日)、関東大震災津波(1923年9月1日)、昭和三陸津波(1933年3月3日)、東南海地震津波(1944年12月7日)、東海地震津波(1946年12月21日)、昭和のチリ津波(1960年5月23-24日)、日本海中部地震津波(1983年5月26日)、北海道南西沖地震津波(1993年7月12日)です。日本は世界一の地震国であり、三陸海岸は津波常習海岸、宿命的な津波海岸とのこと。

 明治三陸大津波、関東大震災津波、昭和三陸津波は、吉村昭の本で詳しくしっていましたが、東南海地震津波、東海地震津波のことはあまり知りませんでした。それもそのはずで、この2つは太平洋戦争敗戦前後の地震にともなって生じた災害、、被害の実態はほとんど隠されていたとのことです。

 また、昭和三陸津波は日本の中国侵略の頃で、被害にあった東北地域の青年は家族の被災を背負いながら大陸に派兵されたとのことです。

 地震にともなう俗説がたくさんあること(井戸が渇水すると津波が来る、地震が起きてからご飯が炊きあがる時間に津波が来る)
、また地震災害は風化しやすいことを踏まえて、とにかく防災教育、訓練、意識が肝要と、繰り返し述べられています。

 ちなみに、著者は今回の東日本大震災の最中、陸前高田の県立病院に入院中で、4階の病室にいたそうで、研究者として津波を見届けたいとの思いがあり、逃げ遅れ、ようやく助けられました。「すぐに逃げなかったことを反省している」と弁明しています。以上は、朝日新聞4月3日付朝刊の記事で紹介されていました。


林健太郎『ワイマル共和国』中公新書、1963年

2010-12-29 00:11:23 | 歴史
                           ワイマル共和国 ヒトラーを出現させたもの
 第一次世界大戦も後半の1918年3月から7月にかけてドイツは起死回生をもくろんだ西部戦線の大攻勢が失敗、以後ドイツ軍は退却に退却を余儀なくされます。すでにそれ以前から国民生活は窮迫し、厭戦気分が強まり、ベルリンでは大規模なストライキが起こったり、開戦のおりに戦争を支持したドイツ社会民主党のなかに戦争継続に反対する一派が分離し独立社会民主党が結成されるような状況もでてきていました。

 ドイツ最初の政党内閣であるマックス内閣の成立、皇帝ウィルヘルムの退位問題があり、1917年11月のキール暴動を契機に労兵協議会が都市部を支配下におさめ、革命的情勢は一挙に進展します。社会民主党のシャイデマンの宣言によって共和国が成立、新共和国は1919年に史上初の民主的憲法というワイマル憲法を採択しました。

 しかし、ワイマル共和国は14年の生命しかなく、その胎内からヒトラーを党首とするナチスト党という妖怪が生まれることになります。なぜ、そのような事態になったのでしょうか。

 本書はワイマル共和国成立後の諸政党の確執と民意の動向を追跡し、そのプロセスを解明する意図のもとに書かれたものです。

 著者によればワイマル共和国の失敗の原因は、ヴェルサイユ条約の苛酷な条件と世界経済恐慌などの背景があったのですが、内部的にはハイパーインフレーションによる中間層の没落、国政上の欠陥、すなわち大統領内閣という構造があったこと(ヒトラーの首相就任も国民多数の意思表明の結果ではなく、大統領による任命であった)、国会が政府選出の機能を失っていたこと、共和国は政党政治を標榜していたが政党が民主主義を実現するまでに成熟していなかったこと、結果的に官僚と軍隊が共和国の最大の実力者となってしまったこと、ドイツ国民自体がビスマルク以来、官僚支配に馴らされ、自らが国家を形作るという見識と気概、慣行に欠けていたこと、ナチスの悪魔的体質を見誤っていたこと、などにあったと書いています。

 文中、実に多くの人物が登場します。エーベルト、グレーナー、ローザ・ルクセンブルク、リープクネヒト、カウツキー、ヒルファーディング、ノスケ、シュトレーゼマン、ゼークスト、シュライヒャー、ブリューニング、シャハト、パーペン、などなど。小説にしたてたら面白いはず、と著者は書いていmます。確かに。


  この本の出版は、相当古いです。わたしが学生の頃、もとめたものです。ワイマル共和国の研究がこの本が出版されたあとどうなっているのかは、門外漢なので不明ですが、いまだに版を重ねて出版されていることを鑑みると、内容的にそれほど陳腐化していないようです。
 また著者の林健太郎は、わたしが学生のころ、周囲ではあまり評判がよくなく、この本を読むときにも若干の躊躇があったのですが、実際に読んでみるとそれほど偏った見方をしているとも思われませんでした。もっともワイマル共和国そのものががかなり政治的な環境のなかで推移したのですから、中立的な執筆の仕方は無理と思いますが、いくつかの叙述の不公平さは認められたものの、冷静に客観的に史実をリアルに追って書かれていました。